二〇二✕年 盛夏

三の一 ブライアン 七月二十四日

 ――日本の暑さは、肌にまとわりついてくるような、嫌な暑さだな。

 ブライアン・ステイシーはそう思いながら、木陰の、花壇の縁に腰をおろした。ずっと木陰にあったはずなのに、そのレンガは生ぬるく、途端にお尻が汗ばむのだった。

 愛知県N市の栄という町にある長大な公園は、道に挟まれた敷地が幅七十メートル以上、南北一キロ半以上もあって、ブライアンのいる噴水の前から北を眺めれば、テレビ塔と呼ばれる電波塔がそびえたって、夏の夕暮れ空に雄大に映えているのであった。

 目の前にある噴水は、円形の池の中に、丸い皿のようなオブジェクトが三枚ほど互い違いに積んであって、そこから水が滾滾と溢れ出てきていた。

 見ていると、母親が水遊びしたいとごねる子供を、もう帰る時間だからと子供の手を引っ張って連れて行こうとしていた。子供は未練たらたらで、石のブロックで覆われた池の端を手で叩きつつ、それでも大人の腕力にはかなわず、引きずられるようにして去って行くのだった。

 その親子の脇では、トバイアス・ケリーが気取ったように池の端を、水の冷気を堪能するように歩いていた。

 まったく呑気なものだとブライアンは思う。

 人が意思を失ってトバイアスを捕らえようと襲って来る謎。その謎を解く手がかりが日本にあるというトバイアスの言辞に従って日本に来たまではよかったが。

 カリフォルニアから成田空港へ到着し、成田から東京へ、東京から神奈川、静岡、愛知へと、トバイアスの、何かありそうだ、という勘を頼りに西へ西へと徘徊するように旅を続けていた。途中、浜松というところで三日も滞在し浜名湖という湖の景色を堪能しているようにしか見えないトバイアスに、ブライアンは、

 ――お前、謎の探索に名を借りて、旅行を楽しんでないか?

 あきれるように訊いたことがあった。トバイアスは、何か思惑ありげににやりと笑って、

 ――そりゃあ、日本なんて次にいつ来られるかわかったもんじゃありませんから、楽しむだけ楽しみましょうよ。

 そんなふうに言ったのだった。

 そんなことを思い出しながら溜め息混じりに空を見上げると、視界は植え込みの梢にさえぎられ、その木からは、蝉の声がしきりに降りそそいでくるのだった。

 日本の蝉は綺麗な声で鳴く。

 アメリカではただ耳にうるさいだけだった蝉の声が、日本に来てからは、なにか不思議な音律で交響曲を奏でているように聞こえるのだった。

「おじさん、暇そうね」

 不意に影がさしたかと思うと、見知らぬ女が前かがみに腰を折って、流暢な英語で話しかけてきた。

 二十歳くらいのその女は、ウェーブのかかったあきらかに染めたとわかる不自然な赤い長い髪をして、濃いアイシャドウに、どぎつい頬紅に、真っ赤な口紅を塗って、パンクファッションと言えばいいのか、だらしのないずいぶんゆったりとした服を着て短いスカートを履いて、これはあきらかに商売女だな、と思わせる風貌であった。

「ねえ、二、三時間遊ばない?」

「あのね」ブライアンは溜め息混じりに返した。「そういうことが好きそうな男は、ちょっと探せば掃いて捨てるほどいるだろう。他を当たってくれ」

「おじさん、なにか勘違いしてるでしょう」

「勘違いだって?」

「私はただ、食事してお話しして、ちょっとお小遣いをもらおうかな、という話をしているのよ」

「いや、なにも勘違いしていないと思うが」

「いや、私をコールガールかなにかと勘違いしているわ」

「違わないだろう」

「違うわよ。私はただ、今日会うはずだったパパにすっぽかされたから、代わりのお相手を探しているの。パパ活よ、パパ活」

「パパ……、何?」

「いまおじさんが想像しているような関係は無しよ。デートするだけ」

 ブライアンは頭を抱えたくなってきた。そこへ折よく、

「何してるの先生。ナンパ?」

 トバイアスがそう言いながら近づいてくるのだった。うまい具合に助け舟が来着してくれた。

「え、なんだ、子連れかよ。っていうか先生?」女はあからさまに落胆した様子である。

「いいじゃん先生。食事くらいおごってあげなよ」ニヤニヤとしながらトバイアスが言った。助け舟がたちまち流刑船に変貌をとげたようだ。

「馬鹿を言え。お前にはまだ早い。いや、一生こういう女性とは関係を持っちゃいかん」

「あ、ちょっとおじさん、それ職業差別よね」女は目を怒らせて言った。

「差別されたくなければ、真面目に働きなさい。それだけ英語が喋れるんなら、他に適切な職業はいくらでもあるだろう」

「いまどきのパパ活は、インターナショナルなのよ。いろんな国のおじさんとデートしなくちゃいけないのよ。わかる?」

「わからん」

「もういいよ」トバイアスがすねたような顔をして、「こんなわからず屋の先生は、放っておこう。お姉ちゃん、僕がご飯をおごってあげるよ」

「お、ガキンチョ、話せるう。行こう行こう」

「こら、ふたりとも、馬鹿言ってるんじゃあない、こら待ちなさい」

 大きな溜め息をひとつついて、しぶしぶブライアンはふたりを追った。

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