二の四 ブライアン 六月十六日

 まったくひとけのない校舎には、不気味なまでの静寂と虚無が漂い、息をする音すらも、胸の鼓動の音すらも聞こえて来そうなほどであった。

 同僚の英語教師トンプソンとともに廊下を歩きながら、ブライアンは目の端になにかが動いた気がしてどきりとした。

 振り向いて見れば何のことはない、生徒が鍵をかけ忘れたのだろう、壁に並んだロッカーのひとつの扉がきいきいと乾いた音を立てながら揺れている。

 中から汗にまみれた体操着のシャツやら、食べかけのスナック菓子の袋やらが見えたが、見ないふりをしてブライアンはそのロッカーを閉めて、トンプソン先生のもとに戻ってぼやいた。

「まったく、今日で学年末だったってのに、あの生徒は夏休みの三カ月どうすつもりなんでしょう」

「まあ、三カ月後に冷や汗をかくのは彼自身ですから、放っときましょう」

 そう言ってトンプソン先生はがははと笑った。彼は、五十歳くらいで百九十センチの身長と、肉付きの良い体と、赤ら顔の下半分を髭で覆っていて、こういう深夜の見回りの御供にはうってつけの人物であった。

 彼と並ぶと、百七十五センチでほどほどの体格のブライアンが、実に貧相に見える。

「いや、補習組の生徒かもしれませんね」

「ステイシー先生は夏休み返上で補習の授業ですか」

「ええ、二週間ばかり」

「私はカールソン先生にお任せです、がはは」

「うらやましいかぎり。補習の期間も、夜中の見回りを続けろと校長が言い出さないかの方が心配ですよ」

「あの校長なら言い出しかねませんな」

「もう二週間も見回りを続けているのに、まるで黒魔術の儀式の気配すらないんですから、ただの生徒たちの間ではやっている噂話なんでしょうが」

「ところでステイシー先生、外を見まわったことはありますか」

「いや、外は盲点でしたな。教室やトイレや体育館、とにかく室内に違いないと思い込んでいましたから」

「体育館裏が怪しいと思いませんか」

「なるほど、あそこはたしかに木立に囲まれてますし、通りからは奥まっていますし、ありえますね。しかし良い勘をされていますね、トンプソン先生」

「いやなに、私が教師に隠れてなにか悪いことをやるんなら、その辺でやりますからね」

「やったことがあるような口ぶりですね」

「昔ですよ、昔」

 いたずらっぽく言って、トンプソン先生はまたがははと笑った。

 ふたりはいったん体育館をのぞいて、無人であることを確かめると、外へでた。体育館の壁にそって進み、角の向こうが、木立で街灯も届かない真っ暗な場所であった。その角を曲がると、木木の合間から、青白い燐光のような明かりが透けて見えて、鼓動が高く打ちつけた。ふたりは顔を見合わせると、懐中電灯片手に、おもむろに明かりに向かって歩き始めた。どうせ後ろ暗いことをやっている連中である。大声で一喝すれば、蜘蛛の子を散らすように逃げ去るに違いない。

 そう思いながら、近づいていくと、青白い薄明かりのもと、行われている儀式の様子が見えてきた。

 木立の中の五メートル四方の空間に魔法陣を描いて、その周りを黒い覆面とマントに身を包んだ者達が五人ばかり取り囲んで、なにやら意味不明な呪文らしきものを唱えている。ブライアンも十代の頃ならその不気味さに震え上がったことであろうが、さすがに四十五歳ともなると、ごっこ遊びの黒魔術儀式に恐れおののくこともなかった。なかったのではあるが、青白い燐光に照らされた黒服の者達は、言い知れない不気味さを内包していて、ある種の不安感と警戒心とがないまぜになって、胃の辺りに湧いてくるのも事実であった。

 生唾を飲み込みながら、ブライアンがさらに進み出た。不意に耳のそばでうめくような声がし、振り向くと、トンプソン先生が、泡を吹きながら膝を突き、やがてその巨体を雑草の中にばったり横たえてしまった。

「先生、トンプソン先生」

 ブライアンが静かに呼びかけながら、ゆすり起こそうとするが、トンプソン先生は呻くだけで起き上がる様子はなかった。

 儀式の場所までは十メートルほどで、彼らは儀式に夢中なのか、こちらにはまったく気がついていないようだ。

 ともかくトンプソン先生を医務室まで運んで救急車を呼ぶべきか、それとも、あの儀式をとめるのが先決か……。

 数瞬の尻込みの後、ブライアンは意を決して立ちあがり、集団へ向けて歩き出した。

「待って、先生」

 声に振り返ると、トンプソン先生の向こうに、懐中電灯の明かりに照らされて、少年がひとり立ってこちらをじっと見ているのだった。

「トバイアス……?どうしてここに」

 トバイアスはそれには答えず、

「もうちょっと様子を見ましょうよ」

 ブライアンはあまりに意表を突かれて、茫然と少年を凝視した。そうしてしばらくしてやっと、

「そういうわけにはいかん。彼らを叱らなくてはいけないし、トンプソン先生の容態も心配だ」

「トンプソン先生は悪い気に当てられて気を失っただけです。そのうち目を覚ましますよ」

「悪い気?」

「えっと、あの、うまく説明できないな。フォースの暗黒面?」

 瘴気、のようなものであろうかとブライアンは思考した。

「そんなばかな、あんな儀式もどきのお遊びに」

「あれは遊びなんかじゃありませんよ、みていて」

 言われて儀式の成り行きを見つめるブライアンの視界のなかで、魔法陣が青白い輝きを増し、中からうねうねと触手のような黒い正体不明の何かが這い出てくるのであった。そして、触手は、周りを囲む者達に何本かずつ絡みついていく。

 驚愕、というよりも、ブライアンはかえって無心になってしまうほどの光景であった。いや、頭が真っ白になった、という表現が適切であろうか。

 ――いけない。

 とブライアンは直感した。このままでは、悪い気だかフォースの暗黒面だかに彼も当てられてしまいそうな気がする。

「お前たちっ!」

 ブライアンはあらんかぎりの声で叫ぶと、木陰から飛び出し、儀式に向かって駆けた。

 黒覆面の者達は一斉にこちらを見、混乱に陥ったのだろう、悲鳴を発しながら闇の中へとたちまち消えていった。魔法陣の明かりも消えて、中から湧き出していた触手のようなものも姿かたちもみえない。まるで幻をみていたような心持ちである。

 トンプソン先生の所へ戻ると、トバイアスの姿も消えていた。彼もまるで幻のようであった。

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