二の三 茂治 六月十三日

 雲が空一面に墨をたらしたように広がっているとはいえ、天気予報でも降水確率は低く、実際空気に湿り気も感じず、雨の降る気配はまるでなかった。

 田村茂治は今日とばかりに自転車を走らせて、謎の少女の通う笹木原高校付近へと急いだ。

 先日、コンビニ前での会遇してこのかた、またぷっつりと運命の糸が切れてしまったように姿形も見えはしない。

 あの時、もっとうまく名前くらいは聞いておくべきだった、と茂治は後悔していた。

 そして今日も、あのコンビニに立ち寄って、彼女が現れるのを期待しながら、三十分ばかりも店内をぐるぐると回って時を費やし、ドーナツ一個とオレンジジュースだけ買って店をでた。

 その店からちょっと離れた神社の隣に作られた公園を見つけると、そこのベンチに腰掛けて、ドーナツを食べた。

 薄く陽の差し始めた公園はところせましとばかりに子供たちが駆けまわっていたし、広場を挟んだ向こう側のベンチには、笹木原高校の女生徒が人待ち顔で座っていたり、皆が梅雨の合間のわずかな晴れ間を楽しんでいるようだった。

 しかし、茂治の心は晴れないままであった。今日も空振りであった。いつになったらあの少女と再会できるのか。明日は市立図書館まで足を延ばしてみようか。そんなことを考えながら、ペットボトルのジュースを飲んでいた。

 気がつけば、向こうのベンチに腰かけていたセーラー服の女生徒の横には同じ高校の制服の、カッターシャツをだらしなく出した男子生徒が座っていて、何かひそひそと語りあっているのだった。

 昼間からいちゃいちゃとふしだらなものだ、と思いつつ、茂治が立ちあがると、その男子生徒が広場を突っ切って、茂治の所へ駈けてくると、いきなり胸倉をつかみ上げた。

「てめえ、どういうつもりだ」

 まさに青天の霹靂と言おうか、雷にうたれたように、茂治は驚愕し言葉が出てこなかった。

「最近、この辺うろうろしやがって、俺の女のことつけまわしてるんだろ」

 この男子生徒はいったい何を勘違いして言っているのか、茂治にはまったく見当がつかなかった。

 見れば、茶色いセミロングの髪をした女生徒が、男子生徒の後ろから、なにかけがれたものでも見るような目で、こっちを見ているのだ。

 まったくの、誤解だし、彼女を見るのも今日が初めてだ、と言い返すのが本当であろう。が、茂治は脳内が混乱の極みに達していた。

「ご、ごめんなさい」

 と悪くもないのに詫びてしまうのだった。

「あやまるくらいなら、ストーカーしてんじゃねえよ」

 唾を撒き散らしながら、男は言うのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 さらに、謝り続ける茂治は、やがて、ベンチの上に押し倒されて、男は今にも茂治に殴りかかろうと拳を振り上げた。

「ごめんなさい、もうしません、ゆるしてください」

 茂治は助かりたい一心でひたすら謝るのだった。なんでこんな災難に僕が会わなくてはいけないんだ。間違っているのは相手なのに、ただ弱いからというだけで、なぜ僕があやまらなくてはいけないんだ。そう思いつつも、茂治の口からは、みじめに哀訴の言葉しか湧き出てはこない。

 頬に向けて何度も振り下ろされる拳を、茂治は腕で防ぎつつ、

「ゆるしてください、助けてください」

 許しを求める言葉などまるで耳を貸さず、男子生徒は何度も茂治を殴った。

「お待ちなさい」

 そこへ突然澄み切った女性の声が聞こえてきた。

 見ると、ベンチの脇にいつも間にか女性が立っているのだった。

 女性は、白い肌をして純白のゆったりとした服を着て、肌が透けそうな薄手のマントのようなプルオーバーに身を包んで、長い髪ばかりが漆黒につやめいて、なにかこの世の者とは思えない、言い知れぬ雰囲気をまとっていた。

 柳のような眉に、少し下がり気味のまなじりの、くっきりとした二重をした目に、瞳は琥珀色に澄み切って、鼻すじはゆるくカーブを描き、ふっくらとした唇は鮮やかなピンク色にきらめいている。

「何があったかは存じませんが、その子はそんなに怯えているではありませんか。助けを請う人を打擲ちょうちゃくするなど、品性優れた人のすることではありません。立ち去りなさい」

 二十なかばと見える女性は、優しい声音でしかし毅然と男子生徒に言うのだった。

 さらに、公園の入り口からは眼鏡をかけた秀麗な男が近づいてきて、気障な感じに指で眼鏡を押し上げて女性のそばに寄り添うようにして立ち止まった。

 ふたりの凛凛しい姿に気おされたのであろう、男子生徒はしぶしぶといったふうに立ちあがって、ふんと鼻をならすと女生徒とともに去っていったのだった。

「巫女様、お戯れが過ぎます」

 そう耳打ちするように言った気障男の言葉を聞き流しにして、巫女と呼ばれた女性が茂治に手を差し伸べた。

 差し伸べられた手を握り返し、茂治は温かい手だと思った。柔らかく、ちょっと力をいれると折れてしまいそうなほどに細く華奢であった。彼女の全身からは甘い何かの花の香りがした。学校の女子生徒達がつけているような安物の香水の匂いではなく、もっと優雅で清らかな、天国に咲いている曼珠沙華まんじゅしゃげという花はこんな香りなのではないかと思わせるような妙香であった。

「お怪我はありませんか」女性は微笑んだ。春のように温かい笑顔だった。

「は、はい」と起き上がりながら、茂治は答えた。「ありがとうございました」

 そう言って名残惜しい気持ちで手を離した。

「どういたしまして」

「なぜ、助けてくださったのでしょうか?」

「そうねえ、可能性を感じたから、ではいけないかしら」

「可能性?」

「あなた、不思議な声は聞こえたことがあって?」

「いえ、ありません」

「そう。何か変わった体験をしたことは」

「た、体験。そう、この間、ウォーキング中に化け物に襲われて、超能力を持った女の子に助けられて、僕もそんな超能力が欲しかったから、その子を探していて。あ、ごめんなさい。おかしなことを」

「どうして、素敵な体験だわ」

「え?」

「でも、その黒い影、あなたを襲ったのではないと思うわ。きっと、お友達になりたかったのね」

「お友達?」

「あなたに黒い影が近づいたのは、あなたに可能性を見出みいだしたからではないかしら。あなたの望む力は、その女の子ではなくて、黒い影の方が与えてくれる気がするわ」

 茂治の全身が不思議な感覚でつつまれるように思えて、この女性の言うことはすべて真実だと思えた。

「いずれまたお会いしましょう」

 この女性はなんでも知っているような言い方をする。自分の心も見透かしているし、化け物を黒い影と言い当てている。

 ――この人はいったい……。

 茂治は女性が公園を出て、黒いセダン車に乗り込んで去っていくのを、ぼんやりと見送ったのだった。

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