二の五 エメリヒ 六月十九日

 キーム湖までは君にはまだ早い、というエメリヒ・クルツの忠告にまるで耳を傾けようともせず、無邪気というべきか頑迷というべきかグレートヒェン・コールはキーム湖まで行くと言ってきかない。

「途中のシムス湖までにしよう」

「キーム湖までここから二十キロくらいなものでしょう、平気よ」

 ほんの一週間くらい前に、エメリヒが自転車店まで一緒に行って選んで買った、台湾製の白いクロスバイクにまたがって、グレートヒェンはそう言う。

 自転車初心者なら、ロードバイクはかえって乗りづらいだろうからクロスバイクにしたらどうだ、コンポーネントもそんなに良いのはいらない、日本のチマノのティアクラぐらいでいいだろう、とエメリヒがずいぶんアドバイスして選んだ、初心者にしてはそこそこな性能のものだ。

 そんな自転車ツーリング初心者のグレートヒェンが、片道二十キロのコースを走ると言い張るのだ。

「途中でバテても知らないからな」

「ふん、そういう意地悪なことを言っていればいいのだわ。見てらっしゃい」

 そうして西へ向けて走り始めて五キロくらい経った。

 エメリヒのまたがるミントグリーンのイタリア製ロードバイクの後から、フラットバーハンドルのクロスバイクにまたがったグレートヒェンが必死な形相でついてくる。根性だけはなかなかなものだ。

 四十分ばかりで、ほぼ中間地点のシムス湖に到着した。

 自転車をとめて、豊かな水を湛える湖を見ながら、スポーツドリンクを飲んだ。

「無理するのはよくないな。この辺で引き返そうよ」

「何を言っているの」グレートヒェンは肩で息をしながら答えた。「まだ準備運動にも足りないくらいだわ」

 白いヘルメットに、白いぴっちり体に貼り付いたサイクルウェアを着て、喉を鳴らしながら彼女は水筒の水を飲んでいる。これもまだ早いだろうと言うのに、趣味と言うものは格好から入るものだと言って買った衣服であった。

「そんなに元気がありあまっているなら、もう出発しようか」

 エメリヒは彼女の、ボディーラインの浮き出た胸のふくらみから目を逸らして言った。

「何を言っているの。充分な休憩は必要よ」

 そんなふうに言って、グレートヒェンはにっこりと笑うのだった。

 東へと進路をとってさらに自転車を走らせる。

 社会に出てから、いや、生まれてこのかた、こんな気持ちの浮き立つ日日はなかった、とエメリヒは思うのだ。

 祖父は生物学者、父は文化人類学者としてそれなりの功績を残してきた一族であった。しかし、エメリヒにはまるで学者としての才能は受け継がれず、学校の成績はごく普通だったし、大学もどうにかこうにか中流ランクの学校を卒業することができた。知識欲はそれなりであったが、何かを研究するということにいまいち魅力が持てない大学時代だった。卒業後に入った会社も意欲がわかずにすぐに辞め、生まれ育った地元に戻ってビール会社で働き、このまま冴えない人生を送り続けるものと、頭のどこかで決めこんでいたようなところがあった。

 それがこの数週間、どこか生きることに楽しさが湧いてきたようであった。

 十キロばかりで、ゴールに定めたキーム湖に到着し、自転車を押して、湖畔の、見晴らしの良い草原に自転車を押してきた。

 どうせ足腰ふらふらになっているだろうとグレートヒェンを見ると、存外しっかりした足取りでエメリヒの後をついてくる。

 ふたりは、草の上に腰をおろして、グレートヒェンがリュックサックに入れてきたサンドイッチを食べた。彼女の背中に密着していたせいで、ちょっと生温かいサンドイッチであった。

 湖は翠の水を満満と湛え、観覧船や魚釣りのボートなどが豆のように往来し、二キロ先にはヘレンキームゼー島がこんもりとした森を茂らせ従容とした姿をみせていた。

「ああ、美しいわ」グレートヒェンが溜め息とともに感嘆した。

 そう言った彼女の横顔を見つめて、エメリヒの心臓がどきりと大きく打ちつけた。もう十年くらい感じたことのなかったこの感覚はなんであろう。

 ちょっと目じりに皺が刻まれているのだけれど、その横顔は十五年前の彼女とちっとも変わらない、いや、かつてはなかった艶めかしい魅惑を宿しているようだった。

 その視線を察したのか、こちらを振り向いた彼女から、反射的に目をそらして、エメリヒは言葉を探した。

「ここからじゃあ、ヘレンキームゼー城が見えないな。場所を移そうか」

 あわてて言ったエメリヒに、

「いえ、いいじゃないの。ヘレン島があんなに綺麗に見えるのですもの。場所を移すなんてもったいないわ」

 そう言って、グレートヒェンはくすりと笑ったようだった。さっきの慌てて目を逸らしたエメリヒを思い返した様子だった。

「昨日、娘が言うのよ」

「なんて」

「お母さん、最近急に若返ったようよ、綺麗になったわ、って」

「それはそれは」

「好きな男の人でもできたのね、きっとそうだわ、なんて言うの。まだ十二になったばかりの小娘のくせにね」

 エメリヒは返す言葉が思い浮かばなかった。口下手な自分が情けないと思える瞬間であった。

「ねえ、ませているでしょう」

 同意を求めるようにじっと見つめてくるグレートヒェンに、エメリヒは静かに唇を重ねた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る