二の六 茂治 六月二十六日

 まったく穢れた町だと茂治は思うのだ。

 彼の住む町は、ここ数年で、市の無秩序な誘致によって、空き地と見れば産業廃棄物処理業者や土建業が買い占めて、資材置き場にしたり産業廃棄物を処理したり、朝から晩まで騒騒しい状態であった。

 茂治の部屋の窓から見れば、百メートル向こうのかつて空き地だった場所には、数年前にやってきた産廃業者の重機置き場にクレーン車やショベルカーなどの重機が見苦しく鮨詰めに並べられていた。

 近年建て替えられて、防音壁に二重サッシでそうそう外部からの騒音に負けないはずの茂治の家でさえ、重低音の機械音に気分が悪くなり、屋台骨が揺さぶられるほどのガンガンといった何かを壊すような音が轟いてき、彼に過度なストレスを与え続けている。

 もうじき期末テストであるのだが、これではテスト勉強にもならない。気分転換に趣味の漫画でも描こうかと頭をよぎるのだがペンをとる気にもなれず、気晴らしにウォーキングに出ることにした。しかし町を歩いても、町の至る所から聞こえてくる騒音で、心が休まる時は皆無なのであった。

 しかも市の行政方針によって、町を囲む山の上半分が削り取られ、巨大な箱型の工場が立ち並ぶ工業団地が景観を壊し、まったく見苦しい景色が町を歩けば視界を覆うのである。

 今、茂治の住む田舎町は、都市の発展の皺寄せと市政方針の歪みが押し寄せている。そこに発展の犠牲に苦しむ少数の人間がいるというのに、都市に住む圧倒的多数の者は誰もそのことに気がつきはしない。

 どうして人間はこれほど他人に対して残酷になれるのか。思いやりという概念はただの理想に過ぎないのだろうか。

 茂治の通う学校でもそうだ。クラスの多数の生徒のために茂治は疎外されて苦衷の中にいる。そのことをクラスの誰も不思議に思わないし、担任教師だって気がつきはしない。

 まったく人間という生き物は低俗で下劣な生き物にしか思えないし、吐き気をもよおすほどの嫌悪を感じるのだ。

 ――力さえあれば、すべてを一掃してやるのに。

 力が欲しい、僕に力を与えてくれ。願ってみたところでにわかに叶うものでもない願いを、彼は必死に、なにか目に見えぬ者にむけてすがるように願うのだった。

 かすかな望みは、先日出会った巫女と呼ばれていた女性が言ったひと言だった。

 黒い影が力を与えてくれる、そう彼女は言っていた。

 彼女のことを思うと、茂治の胸は高鳴った。

 あのような優しい言葉をかけてくれたのは、先年他界した祖母以来だった。あの時触れた巫女の手の感触や匂いを思い出すたびに、茂治は彼女のためならなんだってやってみせる、という気持ちが湧いてくるのであった。

 そう思うと、以前に黒い影に襲われた時現れた超能力少女に、余計なことをしてくれたものだ、と憤懣が身を駆け巡るようであった。

 今、茂治はあの時襲われた峠道に向かって歩いている。梅雨の合間の晴れた日にだけ、もう何日もあの場所に通っているが、あの黒い影はいっこうに姿をあらわしてはくれないのだった。

 茂治の家から二キロばかり、道はもう両側から山が迫り、古い家家が森に寄り添うように並んでいた。

 ふと見ると、道の反対側に立っている電柱のその付け根の周囲にアジサイが一メートル半ほどもドーム状に繁茂していて、薄い青色や紫色の花を咲かせて、鬱然と雑草におおわれた景色に、心なごませるような色彩を描いていた。

 誰かが植えたのか、自然に生えたのか、電柱を支えるように生い茂るアジサイは、彼のすさんでいく心に安らぎを与えてくれるようであった。

 けれどもそれは、ほんの片時の安らぎにすぎなかった。

 そうしてさらに二キロほど歩き、例の峠にさしかかった。

 今日もまた、あの影の化け物が現れる気配はない。

 振り返れば、西の空はわずかに明るみをたたえているのだが、空は一面曇り空で、茂治の気持ちをさらに消沈させるのであった。

「俺に力をくれ」

 茂治は切歯してつぶやいた。

 俺に力をくれ。すべての不浄な物を消滅させる力をくれ。町にはびこる穢れた物を破壊する力をくれ。すべてをくつがえす力が俺は欲しい。

 その陰鬱な思いに天が答えたわけではないだろう。

 が、しかし、西の空を覆っていた雲がにわかに流れ、赤らんだ日の光が、鬱蒼とした峠道に差し込んできた。

 そうして、道を覆う木木を照らし、その下にくっきりとした影を描き出したのだった。

 その影に、何かがうごめいたようだ。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 人の腕ほどもあるミミズのような蠢動が、何本何十本、しだいに数を増していくのであった。

 茂治はその蠢く影に向けて、歩いた。

 影に入った茂治に、鎌首をもたげるように姿をあらわした黒い触手たちが、脚に、腕に、体にまとわりついてくる。

 目を閉じ、両腕を広げて、彼は触手を受け入れた。

 全身が、言い知れぬ恍惚に満たされていくのを、茂治は感じていた。

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