先に敵人(3)

 ぬかるみが幸いして、地面には先ほどの男の足跡らしきへこみが残っていた。通り過ぎる木の幹の皮を大きめに削りながら、人影を探す。いつどこから敵が出てきても応戦できるように、右手には剣を握ったままだ。


 どこまで行ったのだろう。人の声も気配もない。おかげで、なんともない風の音や鳥のさえずりに大きく反応してしまう。しかし、人の通った跡にもとれる痕跡は、まだ先へと続いている。土色ばかり凝視していて目まいを起こしそうだ。


 十何本目かもわからない木に短剣を突き立てたところで、ゼルはふと足を止めた。彼らを見つけられない不安から、露ほども浮かばなかった考えが導き出される。あの男は――フェルティアードは、本当に必要な男か?


 少なくとも同期の兵は、あいつを心から尊敬してはいない。ただ怖いから、当たり障りのない言動でやり過ごそうとしている。そのうえ、あいつ自身もおれ達に対しあの態度だ。いくら鍛錬に励もうと、労いの言葉はない。信頼も期待もされないから、おれ達も――


 ゼルの頭が跳ね上がった。誰かが同じことを言っていた。信頼も期待もしない……いや、できないと。あれは確かゲルベンス卿だ。フェルティアードの真意を聞いた時、彼はそう答えてくれた。

 だから、か? 何かわけがあるから、冷たく突き放すようでも仕方ないと?


(……同情? そんなもの、あいつにしてやるか!)


 力任せにつけた目印は、ここに来るまでのものよりもいびつな形に削られた。


(おれはおれにできることをするまでだ。おれ達が嫌な気分になってるからってだけで、ベレンズにいらない人間だと決め付けるのか? 何をふざけたことを考えてるんだ、ジュオール・ゼレセアン。このまま何もせずに逃げるなんて、そんなことをしでかすのは卑怯者だけだ!)


 強い風が真正面から吹きつけてくる。それはゼルの髪をなびかせ、離れた地のかすかな音を、彼の耳にそっと差し入れた。


「! 剣の音……?」


 ゼルは走り出した。次第に近づくその音だけを頼りに。もはや足跡などは眼中にない。そんなものよりも正確な証拠を掴んだのだ。

 右手側が徐々に開け、ゼルのいる場所がやや高くなっているのがわかった。身長の低い彼でも、樹木の根元が見下ろせる。崖のように切り立ってはいなかったが、直角に近い傾斜がかかっていた。


 その低い土地に、ゼルはきらりと輝くものを見つけた。一瞬迷ったが、安全な道を選んで回り込むには時間がかかる。細長いそれは剣であることはわかったので、誰の物なのか把握したかったゼルは、勢いに任せて滑り降りた。


 途中、体重移動の加減をし損なったゼルは、引っ張られるように頭から平地に落ちてしまった。凄惨な叫びになるはずだった音は、苦悶の響きに取って代わられた。上手に一回転したといっても、耐え難い痛みにさいなまれることに違いはなかったのだ。土は乾いていたので、髪も顔も泥まみれになるのだけは避けられたようだ。


「いっ……てえ」


 頭部やひじをさすりながら、ゼルは立ち上がって剣のそばまで歩み寄った。複雑に入り組んだ装飾が、柄と刀身を隔てている。中央には赤い石が灯っていた。どう見ても一兵士が持つには凝り過ぎている。ギレーノかフェルティアードしか、ここまで造形にこだわった剣は持てない。


 エリオはフェルティアードらしき人物を見た、と言っていたが、ギレーノまでは言及していなかった。そうなると、この剣はフェルティアードの? しかしこれでは、フェルティアードは今主要な武器を持っていないことになる。

 また金属音が聞こえた。近い。ゼルはためらわずに、美しいつるぎを空の鞘に差し込んだ。


 数歩進んだところで、林の隙間から動くものが見えた。とっさに太めの木に身を隠し様子を窺う。

 兵士が数人。見慣れぬ薄い青の軍服だ。皆剣を手にし、同じほうを向いている。彼らの目線を追ったが、手前の木の影が邪魔し、誰がいるのかはわからない。しかし、ゼルには予想がついた。大きな深い青が揺らいだのまでは、邪魔しきれなかったのだ。


(おい、まさかあそこにいるのは)


 兵士の一人が突きを繰り出し、相手はそれを防ごうと動く。そこへ別の一人が剣を向けた。二人目の防御まで間に合わなかったらしく、一人で大勢を相手にしていたその人物の脚を手ひどくえぐったようだった。後退し、膝を折った男は、間違いなくフェルティアードだった。


 目の前のことが信じられなかった。やはりエアル兵は近くにいたのだ。やつらの闘い方から見ても、正々堂々と対する気はないらしい。人数が多いのをいいことに、隙を突いて脚をやるなんて。あのフェルティアードでも、多勢に無勢となれば長くは持たない。


 エリオが順調に味方に伝えられたとしても、今すぐ来ることはあり得ない。だがここで自分が出て行っても、すぐに片付けられて終わりだ。いや、ここは剣だけを渡してその場から去れば、半分はおれを追いかけてくるかもしれない。

 そんな案を思いついた瞬間、ゼルはあることに気付いた。膝をついたまま、フェルティアードが動きを見せない。兵士が一人、すぐ前に立っているというのに。


 フェルティアードは両手に短剣を収めていたが、あの距離では防ぐには近すぎる。兵士が剣を引くのが、ひどくゆっくりに思えた。


 殺される。皮手袋の上から爪が食い込むほど、ゼルは石のように拳を固めた。足音も茂みを掻き分ける音も構わず、一直線に走り抜ける。対峙した二人の隙間を埋めるように地面を蹴り飛び入ると、敵の剣に自分の武器を叩きつけた。


 乱入者に驚いたのか、敵の兵士は剣技など何もない力だけの衝撃に負け、得物を取り落としている。ゼルはそんなことに一喜一憂する間もなく、剣先を敵兵に突きつけていた。

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