背に厭い人(1)

 敵もその周りの男も、時を止められたように誰も動かなかった。それなのに、ゼルの右腕は目に見えて震えていた。顔のわからない男と一戦したせいだけではない。自分を取り巻いている男達は今度こそ、遠慮なく命を奪ってくる敵対者であることが、ゼルをこれまでにない恐怖に陥れていた。


「……おまえは」


 背を打ったのは聞き慣れた低音だ。ゼルは空いた左手で剣を引き抜き、投げ捨てるように落とした。その一連の流れに、敵兵達を縫い止めていた空気が氷解し始める。


「何してるんだ、さっさと拾え! あんたの剣だろう!」


 敵を一人ずつ数える余裕すら生まれなかった。剣一本分しか離れていないエアル兵の右手は下ろされてはいたが、いつ牙を剥いてくるかわからない。


「おい、ガキ共は全部追っ払ったんじゃなかったのか!」


 ゼルを見据えたまま、エアル兵が叫んだ。目の端でちらりと動く影がある。森と闇に紛れるようなその服装。あいつだ。破れた皮手袋から露出する傷が脈打つ。


 顔の下半分を覆う布が動いた。何か話したのだろうか。しかし彼の近くにエアル兵はいない。来るなと釘を刺したはずの若者が、こうして邪魔立てしているのだ。苦々しげに歪む目つきを見ると、舌打ちの一つでもしたのだろう。


 ふん、と目の前の男が鼻で笑う。その顔つきも、相手が年若い青年であるとたかをくくったのか、にやつき始めている。眼前の刃物が、落ち着きなくぶれているせいもあったかもしれない。


「戦場は初めてか。小僧」


 男は落とされた剣に片足を引っかけて真上に飛ばし、取って手中でもてあそび始めた。


 牽制せず、倒せばいい。わかっているのに、相手はこんなに隙だらけなのに、どうして体は動いてくれない。

 足元で小さく、引きずる音がした。後ろの男がやっと剣を拾い上げたらしい。しかしゼルの背は涼しく、立ち上がった様子はしない。思いのほか、さっきの傷が深かったのか。


「どうした。いつまでにらめっこするつもりだ?」


 悠然と腰に手を当て、ゼルをからかうように得物を振り回してくる。ゼルはその動きに注意を向けようと、剣の対象をそちらに変えようとした。

 力強い気配が背後で蠢いたかと思うと、それは左肩すれすれのところを矢のように飛び出してきた。たった今まで剣を握っていた男の手は開かれ、その胸は細長いもので、まるで串刺しにされているようだった。


「ためらうな。ここで死にたくなければな」


 頭上から降ってきたのはフェルティアードの声だった。そこでゼルは、何が起きたのかやっと理解できた。自分の顔の真横にある、今しがた得物を引いたこの腕はフェルティアードのものだ。左手だったのは意外だったが、突くだけなら彼にとっては朝飯前なのだろう。苦しげに咳込み血を垂れ流す胸をかきむしりながら男が倒れ、一緒に軽い音を立てて短剣が刺さり落ちた。


 こいつは長剣に気を引かさせ、片手に持っていたこの短剣でおれを殺そうとしていたのか。もしかして、それに気付いてフェルティアードが?

 彼の顔を仰ぎ見ようとしたが、それは叶わなかった。フェルティアードはゼルに背を向けていたのだ。しかし移動するわけではなく、大貴族は再び臨戦態勢に入ったらしい。視界にいる数人のエアル兵が構えている。


「わたしは傷のせいで自由に動けん。おまえはわたしの背を守れ。殺せずとも剣をさばく程度はできるだろう」


 拒絶を許さない口調だった。とはいえ、ゼルには拒む気など最初からありはしなかった。逃げ去り敵を引き付けるというあの案は、自分でも納得していなかったのだ。フェルティアードの命令は、ゼルの揺れる決心を固めるものだった。


「わかったよ」


 地面に足を押し付けてわずかに引き下がると、背とひじがフェルティアードにぶつかった。つられるように頭を持ち上げれば、荒風にしかなでられないようなうねる黒髪の向こうに、あの色の目が見えた気がした。


 貴族と青年、それぞれに狙いを定めた敵兵二人が駆け出す。フェルティアード側はあっという間に勝敗がついた。短剣二本でのみ応戦していた時と同じように突っ込んだのだろう。貴族の手に馴染んだ長剣に、その攻撃は撫でるという行為にも満たなかった。数度剣を重ねただけで敵兵は突きを受け流され、赤の宝石がはめ込まれた諸刃の犠牲となった。


 ゼルは苦戦を強いられていた。傷も受けず剣も奪われてはいないが、有利でもない。きっと相手が本気でないからだ。絶命に至る一撃を食らわせないのは、自分との戦闘を半ば遊んで過ごすためなんだ。そうして疲れ切ったところを、こいつは――


「代われ!」


 背中の左側を押された気がして、体を後ろへひねり回り込むように、右足を踏み出す。フェルティアードに新たにかかってきた二人目をゼルが迎えた瞬間、ゼルをあしらっていた男が断末魔の悲鳴をほとばしらせた。立場を入れ替わったフェルティアードがまたもや一撃で仕留めたのだ。脚を負傷しているとは思えない素早さだった。


 背を付き合わせたことで、二人を取り囲むような形に展開していたエアル兵達は、ものの数分も経たずに二人もやられたせいで、警戒し始めたようだ。隙を見計らうように、じりじりと間を詰めてくる。ゼルは見える範囲の男達に目を走らせた。その中に一人、違う色の軍服があった。いや、見慣れたもののはずなのに、ここでは異質でしかないそれは。


「ベレンズ、兵……!? なんでここに、それにあの人は」


 間違いない。あの時、横で笑っていた二人のうちの一人だ。当のベレンズ兵はにこりともせず、ゼルが驚怖し表情という色が抜けているのを見ても、眉一つ動かさなかった。


「うろたえるな。あれは味方ではない」


 にべもなく言ってのけたフェルティアードに、ゼルはなおも食い下がった。


「でも、無理やり協力させられたんじゃ」

「いいや、違うな。大方金に目がくらんで寝返ったのだろう。そうだな?」


 裏切ったというベレンズ兵はゼル側にいるというのに、フェルティアードは正面を向いたまま問いかけている。

 誰に話してるんだ? ぼろぼろの外套の陰から反対を垣間見ると、もう一人のベレンズ兵がいた。エアル兵のふりをしてジュセを突き飛ばした、あの男だった。まさか本当に敵だったなんて。


 ゼルが顔を背けたのを追って、エアル兵の一人が踊りかかってきた。とっさに振り激突した武器同士から、激しい高音が迸った。それらは絶え間なく耳の中に進入し、暴れまわる。もはや手加減はなかった。下手に長引かせれば、後ろの男がとどめを刺してくるのがわかったからだろう。


 互いの死角を守る陣ではあったが、それはゼルにしか効果を発揮していなかった。背丈の差があり過ぎたのだ。がら空きになっているフェルティアードの背の上部を狙って、別の一人がゼルを無視して斬りかかろうとする。


「おまえっ、卑怯だ……」


 怒りの言葉は無駄にはならなかった。そしてその直後に起こしたフェルティアードの予想もしなかった反撃に、ゼルはこの時ほど小柄であることをありがたく思ったことはなかった。

 青年の声に、大貴族は居場所を交換こそしなかった。代わりに斬撃をかわしつつ得物を持ち替え、ひじで男を殴り倒したのだ。ゼルが己と同程度の身長を持つ人間だったらまず不可能な、乱暴でもある戦法だった。


「うわっ! あ、あんたなんてことしてるんだよ!」


 落ちかかってきた男を避け、ゼルはわめいた。どうやら、身動きまでをも奪う重傷を負ったらしい。こめかみ辺りを殴打されたエアル兵は、そこを手で押さえることもなくくずおれた。


「誇りを持たぬ者に誇りで立ち向かおうとするな。生き延びたいのなら手段を選ぶ暇などないぞ」


 また一人、フェルティアードが切り伏せる。ゼルが押されれば代わりに彼が相手をし、敵兵は地に伏す。二人と敵のあいだには次々と骸が横たわり、いまだ存命している、ほんの数分前まで優勢だった者達の進撃を阻止しているようだった。

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