僕たちがその声を知らない鳥

 おそらくは改装を繰り返したのだろう。彼の家は外見に反して、内装は和洋折衷のモダンな雰囲気だった。

 たとえば天井から下がった照明はシャンデリア風だし、サイドテーブルも黄水仙の生けられた花瓶もアールデコ調だ。玄関正面、階段下の三角形のスペースには、自転車用のスタンドが置かれていた。肝心の自転車が見当たらないが、わざわざ室内に置くからには、十中八九単なるママチャリなんかではあるまい。


 ただ、上がり框があるあたりは、元の日本家屋の面影を色濃く留めている。


 唐突な来訪者たる僕のために、幸正君は框に座布団を敷いてくれた。そればかりか、よく冷えた缶コーラまで持ってきてくれた。少しぞんざいな口調に反して、彼は気遣いの細やかな人だった──雨で冷えた身には温かい番茶かコーヒーの方がありがたかったけれど、そこまでの贅沢は言えまい。


「キーキーいう変な声、かぁ」僕の説明を聞き終えた彼は、自分の分のコーラを啜りつつ首を傾げた。「聞いたことねぇなぁ」


「本当に声なのかどうかも、正直言って怪しく思ってるんだけどね」


「うーん、そうだなぁ。強いて言うなら、雉の声じゃないかって気がすんな」


「キジ? キジっていうと、あの桃太郎のお供の?」


「この季節になると、まぁまぁよく鳴いてるぜ」


 彼はご丁寧にもスマホで動画アプリを立ち上げると、雉の声を収録した動画を見せてくれた──どこか金属的で、少し哀しげな響きを帯びた声をしていた。

 なるほど、確かにそうと知らずにこの声を山中で聞いたら、何事かと思うだろう……が、しかし。

 動画の鳥は、短く区切るようにして鳴いていた。川村さんが聞いたという“声”は、(彼女の証言を信じるならば)もっと長く尾を引くような声だったそうだ。それに彼女は、父親の趣味のバードウオッチングにちょくちょく同行していたという。その彼女が、雉の声を聞いたこともないなんて、果たしてありうるだろうか?


 瞑目して考え込む僕に、幸正君は言った。「見りゃわかることだけど、この山ってうちがここしかねーからな。だから夜になると、すんげー遠くの電車の音すら聞こえてくんのよ。だからそんな変な声っぽいモンが聞こえてきたら、家族の誰も聞きつけないわけがないんだけどなぁ」


 さらに彼は、こう付け加えた。「その川村って女、知らねーな。お前、テキトーな作り話でからかわれたんじゃねーの?」


「まさか」二重の意味で、僕は言った。一つは彼女の名誉のため。そしてもう一つは、「だって、同じ学区でしょ?」


「そりゃそうだけど、小学校でも中学でも同じクラスになったこと、一度もねーからな。だいたい女だしさ」


 それから、ちょっと言い訳するように、「意外そうな顔してるけど、皆そんなもんじゃねーの? 俺だって地元の野球チームに仲の良いダチはたくさんいるけど、どこに誰が住んでるかまでは知ったこっちゃねーよ」


「そういうものかな」


「そうだよ。とにかくその川村ナントカとは、俺は会ったこともない」


 してみると彼も、住んでいるところがかくの如き山里なだけで、気質は僕と同じ生粋の都会人なのだ。

 良く言えば人間関係にさばさばしていて、自他のパーソナルスペースに自覚的にふるまえる人。悪く言えば排他的で没交渉。


 それにしても、まぁ。

 あんなに華やかな川村さんをご存知ないというのだから、彼はなんというか、その──花を愛でる心を解さない、無粋な人なんだな。決して悪い奴ではないけどさ。


「しかしアレだな、民俗学研の活動かぁ」幸正君は唐突に話題を変えた。「俺はてっきり、例の現場でも見に来た野次馬かと思ったぜ」


 僕は眉をひそめた。「例の現場?」


「ついこの間、こっからちょっと先で火事があったのよ。つっても焼けたのはボロい納屋だけで、死んだ人も怪我した人も一人もいなかったけどな。でもすごかったぜ、消防車とかたくさん来て、前の道路がしばらく全面通行禁止になったんだからな」


「へぇ、それっていつのこと?」


「だから、ついこないだだって──そうだなぁ。始業式があってすぐの、金曜の昼頃じゃなかったかな」


 なるほど、火事による交通規制! 


 始業式を挙げて間もない、火事があった金曜日。それはとりもなおさず、川村さんが件の“呼び声”を聞いた日だろう。

 おそらく彼女が帰って来た時は、封鎖が解除されて間もなかったか、もしくは特例でバスのみが通行を許可されていたのだろう。

 ネットで情報を得ない限り、彼女は不審火のことなんて知る由もない。これは推測だが、たとえ近くの誰か──例を挙げれば、バスの乗客──が話題にしていたとしても、ハードな部活動でくたびれ切っていた彼女の耳には入らなかったのではないか。


 そして何も知らない彼女は、文字通り火が消えたように静まり返った地元に降り立った。どれほど異様な印象を受けたかは、先刻の彼女の語りぶりが雄弁に物語っている。


 僕は下界の火事と件の“声”とに因果関係を見出そうと、しばし頭を働かせてみた──が、すぐに無駄だと悟ってやめてしまった。

 たとえば声じみた音を発する消火器具があったとしても、どうしてそれが火事の現場から離れた加藤家の山に存在しなくちゃならないんだ。


 ともあれ、これで当時の状況の補足くらいはできた。わからないのはなぜ川村さんの家族や友人が誰一人として、SNSか何かで火事のことを知らせてやらなかったのかだけど、そんなことまでは僕の知ったことではない。単に彼女自身が通知をオフにしていただけかもしれないし。


「いやいやどうも、ありがとう。参考になったよ」僕はそう言って、立ち上がりかけた。何気なく時計を見ると、もう四時に近かった。


 だが幸正君は、僕の暇乞いを却下した。


「まぁまぁま、遠慮しねぇで、もうちょっとだけいてくれよ。民俗学研の話も聞きたいしさ……めっちゃ面白そうだもん。学校の怖い噂を調査する、心霊専門の探偵なんて。な、な、聞かせろよ」


 別に遠慮しているつもりはないのだけど、こう言われてしまえば、押しの弱い僕は留まらざるを得なかった。

 仕方なく僕は座り直した──実を言えば、足が痺れてまともに歩けそうもないという事情もあった。和風邸宅で座布団を出されたからといって、無駄に正座なんてしたせいだ。


「心霊専門の探偵、ね」痺れのあまり泣き笑いのような顔を作らないよう堪えながら、僕は努めて平静に言った。「みんな誤解してるけど、そんなに面白いことはしてないよ。ただお客さんの話を聞いて、現場検証みたいなことをちょろっとやって、これはこういうことだったんじゃないかって具合に、推論を立ててるだけさ」


「その推論が面白くて説得力があるから、みんな集まんだろ。やっぱお前らはすげぇよ」


「ああ、まぁね。ただ一つ訂正させてもらえば、すごいのは僕じゃなくて、部長だ。あの人は……」


 真ヶ間まがま彩子さいこ部長についての説明を、僕は結局せずじまいで済んだ。というのもうっかりあんなひとの話題を持ち出してしまったことを後悔した矢先に、まるで救いの手を差し伸べるようなタイミングで、家の人が帰ってきたからだ。


 何やらガチャガチャといった音をひとしきり立てた後に入ってきたのは、縁の丸い眼鏡をかけた、レインコート姿の男だった。


「いやーまいったまいった。こんなクソ忙しい日に降ってくんだもんな……あ、ども」


 おそらくお兄さんだろう、と僕は予想した。どちらかといえば痩せ型の幸正君と違って、自転車の彼は恰幅がよかった。兄弟なのにこれだけ体格が違うというのは、一人っ子の僕にはなんだか新鮮で面白く思えた。

 あの急な坂を駆け上ってきたのだろうか? 彼は真っ赤な顔をして、荒い息をふうふう吐きながら、乗ってきた自転車を引っ張り入れた──僕の予想通り、自転車は見るからに長距離走行向きのロードバイクだった。


「おう、お帰り」と幸正君は言った。それから僕に向き合って「兄貴だよ。大学生」と、これまた予想通りのことを教えてくれた。


「こんにちは、お邪魔しています」座布団と飲み物を隅に退けながら、僕は会釈した。


「ごゆっくりどうぞ」


 なおも荒い息を吐きつつも、お兄さんは笑顔を見せてくれた。それから弟に向き直ると、ずっとぞんざいな声でこう言った。「ユキ、お前な、たまにはタイヤに空気入れろって、いつも言ってるだろうが。パンクするぞ」


「わかってるよ」


「それからな、油も差しとけ」


「自分でやりゃいーじゃん、いつも使ってんだからさ」


「こっちは忙しいんだよ、おめでたい高校生のお前と違って」


「俺だって忙しーよ」


 とするとこの自転車は、家族の共有財産なのだろう。お兄さんが苦労してスタンドに立てかけたそれは、よく見るとずいぶん年季が入っていた。車体に刻まれた細い傷跡。剥げたハンドルグリップのゴム。


 潮時だな、と僕は思った。いつまでも居座っていてはお兄さんもリラックスできないだろうし、他の家族も農作業を終えて帰ってきそうな時間帯だった。それに幸正君からはこれ以上有益な情報は引き出せそうもなかったし、お兄さんに一から説明するのも億劫だった。


「やっぱりそろそろ帰るよ」カバンを持って立ち上がりながら、僕は言った。「やんなきゃいけない課題とかあるから」


 幸正君はまたも引き留めにかかった。「兄貴に遠慮することねーよ、もう少しいてくれよ。なんならここで課題やってったら? 他の家族も、別に気にしねーから。そうだ、アイス食ってかね? バニラとチョコがあるんだけど、どっちがいい?」


「いや、ごめん。帰りのバスの時間とか、いろいろあるから」


「そうかい……」


 彼は露骨なまでに残念そうにした。その様子に心苦しさを覚え、僕はつい言わなくともよい、余計なことを口走ってしまった。


「今度また会おうよ。ジュース一本くらいなら奢るからさ。なにしろ今日は、すっかりご馳走になっちゃったからね」


「お、言ったな」ニヤリと笑って、幸正君は言った。「忘れんなよ」


 帰り際、僕はふと気になっていたことを訊いた。「ところでさ、ここから学校までどうやって通ってるの? やっぱりバス通学?」


 幸正君はきょとんとした顔になって、まじまじとこちらを凝視した。まるで僕が、とびきりおかしなことでも訊いたと言わんばかりだった。


「まさか……んなわけないじゃん。バス賃だってバカになんねーのにさ。アレよ、アレ」


 そう言って彼は、階段の下をぐいと指差した。


「まぁさすがにこんな天気の日は、バスに乗るようにしてるけどな……それにしても、原付さえ使えりゃなぁ。親がさ、免許を取るのすら許してくれねーんだよ。だりーよ、まったく」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る