鬼遣

アーカムのローマ人

鬼遣

 藤戸瑠衣さんは父の妹で、我が家から電車で二時間の政令指定都市にある大学で放射線の研究をしている。私は学校が長期休みになると必ず、瑠衣さんの家に泊まりに行きたいと両親にせがんだ。瑠衣さんのことが大好きなだけでなく、あの家にある、時が止まったような美しさに魅せられていたのだと思う。ダイニングテーブルいっぱいに並ぶご馳走、いつ見ても覚えのないものが置いてある書斎、チェスで勝つと「純ちゃんは天才だ」と頭を撫でてくれる温かな手、ドイツ語の歌と伴奏のツィターの甘い響き。だから、人生で初めて家出というものをした時も、真っ先に向かったのはあの家だった。

 二月にしては暖かい日だった。瑠衣さんは「大学生の時に仏教徒をやめた」と嘯いている割に行事ごとはまめにする人で、洋風の玄関には少し似合わない柊鰯が飾られていた。ブザーを鳴らすと出てきた瑠衣さんは、前に会いに来た時よりかなり痩せたように見えた。

「純ちゃん?」

「あの、突然で申し訳ないんですが、何日か泊めていただけないでしょうか」

「どうしたの」

「……家を叩き出されたんです」

「お母さんに?」

「お母さんに」

「何やったの」

「男ですよ、男。ねえ、私はもう大学生で成人なんですよ。そりゃまあ見たくないもの見たのかもしれませんけど、部屋に誰を入れようと勝手じゃないですか」

瑠衣さんは女子高生みたいに大笑いした後、そんなら入りなさい、と招き入れてくれた。家はいつものように暖かく快適で、少しだけ薄暗かった。

「授業も終わってるだろうし、好きなだけ泊まって行っていいよ。ただ、どうしても守ってほしいお願いがあるんだけど」

「わかりました。何ですか?」

「明日、私は一日中家に居るんだけど、誰が来ても絶対に反応しないで。私は居ないってことになってるの」

「大学はいいんですか?」

「大丈夫。とにかく、絶対にドアを開けないで。宅配便もだめ。頼んでないから」

「あの、誰が来るんですか?もしかしてストーカーされてるとか……」

「ああ、そういうことじゃないから大丈夫。あなたが危ないとかそういうことはないから。ほら、前にも出版社の人が〆切を急かしに来たでしょう、ああいう感じ」

たしかに私が小学生の時、そういうことがあった。だが、その時は平然と「あと三日で書きます」とか言っていた瑠衣さんの目が泳いでいることに気づき、私はエアコンが効いているのに何だか寒くなった。やっぱり帰って母に謝ります、と言って立ち去るべきではないか。そんな考えがよぎった時、瑠衣さんが白い歯を見せてニッと笑った。

「そういえば『クニットリンゲン』が再オープンしたんだけど、今から行かない?もちろん私の奢りで」

私は頷いた。財布を気にせずに明るいうちからビアホールで痛飲するという提案を蹴るに値する「何か」など、存在しようがなかった。

 二月三日は当然ながら二日酔いで始まった。瑠衣さんは元気そうだったがどこかそわそわしていて、朝食の間もテレビのチャンネルをしょっちゅう変えていたが、自分が食べ終わると「勝手に見てていいから」と言って書斎にこもってしまった。そう言われても大学生の見たい番組が昼間から山ほどあるというわけではないので、ひとしきり旅行番組を堪能するとソファーに寝転がって農場育成ゲームを始めた。

 突然、ブザーが鳴った。私はびくっとしたが、無視するんだったとすぐ思い出してゲームに戻った。それにも飽きて電子書籍でホメロスを読みだした頃、瑠衣さんが降りてきて「お昼はラーメンでいいよね?」と言った。私たちは塩ラーメンとオレンジジュースという如何にも休日らしい昼食を摂り、瑠衣さんは途中からグラスにウォッカを注いでスクリュードライバーを作っていた。

 瑠衣さんが一階に残ったので、私たちはテレビゲームをし、海外ドラマを途中から観た。電話が鳴ったが瑠衣さんは取らなかったので、電話機は「ピーという発信音の後に……」というお決まりの文句を再生し始めた。

 「るい」

優しい声が薄暗がりを切り裂いた。

「るい、きて。きて、きて、きて」

瑠衣さんが立ち上がり、電話のプラグを引っこ抜いた。地の底に、あるいは山々に反響するような声は止み、瑠衣さんは蒼白な顔で席に戻り、耳にイヤホンを突っ込んだ。私はテレビの音量を上げた。何かおかしなことが起こっていた。

 何時間過ぎただろう。そっと窓の外を見ると、今年に入ってから一番赤い太陽が街並みの間に沈んでいくところだった。家の前の道路に視線をやって、私は目を疑った。紛れもなく、母が我が家に向かって歩いてくるところだった。こんな遠くまで迎えに来させてしまったことで、私はさすがに心配をかけてすまないと思った。昨日から一度も連絡が来なかったので、てっきり母は娘が彼氏の家に行ったとでも理解しているのだろうと思い込んでいたのだ。ブザーが鳴った。瑠衣さんの方を振り返ると、スマホの画面に夢中で気づいていないようだった。私はインターホンの通話ボタンを押した。

「お母さん、ごめん……」

「迎えに来たの。開けてくれない?」

「わかった」

玄関に出て行こうとして、画面の向こうの母が厚着なのに気がついた。昨日よりも寒いのだろう。自分のコートは部屋に置いてきてしまった。私はさっきまで膝掛けにしていた瑠衣さんの古いショールを体に巻きつけた。

 重いドアを開けた私は息を呑んだ。そこに立っているのは、いつもの青いダウンジャケットを着た母ではなかった。まず目に飛び込んできたのは鮮烈な赤だった。赤い振袖の女性が輝く目を細め、着物と同じくらい赤い唇を上げて、にこ、と微笑んだ。

「藤戸さん」

「……はい」

「来て」

あの、奇妙な反響を伴う声が耳を撫でた。私はドアノブを掴んだまま、戸口に立った女が白い手をこちらに伸ばすのをただ見ていた。

「待て!開けるな!」

瑠衣さんの叫び声と足音が聞こえたかと思うと、何か細かい粒が背中に当たった。土間に炒り豆が散らばり、女が怒りの声を上げて後ずさった。彼女の燃えるような視線が私の後ろを射た。枡を持った瑠衣さんが土間に降りてきて、私の横に立った。

「藤戸瑠衣」

「……そうだよ。その子は私じゃない」

「干支が二周りしたら、お山に来ると証文を書いた」

「すまないね。鬼神に横道は無いが、人間は嘘をつくんだよ。鬼は外!」

瑠衣さんはまた豆を投げつけた。はっと我に帰った私は、慌ててドアを閉めて鍵を回した。ドアの向こうから叫び声がしたが、それはもうあの甘やかな声ではなく、それどころか人の声にも聞こえなかった。

「……ごめんなさい」

「私こそ悪かった。まさか純ちゃんが人違いされそうになるとは」

「あの人……あれは去年も来たんですか?」

「いや、初めてだ。干支が二回りって言ってただろう。今年が二十四年目なんだ。ああいう騙しを使ってくるとは……予想しておくべきだった。もう大丈夫だと思うけど、朝になったら帰った方がいいよ」

言われなくてもそのつもりだった。おそらく見るべきでないものを十分に見てしまったであろうことが、私にはわかっていた。だが、次の質問はどうしても止めることができなかった。

「証文って何です?」

「私は打出の小槌が欲しかった。山にある異界から富と技術を前借りした。でも、喰われたくはなかったからね。貰えるものだけ貰って、結界の向こうにあれらを締め出しているのさ。それ以上は言えない」

打出の小槌から何が出てきたのかは聞けずじまいだった。瑠衣さんの二十四年間の成果は数多く、それらは引用によって更なる研究へと繋がっている。そのうちのどれが「お山」からもたらされた福なのだろう。

 こんなことを思い出したのも、明日があれから十二回目の節分だからだ。瑠衣さんはあの数年後に大学から国立の研究所に移籍し、美しい家は元教え子が買い取った。そして次の四月から、私は放射線障害の研究者として彼女の同僚になる。彼女は今年も、玄関に柊鰯を掲げて来客を拒むのだろう。しかし、瑠衣さんの家が私の人生から失われたように、どんなに美しい時でさえも止まることはないのだ。

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