第17話 forastero

「そんで? お前さんは何処の何方なんだい」


 顔のドーランを洗い落としながら、ヨハンナは目の前で座り込む男に問う。家畜の檻に繋がれていたこの男は三十がらみの中背中肉、着衣を小汚い土色に汚しやや衰弱した様子は見受けられるが、これといった特徴のないまさしく「普通の男」といった風体であった。今は変色しているが白いシャツにチノパンといった出で立ちは、観光客の訪れるこの国立公園の中に在っては些か似つかわしくない。


「ハハッ、また冗談を。よくわかって居る筈だろう? 僕が誰かって。ブリーフィングは受けただろう」


「ハァ?」


 心底安堵した様子の男は、何を勘違いしているか定かでは無いが余裕たっぷりに笑みを浮かべてヨハンナとサキの二人を見る。よく言えば人懐っこい、悪く言えば若干鬱陶しさを覚える笑みに、今しがた戦闘を終えたばかりで、かつ面倒事を背負い込む予感をひしひしと感じているヨハンナ達は苛立ちを覚えていた。


「僕を助けに来たんだろう? シールズか、デルタかは知らないが、随分派手にやったものだね。二人しか見えないが、他の隊員は外周警備かい? これを解いて、早い所連れ出して―――」


 男の顔面にヨハンナの蹴りが飛ぶ。


「ぶげっ!! な、なにを―――」


「やかましいっ! 『誰だ』と聞いてんだから黙って答えろ、このタコが」


「オーランド! オーランド・オルドリン! た、唯の観光客さ…」


 再びヨハンナの蹴りがオーランドのニヤケ面を襲う。鼻を砕かれ、無様に鼻血を噴きながら仰向けに倒れたオーランドは、傍若無人の野蛮な亜人種を前に笑みは消え失せ、怯えた表情を見せていた。


「シールズがどうたら言っときながら、今更取り繕ってんじゃあねえぞ。これ以上手間ァ掛けるようだったら其処らの炎ン中に放り込んだって構やしないんだぜ!!」


「や、やめてくれ! CIA、中央情報局の所属だ。部署までは教えられないが、僕はただの連絡員だ。君達は救出部隊じゃあないのか!?」


 救出部隊。ヨハンナとサキは顔を見合わせる。確かにゲリラ達に捕まっており、こうして檻から外へと出されたならば、ましてCIA職員であれば特殊部隊が助けに来たと思うのも無理は無いだろう。少なくとも、観光客が自発的に助けに来るなど有り得ない話である。


 ここに来てCIA職員を拾ってしまったのだから、ヨハンナとサキはほとほと困り果てた。CIAと言えば世界の厄介者、合衆国内でも度々頭痛の種となる。こんな奴を連れていれば間違いなくバラデロは遠退いてしまう。それは火を見るより明らかだった。

 こんな事なら助けを求める声を無視して立ち去ればよかった。と、ヨハンナは頭を抱える。とはいえ、既に手遅れという訳でも無い。簡単な話で先程自分で口に出した通り、其処らで燃え盛る炎の中に放り込んでしまえば解決するのだが、それをやるのはどうにも寝覚めが悪い。


「違ェよ、まったく。ラングレーの犬っころ拾うとは。ついてねえ」


「なぁなぁなぁ、頼むよ、この際誰だって構わない。ゲリラ共を始末したって事は少なくとも奴らの仲間では無いんだろう? なら僕を此処から連れ出して、セーフハウスまで連れて行ってくれないか。勿論お礼はするよ、上に掛けあったっていい」


 今度はお礼と来たものだ。CIAが絡むと碌な事は無いのが定説で、このお礼というのも最終的に「上と掛け合った結果」無かった事にされるオチが目に見えている。それならばまだましな方で、何某か機密に関わったという難癖をつけられたうえで後で刺客を差し向けられるか、方々に手を回して社会的抹殺を計られるかのどれかである。こんな事に関わってはバカンスの続行に重大な支障をきたすに違いない。


 だがしかし、唯の連絡員と自称するこの男が何故ゲリラ達に捕まり、檻に繋がれ、このような無様を晒す羽目になったのか。それはヨハンナの悪癖を引き出し、危うい好奇心をツンツンと刺激するには十分すぎた。二度顔面を蹴り飛ばされ鼻血を垂らし目尻に涙を浮かべ怯える、情けないという言葉で形容するにはあまりあるその姿は、もしそれが演技であったとしても敢えて騙されてやって良いと思う程であった。


「セーフハウスってのは何処にあるんだ。遠いなら行かんぞ」


「ハンナ?」


 ヨハンナの悪い癖が出た。サキは思わずヨハンナの方に怪訝な視線を向ける。まただ、また始まった。サキはヨハンナと付き合って7年は経つが、こういった余計な事に興味本位で首を突っ込んで痛い目に遭わずに済んだ例など一度たりとも無いのだ。サキは無意識に手近な作業台からハンマーを手に取っていた。


「あぁ、そう遠くはない。サンタ・クララにまで行ってくれさえすれば」


 充分遠いだろう、とはヨハンナもサキも口に出さなかった。しかし当初想像していたカマグエイやサンチアゴ・デ・クーバよりは遥かに近く、車を使えば多少のドライブといった程度の別段苦にもならない距離であったのは事実だ。

 とはいえ道中何が起こるか予測が出来ず、それはCIA職員という特級の爆弾不確定要素を抱えているならば猶更である。サキはそれを危惧しており、第一バカンスを楽しみたいという一番の願望と目的を目の前に、余計な面倒事を自ら背負い込むほど馬鹿々々しい話も無いのだ。サキの手に力が入る。ヨハンナの石頭なら一発ハンマーで殴った程度で割れはしない。


「サンタ・クララまで。街の入り口で降ろす。それでいいな? 深入りして余計な面倒事に付き合わされるのは御免被る」


「助かるよ! 充分だ」


 サキは一瞬、ハンマーを振り被りかけたが何とか堪える。ヨハンナの口から面倒事は避けるという言葉が出たのだ。そう言ったのであれば、この連絡員が何某かの面倒事、つまり仕事の手伝いをしろだのと話を振って来たとしても、ヨハンナは突っぱねるつもりでいると認識できた。

 サキはヨハンナの悪癖をよく理解しているが、同時に一線を越えない勘の鋭さや思考の柔軟性についても理解している。これまでの仕事や生活の中で、サキ自身が自分から外部との交渉や調整をせずに済んでおり、専らヨハンナの懐刀に徹する事が出来ていたのはそういう所以があっての事だった。


「なんだサキ、またぞろ私がコイツの抱えてそうな厄介事に首を突っ込むとでも思ったか」


 茶化すような口調で振り向かずにヨハンナは言う。耳が良いだけではない、場を満たす雰囲気からサキが間違いなく自分を殴りに来るだろうと、付き合いが長いヨハンナにはお見通しであった。なに、送っていく道中に少し世間話程度に経緯を聞くだけさ。ヨハンナはサキを安心させる様に穏やかな口調で言う。


 話を聞くだけ。気軽に言うが機密に関わる内容ならば、話を聞くだけで面倒事に巻き込まれる事をヨハンナが知らない筈は無いだろう。だがこの段階で最早何を言っても事態は進展せず、いつまでもこの焼け落ちたキャンプに居続ける事も無意味である。一台残ったUAZを駆ってこの場を後にする予定なのは変わりは無く、後部座席に素性の知れない合衆国政府の走狗を一人載せた程度で引っくり返って大破炎上する訳でも無いだろう。


「そういう訳だ。アデラ、私たちはここでお暇させてもらうが、大丈夫か」


「大丈夫だ、そこまで身体はヤワじゃない。お前もそうだろう」


 血の滲んだ包帯に塗れたアデラは、その負傷を感じさせない口調で返す。仲間を呼びに行ったゴヨももうじき戻ってくるだろう。幸いにもキャンプの医療テントはヨハンナによる破壊の嵐を逃れており、医療用物資は残っている。本格的な治療は仲間達がやってくれる事だろう。


 アデラに限らず、ヨハンナ達の様な亜人種は通常人類と比較して肉体的に強靭である事が多い。特にアデラ達のように野生に近い場合はその傾向が顕著であるが、人間に限らず生物である以上は重要臓器バイタルに被弾すれば急速に死亡し、大量出血すれば失血死もする。

 

ヨハンナは亜人種ではあるが、亜人種としての血は薄い部類に属している為、肉体的強度に任せた戦い方をする事は避けるべきだが、戦場で無茶な行動に出ては負傷するのが常であった。にも拘わらず今日まで生き延びてこられたのは、偏にその悪運の強さ故であろう。



 UAZの後部座席にオーランドを乗せ、ヨハンナ達はキャンプを後にする。別れ際、アデラはヨハンナ達に向かってガッツポーズをして笑って見せた。唯の一度、それも短い間だったが確かにアデラとゴヨは仲間であり、共に死線を潜った戦友であった。次にここへ訪れる時は観光で。ヨハンナとサキはそう心に決めた。


 ハンドルを握るのは相変わらずサキで、ヨハンナは助手席に沈んで休息に入っていた。さしものヨハンナも銃弾を複数喰らえば消耗するという物で、負傷後の治療も不完全なままで格闘戦まで演じて見せたのだから猶更である。


「それでぇ、オーランドだっけ? 何をやらかしてゲリラなんぞに取っ捕まった」


「それは深い理由が…まぁ、聞かないでくれよ」


「ヘェ! そいつは益々聞きたくなるじゃあないか」


 数日ぶりの煙草に火を付けながら、バックミラーでオーランドを見やるヨハンナの声に好奇の色が混じる。ただの連絡員ならば捕まった経緯を隠す理由も無い筈だが、妙な事にオーランドははぐらかす。顔には少しの焦りや動揺も感じはしないが、それが逆に取り繕った雰囲気を感じさせた。


 ヨハンナは工作員や諜報員ではない。精神科医でも無く、心理学に覚えがある訳でも無い。しかし噓の臭いにだけは人一倍敏感であった。そもそも、一介の連絡員がセーフハウスを持っているなどおかしな話である。

 

 通常、この手の情報機関の連絡員ならば大抵行き先は自国の大使館である。「公的な」諜報員も、大抵は大使館を拠点に活動している。現地での活動に於いて行動を共にしていた仲間のセーフハウスを行き先に指定していたならば、見ず知らずの人間に場所を明かすという重大な危険行為を働いている。それは情報機関に身を置いている人間としては異常な事だ。


 ヨハンナはこのオーランドが余程の大馬鹿者か、それとも全てを理解したうえで、計算ずくの行動をしているのか判断がつかなかった。しかし今の所、ゲリラに捕まって家畜の糞塗れになっていた以上、前者の説が割合としては多かった。


「お前さん、本当は連絡員なんかじゃあないんだろ。正直にゲロっちまえよ。別にそうだったとしても、取って食ったりなんかしねえ。少なくとも、家畜小屋にぶち込みはしないな」


 バックミラー越しにオーランドとヨハンナの目が合った。オーランドは相変わらずの薄ら笑いを顔に貼りつけながら顎を撫でているが、その眼だけは冷たい何かを放っていた。当たりか、ヨハンナはそう結論付けながらさらに続ける。


「工作員って感じじゃあないな。エージェントって言うにはあまりにも臭いがし過ぎる。服にこびり付いた糞の話じゃないぞ」


「良く喋るね君は。『好奇心Curiosityは猫をkilled the殺すcat』という言葉を知っているかい。どう推測と自由ではあるが、バカンスを楽しみたいならあまり詮索はしない事だ」


「よく言うぜ、ハナっから人を面倒事に巻き込む算段してたクセによ」


 ヨハンナはひしゃげた煙草の箱からもう一本煙草を取り出して火をつける。吸う前からシケモクのように折れ曲がってはいるが、とにかく今は気にせず、一服付けたい気分であった。隠密侵入の為に持ち物は厳選していたにも拘らず、コッソリとタバコを一箱持ち込んでいた事にサキは溜息を一つ漏らすが、そんな様子はどこ吹く風、ヨハンナは煙草を美味そうに喫み、吐き出す紫煙をカリブの湿っぽい空気に混ぜていく。


「何ぞ厄介事に巻き込まれた奴が駆け込む先と言えば自国の大使館だ。だがお前は自分のセーフハウスに連れて行けと言う。ただの連絡員、一般職員程度の人間にしちゃあ普通の神経じゃあない」


 車の外に手を伸ばし、人差し指でトンと叩いて灰を落とす。喫煙者のマナー違反も甚だしいが、困った事にこの車には灰皿は無く、携帯灰皿なんて物も持ち歩いてはいない。まさか自分の服に落とす様な事は出来ないし、であれば喫煙をするなという話であるが、つい数時間前に特大の環境破壊をして灰を大量生産してきたヨハンナにとってみれば、この程度の事など考えるに値しない事だ。


「まだ片してない仕事があるんだろ、えぇ? ゲリラの基地を数人で叩いて見せた私らだ、味方につけて面倒事をやらせりゃあ取っ捕まってた分の遅れはチャラにならぁな。頭の回転は速い方だろうが、人を見る目は無いな、まっぴら御免だぜ」


「君のフィアンセは随分と想像力が豊かなようだ。一緒にいて楽しいだろう?」


 オーランドは笑みを浮かべたまま後部座席から身を乗り出しサキに問いかける。問いかけに対しサキは「臭うから近寄るな」と視線を向ける事すらせずに一蹴、完全に我関せずといった態度を見せた。


 暫しの間、沈黙が場を包んだ。古いUAZのエンジン音はやかましく、車体の方々からは軋む音が聞こえるが、それでも「沈黙」という言葉がその場には似合っていた。


「フィアンセ」


 すっかり短くなった煙草を弾いて捨てたヨハンナが呟く。フィアンセ、つまりは婚約者という意味の単語。ヨハンナとサキの間柄はその言葉で評して間違いは無い。ヨハンナは自身の首筋に手を這わせ、次いで胸ポケットからネックレスを取り出して確かめる。エンゲージリングを通したネックレス、これがサキとの契約の証であった。襲撃中、首から下げていては何かの拍子に無くしてしまう事を恐れて外しており、サキの方に視線をやれば、サキも同様に首から外していた。


 では、どうしてこのオーランドという男は、自分とサキの関係性を見抜いたのだろうか。同性婚が珍しい物でなくなって久しい今日この頃だが、それでも結婚する相手と言えば一般的には異性だ。女二人が行動を共にしているからと言って、婚約者パートナーと決めつけるのは早計である。


「フィアンセ。何故、私とサキがそうだと?」


 調子の良かったオーランドは黙りこくったままだった。吊り上がっていた口角は下がり、瞳はミラー越しにヨハンナを見ている。それがある種の疑問に対する回答となっていた。


「私達を知っているな?」


 ヨハンナはただの傭兵でありテロリストではない。指名手配されている訳でも無ければ、これ迄渡り歩いた戦場で華々しい戦功を立てた訳でも無い。少なくとも、唯の情報局の職員などに名前や私生活を知られるような事はある筈が無いのだ。


 とはいえ完全に無名という訳で無いのも事実である。方々の戦場を渡り歩き、金銭と愉快ないくさの為ならば雇われる先は問わず、国際法に見捨てられた第三世界の軍閥や武装組織、果ては犯罪組織等に与した時もあった。ならず者国家の軍人や、未来のテロリストやゲリラに軍事教練を行った事もある。それ故に国際的な情報機関や警察組織の人物リストに名前が載る事となったが、この稼業で飯を食っている人間ならば一度ならず経験は在る物で珍しくも無い。が、これ等のリストも一般に周知される物ではない。


 そして、別段ヨハンナはどこぞの街角で車爆弾を起爆させるだとか、地下鉄駅構内で化学剤を散布するだとか、そういった経験はした事が無く、地の果てまで追い詰め用を足している際に突入してくるような輩にまで手を出した事も無い。精々場末の木っ端役人を狙撃しただの、ならず者国家の政治家の邸宅に押し込んだだの、その程度に過ぎない。であるのでヨハンナもサキも、国外で活動する一般職員ですら名前を知っており、中央情報局ラングレー名簿キルリスト入りをして、大統領直々に抹殺指令が下される様な人間では決してないのだ。


 早い話が、ヨハンナとサキの関係性や名前を知るには、態々ラングレーの資料保管庫から要注意人物名簿を引っ張り出し――現在は電子情報化されているかもしれないが――数百と存在する「J」の頭文字が並ぶ欄をくまなく探さなければならないのだ。そこまで行くと最早偶々目にした、小耳に挟んだ程度の言い訳は効かない。そして、その資料保管庫にアクセスして、その内容に自由に目を通せる人物となれば少なくとも「一般職員」の範疇には収まらない。諜報員、工作員、つまるところ工作担当官ケースオフィサーである可能性が高い。


 ヨハンナもCIAの知り合いがいない訳では無いが、工作担当官など一番顔を合わせたくない相手である。隙があれば懐に付け入っては何某かの面倒事を擦り付けてくる。工作担当官とはそういった人種なのだ。祖国と民主主義、ひいてはFor人類Allの為にMankind等と美辞麗句を並べ立てるが、巻き込まれる側としては堪った物ではない。


 このバティスタで遭遇したのは完全なる偶然であるが、これはチャンスだと踏んだオーランドは、ヨハンナ達を美味いこと自分の手中に手繰り寄せ、便利に使ってやろうかと考えていたのだろう。だが、そんな考えなどヨハンナにとってみればお見通しであり、ましてこんな粗末なゲリラ連中の捕虜になる様な工作担当官の浅知恵など簡単に読み取れる。


「教えてくれよ、私に何をやらせるつもりだった」


「聞けば後戻りできないが、それでもいいのかい」


「そいつを決めるのは誰でも無い、私だ」


 ヨハンナはサキの溜息も気にせず、シートの隙間から身を乗り出し後部座席に座るオーランドを見据える。話を聞いたからと言って協力してやるつもりなどサラサラ無いが、それでも好奇心を抑える事が出来ない。ヨハンナはいつだってそうだった。常に自分が主導権を握っているつもりだが、大抵はその「つもり」であり、気付いた時には後戻りできない場所まで深入りしてしまっている。毎度の事であるが、ヨハンナに学習能力が無い訳では無く、その状況すら楽しむのがヨハンナの性格であり、敢えてその悪癖を直そうとしていないのだ。


 オーランドが口を開きかけたその時、急ブレーキと共にUAZが停車する。不安定な姿勢のヨハンナは背中と後頭部を強かに打ち付け恨めしそうにサキを睨んだ。


「痛ぇな、なにやってんだ」


「ハンナ」


 ヨハンナはサキの視線、道の先へと目を向ける。そこにはハバナの街角やドロテオの居城で目にしたのと同じMRAPが道を塞いでいた。その脇を数名の男達が固めており、防弾着を着用し銃を携え、その銃口は此方を指向していた。


『エンジンを止めて車から降りてこい!!』


 MRAPに装着された拡声器越しに聞こえるスペイン語は、キューバのそれと違いネイティブな物だった。


「ハンナ」


「いや…これは私のせいじゃあないだろ」





 ナナカはひっくり返った車内で目を覚ました。シートベルトをするのは日本に居た頃からの癖で、そのお陰で激しいクラッシュで横転した後でも身体を車外に投げ出される事も、車内で転げまわって大怪我を負う事も無かった。しかし事故の衝撃は凄まじく、全身は酷く痛み、逆さ吊りの状態が続いたせいか、眩暈と頭が割れそうな頭痛がナナカを苛んだ。


 ふと、天井を見下ろせば赤黒い血溜まりが広がっており、ぽたぽたと滴る血の雫がその嵩を増やしている。脇へと目を向ければ、そこには鼻から飛び込んだ銃弾によって内側へ顔面をへこませ、後頭部を弾けさせたマルシオがぶら下がっていた。飛び散った脳漿と血液の臭いが鼻をつき、あまりにもあっけない戦友の死を嫌でも認識させた。また自分一人生き残った。うんざりしているナナカだったが、息をつく暇が与えられる事は無かった。



 突如、車のドアがひとりでに解放されると同時にシートベルトが切断され、ナナカは血溜まりの中へと落下する。間髪入れずに、見えない力によって車外へと引きずり出され、ナナカは錯乱状態に陥った。


「うわ! うわああ!!」


 半狂乱になりながら腕を振り回し、周囲を見回すがそこには誰も居らず、逆さまになって白煙を吐き出す車と鬱蒼としたジャングルだけが広がっていた。まるでホラー映画で幽霊に連れ去られる出演者のようだが、これは現実で、そのような事はあり得ない話である。だが実際に、ナナカは見えない力によって引きずり回されていた。


 突如、ナナカは振り回す両手を見えない何かに捕まれると、また見えない手によって両の頬をひっ叩かれる。狐につままれたように呆けるナナカの眼前に、虚空から滲み出すように一人の影が現れる。顔は目出し帽で覆われ黒いゴーグルに瞳を隠されたていたが、その光景にナナカは一つのイメージが脳裏によぎる。それはまるで往年の名作映画で見た、ジャングルで屈強な男達を狩りたてる異星からやって来た狩人のようであった。


「落ち着いたかしら」


「あ、あぁ…一体なに…」


「長話する気は無いの。貴方はここを襲撃した側? それともされた側かしら」


 ナナカは周囲を再び見まわす。目の前で屈んでいる者と同様に、複数人の仲間と思しき者達が虚空から姿を現した。


「あぁ…私、私…」


「駄目ですね。完全に心此処に在らずって感じです」


 ナナカの前で屈む人物は仲間の言葉に大きくため息をつくと、フードをめくって目出し帽を外し、その素顔を露わにした。ウェーブの掛かった黒い髪に金色の瞳、そして頭頂には獣の耳。狼の亜人種であるその女は、ナナカの顔を掴んで引き寄せ、金の瞳で見据えて言った。


「いいこと、ヤポンスキ。今から30秒貴方に与えるわ。この30秒は30㎏の金塊より貴重よ。よく考えて発言しなさいな」


 ナナカは蛇に睨まれたカエルの如く小刻みに頷き、そのまま思案する。ふと、ある語句がナナカの数少ない言葉のボキャブラリーに引っ掛かった。「ヤポンスキ」とは日本人を意味するロシア語だ。ロシア人がなぜここに居るのか。だが、その存在をナナカは知っていた。アウグストの邸宅へ向かう道中マルシオが口にしていたのだ。ロシア人の同志とは、こいつ等の事か。


「ヤポンスキ? ロシア人か、マルシオが言っていたのはアンタ達の事か」


 残り時間ギリギリで絞り出すようにナナカは言った。回答としては不十分、しかし、マルシオと言う名前は、眼前のロシア人にナナカが話を聞くに値する人間だと認識させるには充分だった。


「なるほど、あの髭のキュートな男の知り合いね。じゃあもう一つ質問、マルシオは何処に? あの燃えカスになったキャンプに混じってるなら、探さないけど」


 ナナカは視線をひっくり返った車に移す。車内にぶら下がる死体、天井に拡がる血だまり、それだけでマルシオの居場所と現在の状態が充分察せた。


「あぁ、アレね。残念、まともに話が出来そうなのは彼だけだったから」


 ロシア人は残念と口に出して言いはするが、その口調や表情からは一切の興味や無念さと言った感情は見出せなかった。マルシオに対してだけでは無い。ナナカの生殺与奪を握っている状況で、彼女の命を奪うという、その事すらどうでも良いという風に、そのロシア人の女は他人の生き死にに対して何らかの感情を持っている様子では無かった。


「貴方が知っているかどうか分からないけど、貴方しか聞く相手が居ないから聞くわね。私達はパッケージを受け取りに来たの。時間が惜しいから素直に言うけれど、アメリカ人、30代男、ニヤケ面がムカつく奴。知らない?」


 このキャンプで暫しの間過ごしてきたナナカが家畜の檻に繋がれた見窄らしい男の事を知らない筈はなかった。周囲の者達と違う容姿のナナカを見るや、直ぐに助けを求め、日本人である事が分かれば同盟国のよしみだ等と宣う、その恥を知らない振る舞いをナナカは心の底から軽蔑していた。第一、ナナカはその政治的思想から合衆国と、同盟関係を結んでいる日本政府を毛嫌いしており、同盟国のよしみだ等と言われ、同族扱いされる事は何より我慢ならなかった。


 何を問われても観光客だのちょっと政府関係の仕事をしているが何も知らないだの、まともな情報も持たず満足な受け答えもできない男を、何故数少ない物資から食事まで出して生かして置くのか。ナナカには理解できなかったが、このロシア人たちが現れた事で得心がいった。


 つまりあの気に入らないアメリカ人は、やはり何かしらの合衆国政府関連の重要人物で、このロシア人達とクラウディオ等ゲリラ組織との間に引き渡しの取り決めがなされていたのだ。


「知ってる。世話もした。気に入らない奴だよ。事あるごとに同盟国のよしみってさ、バカみたい。一緒にするなって」


 この受け答えにはロシア人の女も苦笑いを浮かべた。酷い嫌われようだ。そもそもアメリカ人、とりわけ中央情報局の人間が他人に好かれる事など有りはしない――任務で取り繕っている場合を除き――のだが、同盟国の人間にすら此処まで毛嫌いされるとは。余程あの男は他人に取り入るのが下手くそなのだと見える。


「ただ、今アイツがどうなってるかは分からない。外から帰ってきて、キャンプの方から煙が昇ってて、到着って時に狙撃を受けてこの始末」


 ナナカはサキの狙撃によって車が横転し、キャンプが襲撃を受けている最中ずっと、今の今まで引っくり返った車内で気絶していたのだ。周囲に漂う燃料やら合成繊維、樹木の焼け焦げた匂いから状況が悲惨だという事は把握できるものの、実際のところ損害がどの程度なのかナナカはまだ把握していなかった。


 当然、あのいけ好かないアメリカ人の安否についても同様で、ナナカが心の中で望んでいたのは奴が炎に巻かれて丸焼きになっている事だったが、それはこのロシア人たちの手前、口に出す事はしなかった。


指揮官カマンディール


 ロシア女の無線機が彼女を呼ぶ。指揮官、この女は女だてらに熊のようなロシア人の男共を従えた部隊指揮官だった。ナナカも立ち振る舞いから何となくは察していたが、実際のところ、屈強な男を従える女指揮官と言うのはフィクションの中でしか見た事が無く、少々面を喰らっていた。


「なぁに。奴を見付けでもした?」


《いえ、発見には至っていませんが、捕虜の一人が情報を》


「捕虜なんて捕っていたの? まぁ良いわ、続けて」


《観光客と思しき二人組がグリンゴを連れ去ったと。狐耳と角が生えた…》


「ちょっと、何よそれは? 適当言ってるんじゃないでしょうね」


 女指揮官は眉を顰める。観光客が連れ去ったと。その上、狐の耳と有角の、漫画かアニメの様な風体の二人組と来た。こんなジャングルの奥地で。通常の完成であればそのような事を言われれば、その発言をした者は何某かの薬物でもやってハイになっているのか、混乱させる為に出まかせを言っているのか。だとしても、嘘をつくにしたってもう少しマシな内容があるだろうに。


「まぁ良いわ。そっちに行く。全員キャンプに再集結。捕虜は処分して」


「私はどうなる」


 ナナカは内心自分も処分されるのではないかと怯えつつも、平静を装って問う。事実、このロシア人達にとっては用済みだが、少なくとも協力関係にあるゲリラの一員である以上、そう簡単には殺されないだろうと思ってはいた。


 だが、何もない空間から急に姿を現す技術を持っている事や、そもそもこのバティスタ親米国家でロシア人が、合衆国の重要人物を回収しようとしている。つまり彼らが何某かの秘密の任務を遂行する部隊である事は、情報に疎いナナカでも何となく察する事が出来ていた。


 そんな連中を目の当たりにし、あまつさえ指揮官の顔を拝んでしまったのだから、情報保全やらの為に始末されても何ら不思議では無かった。しかし、ナナカの不安を余所に帰ってきた返答は意外な物であった。


「え、別に好きにしたら良いじゃないの。もう貴方に何か聞く事も無いし」


「好きにしたらって、まさか後ろから撃ったりしないよね。私はアンタ達の顔を見たわけだし、口封じだのなんだのって…」


「人聞きの悪い事言わないでくれるかしら? 殺してほしいなら構わないけれど」


「いや、いや結構。ご高配に感謝いたしますよ。でも今ここで好きにしろって言われても、行く場所が無いんだよ。他の連中にツテがある訳でなし」


「そんなの私の知った事では無いわヤポンスキ。お友達作りをサボったツケが回って来ただけじゃないかしら?」


 困った様子で後を付けて来るナナカを鬱陶しく思いながら女指揮官は追い払いはしない。用済みの情報源で、日本人である以外に特別な事も何もないただのゲリラの下っ端だが、祖国から遠く離れた地に於いて、限られたリソースの中でやり繰りしていくにはこういった者も活用する事が肝心で、何か使い道は無い物かとぼんやりと考えていた。


「あぁ、じゃあ、この周辺の道案内を頼めるかしら。抜け道とかあるでしょう? まさか知らないなんて言わないわよね」


「喜んで、それなら是非――」

『話が違う!! 話が――』


 喜びかけたナナカの言葉を悲痛な叫びと銃声が遮る。声の方向へと視線を向ければ、跪いて並べられた捕虜たちが「処分」されている真っ最中だった。叫んだ声の主はラテン系のそれとは違う肌の色をしており、表皮に見える鱗の様な模様は彼らが正鰐類の亜人種である事を示している。


 大方正直に情報を喋れば見逃すとでも言われたのであろう。相手が約束を反故にするといった考えを巡らせるまでも無く、無垢な現地人であれば素直に助かるのだと信じて喋ったのであろうが、運の無い連中だ。スラブ人が約束やルールを守る筈が無いのだ。


 彼らはこの湿地帯に住まう先住民族で、ナナカはこのキャンプに来た時にクラウディオらキャンプの者達から先住民たちの事は聞いていた。武装をしており、活動を度々妨害すると。しかし実際目にしたのは初めてで、まさか彼らがここを襲撃するとは思ってもみなかった。


「こいつ等は何者なのかしら。ゲリラに対する抵抗組織とか?」


「私も詳しくは知らないけれど、沼地に住んでる先住民族だとか。見たのは初めて。武器は持ってるって言ってたけど、まさか、此処を襲撃できるまで戦力があるとは…」


 そこまで言いかけて、ナナカはある事を思い出す。先程の女指揮官と部下との通信で微かに聞こえたある言葉。狐の耳と角、そして二人組。なるほど、全て合点がいく。正しくはないかもしれないし、あくまで憶測に過ぎないが、あの二人がこの哀れな住民達を唆して襲撃させたのではないか。


 これが事実ならばあの二人は一体何者なのか。国軍の特殊部隊…それはまずありえない。政府の雇った外国人の軍事アドバイザーか工作員、はたまた傭兵か。その線が妥当ではあるが、あまりにも突拍子もない考えであるし、なんにしたってあんな見た目の奴等を雇う方の気が知れない。とにかく、あの二人は要注意人物である事がハッキリした。

 

「ウオォッ!!」


 二人最後に残った捕虜の片方が雄叫びを上げ、後ろ手に縛るタイラップを引き千切る。制止しようとする者達をその有り余る亜人の腕力で跳ね飛ばし、奪い取ったライフルを振り抜いて銃口を向けようとする者の顔面を打ち砕いた。


「アデラ! 逃げろ!!」


 亜人種の男は女の方へと叫び、ライフルの銃口をナナカ達の方へと指向する。が、それと同時に男の胸と顔面に数発の9㎜弾が叩き込まれる。撃ったのは女指揮官。素早く抜いたドイツ製の小型拳銃を腰で構えながらの正確な射撃に、思わずナナカは舌を巻いた。


 男と同様タイラップを引き千切った女の方もこの状況では逃げ切る事が出来ず、あえなく銃弾を浴びて焼け焦げた地面に沈んでいた。


「亜人種相手にタイラップ一本じゃ不足でしょ。想定が甘いわよ貴方たち」


「ハ、すみません」


「損害は」


「サーヴァが顔を潰されてます。後送が必要です」


 女指揮官は大きくため息をついた。全くもって情けない不覚の取り方である。これでも大戦を生き残った精鋭と、それに鍛えられた男達なのか。とするならば質の低下は著しい物である。


 女指揮官は目頭を指で抑えつつナナカの方を向くと口を開いた。


「貴方、軍隊経験は」


「自衛隊に数年」


「良いわ。部隊の穴を埋めたいの。私はライーサ・アルトゥーホヴァ。察してはいるでしょうけど部隊指揮官よ。貴方は」


「ナナカ・オリヒラ。あんまり期待しないでよ。悪運だけの女だからね」


 それで充分、自分達も肖りたいものだ。とライ―サは笑い、落ちているライフルを一つ手に取りナナカへ手渡した。



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