第5話 ruta de escape

「痛った…」


 マンホールの中へと落下したナナカは身体を強かに打ち付けはしたが、フェリペの言う通り敷かれていたマットレスで衝撃は幾分か和らげられていた。とは言え5メートルは落下した衝撃にナナカは顔を顰め、そしてその顔を親衛隊兵士の持つライトが照らした。


「いたぞ、下だ!」


 ナナカは素早く転がって光の中から身を躱すと、落下を受け止めたマットレスにぶすぶすと幾つもの穴が穿たれた。間一髪で射撃を避けたのも束の間、追い打ちとばかりに手榴弾が下水道に投げ込まれ、コンクリートの床や壁に弾体が当たる金属音が反響する。脚を縺れさせながら逃げるナナカの背後で手榴弾が炸裂し、破片が下水道の壁面や天井を跳ね回り、閉鎖空間での爆発により襲い来る逃げ場のない衝撃波が一時的に聴覚と見当識を喪失させた。


「やったか? 確認しろ」


「タラップがありません、降りるのは危険です」


「くそ、周囲の部隊に通達、全ての下水道の出入り口を封鎖するんだ。それと、誰か梯子かロープを持って来るんだ」


 網の目のように張り巡らされた下水道の出入り口は旧市街も含め幾千存在し、60年代の大ハバナ都市圏構想なる都市計画によって整備された下水道や地下道は迷宮同然で、当然それら全てを監視する事も封鎖する事も不可能に近かった。とはいえ、議事堂目の前で逃亡を図ったテロリストがおめおめと逃げ去るのを指を咥えて見逃す訳にもいかず、指揮を引き継いだ下士官は無理を承知で下命した。


 その一部始終を議事堂の窓から見下ろしていたカルデナス大統領は、テロリストを逃がすばかりか貴重な外貨獲得源である観光客に被害を出した親衛隊の不手際に酷く気分を害していた。


「不手際だな」


「は、申し訳ありません」


「あの場に居た連中は処分しろ。国益を害した。不愉快極まる。勿論、事が済んでからだが」


「承知しました」


 きつい語調でドロテオに言い放った大統領は、窓際のサイドテーブルにグラスを置いて深くため息をついてその場を後にした。ドロテオはそれを見送り窓の外へと目を向ける。議事堂前の通りでは兵士達が負傷者の救助や周辺の捜索など慌しい様子を見せていたが、そのどれもが現場指揮官の喪失と外国人観光客への発砲による混乱から脱し切れていなかった。

 その醜態は目を背けたくなるものだったが、大統領親衛隊を統率する身としては今後の課題として受け入れねばならなかった。しかし国軍の中で最も潤沢な予算を持つ親衛隊とは言え、そもそも国家予算そのものが少なく、その中から計上される親衛隊の予算では先進国の精鋭と並ぶほどの十二分な訓練を施すのは些か無理があった。が、その様な言い分は大統領には通じないだろう。

 ドロテオはグラスを空にすると、サイドテーブルに置いて事後処理のために部屋を後にした。




「っはあッ、くっそ、マズいなこれ」


 ナナカは携帯電話のライトで下水道を照らし、壁に手を突きながら歩く。自分が今どこへ向かっているかも分からなかったが、追撃を逃れる為には落下地点を離れるより他に道は無い。フェリペが言うには都市ゲリラが残した道標が存在し、それを目印に進めば何処かしら出口やセーフハウスに行きつくとの事だった。しかしナナカ自身は件の都市ゲリラと親交がある訳では無く、その道標がどのような物であるかも教えられてはいない。

 落下直後の追撃は辛くも躱したが、閉鎖空間での手榴弾の炸裂では流石に無傷という訳にもいかず、背や左足に破片を浴びて出血、大事には至っていないが負傷から来る苦痛は日本人のナナカには慣れない物だった。幸い下水道は作業用通路が整備されており、汚水に足を浸ける事なく移動できる構造であった。破傷風の恐れはひとまずは回避できたが、汚水に浸からないとは言え不衛生な環境であり、一刻も早く下水道から抜け出す事が最善である事は変わりない。


 携帯電話の時計で時刻を確認すると、下水道への落下から一時間ほど経っていた。浮浪者の溜まり場ともなっている下水道はゴミに溢れて足場が悪く、ゴミを踏み抜くか蹴って退かすとネズミがその陰から這い出しては足元を駆けて行き、不快感に全身に悪寒が走る。酷い悪臭と視界不良に長時間曝され、全身を苛む苦痛に耐えているとナナカの疲労は限界へと達して意識が遠のき始める。それでも生き延びる為に必死に目を凝らし、壁や床をライトで照らして落書きだらけの下水道を進む。

 あても無い逃避行の中、ふとナナカは落書きの一部に目を留める。下水道の落書きはどれも乱雑で意味など無いデタラメな物から、華麗なグラフィティまで様々だったが、それらにある共通した文様が混ざっている事に気付いた。最初は疲労から在りもしない希望に縋ろうとしていたのだと思ったが、数度見返して文様の法則性を確認してナナカは確信した。それは間違いなくフェリペの言っていた都市ゲリラたちの道標であった。


 道標に従い出口を目指す中、都市ゲリラが拵えた物か、古い地下道の残りかは定かでないが隠された道を見つけ、そこを通る事でナナカは下水道へと降りてきた追跡者を躱す事が出来た。隠された通路には本当に小規模であったが隠れ家も存在し、一人分の寝床と僅かばかりの物資が貯蔵されており、ナナカはそこで懐中電灯と古びた拳銃とナイフを入手する。拳銃は数丁保管されていたが、保管状態は酷いもので、殆どが錆びたり腐食したりと使い物にならず、本体の程度が良くとも弾薬が湿気て薬莢が錆びていたりと酷い有様だった。結局ナナカが手にしたソ連製の小型拳銃一丁だけがまともに使用に耐える物で、それでも弾薬や弾倉の状態が良い物を選別した結果、実包20発と弾倉三本分にも満たない数量しか残らなかった。


 ナナカは荷物を纏めると再び道標に沿って下水道を行き、追手の目を躱しながら遂に地上への出口に達する事が出来た。タラップを登り、開きやすいよう細工が施されたマンホールの蓋を退かすと、そこは狭い路地裏の袋小路、入り組んだ旧市街の中心部だった。ハバナを脱出するためには本来ならば少しでも街の外縁、封鎖線の外側へと出る方が良いのだが、今ナナカが目指しているのはその逆、旧市街の中心部に居を構える協力者の元だった。

 しかし旧市街一帯は封鎖され、憲兵隊や「警備会社」による反政府勢力の掃討作戦が進行中であり、議事堂前で聴こえていたより銃声はより多く、より近く激しいもので、旧市街の外と危険度は段違いだと肌で感じ取れるほどであった。


「うっ!」


 下水道から這い上がったナナカは、狭い路地に充満する汚水とは違った異臭に顔を顰める。周囲に目を凝らせば、そこら中に大量の死体が放置されており、そのどれもが銃弾による弾痕を穿たれていた。ナナカが感じた異臭はそれら死体が放つ血の匂い、いわば死臭であった。


「クソ、見境なしじゃない」


 無造作に放置された死体は反政府活動に参加する可能性のある若い男達のみならず、年老いた老人や女性、年端もいかぬ子供まで含まれていた。反政府勢力に加担している者など旧市街住民の数%にも及ばぬというのに、日が暮れてから深夜まで銃声が鳴り止まぬ事の答えがこれであった。当局側の交戦規定である「武装・非武装の如何を問わず抵抗する者は排除、非武装であっても武装の隠匿やテロリストへの共謀が疑わしき者は排除せよ」とは、無差別虐殺を企図した物に他ならず、その結果はいまだ鳴り響く銃声とナナカの目の前に広がる光景を見れば一目瞭然である。

 この惨状を世に知らせる為、そしてなによりこの蛮行を指示した現政権を打倒する為に、ナナカは死体に軽く手を合わせると、そろりと死体の間を縫って路地を後にした。


 当局側の掃討作戦の念の入り様は相当の物で、狭い路地の一つ一つ、部屋の隅から隅に至るまでを捜索・掃討し、住民たちは全て通りに並べられ身体を改められた。少しでも抵抗の素振りや怪しい挙動を見せれば文字通り「尻の穴まで」調べられ、最悪その場で射殺される。

 住民達が痛くも無い腹を探られる事に不快感を覚えるのは当然で、特に貧困層の住人は自分達の居住空間に立ち入られるのを嫌い、まして見ず知らずの外国人警備員に土足で踏み入られようものならば、怒りを露わに抵抗を試みる者が出るのは当然であった。そうした者たちは片端から「反乱分子」として処分されていった。

 路肩に鎮座する廃車の裏に隠れるナナカの目の前で、その「反乱分子」の処分が今まさに行われていた。外国製の小奇麗な装備に身を包んだ警備員が逃げる市民をライトで照らし、その背中に向けてカービンの引き金を引く。眩い発砲炎が瞬いて路地を照らし、膝を裏から銃弾に砕かれた市民は地面に突っ伏した。警備員は這いずるその背にトドメとばかりに数発撃ち込み、物言わぬ死体と化した市民を顧みる事なく次の獲物を求めて去っていく。

 ナナカは堪え切れない悪態を小さく漏らす。そこには無抵抗の人間の背を撃つ殺人者達への怒りと、何もしてやれぬ己の無力さへの苛立ちが混じっていた。とは言え、セラミックプレートを備えた防弾ベストとヘルメットを身に着け、カービンライフルを携えた生え抜きの戦闘員を相手に、たかだか9×18㎜弾の拳銃で出来る事が何もないであろう事もナナカは理解していた。よく訓練され、潤沢な装備と兵力を持った相手に立ち向かうにはそれ相応の力が必要で、今のナナカは自分の身一つ守る事すら危うい状況だった。

 警備員たちが去った通りをナナカは無人であるか確認し、注意深く素早く横断して再び物陰に身を隠す。悲鳴と銃声が散発的に響き、旧市街の中心部という事もあってか銃声は周囲全ての方向から聞こえ、ナナカは路地を行けば遅かれ早かれ敵と遭遇し、やり過ごすのも限界があるだろうと判断、屋根上を伝って移動する事にした。が、それは大きな間違いだった。


《ジャッカル4-1、ジャッカル4-1、こちらセプター2-2、旧市街セクター7エリア1‐2の建物屋上に不審人物。急行し確保せよ》


『セプター2-2、こちらジャッカル了解。対象の継続監視は可能か』


《可能だ》


『了解セプター、ジャッカル、アウト』


 SSG社のドローンオペレーターは灰色の町並みと、その屋根に浮かぶ白い人影を見据えて現場の隊員に情報を伝達する。旧市街の遥か上空を無人偵察機が漂い、その電子の瞳が屋根を伝うナナカを捉え、その一挙手一投足の全てが見透かされていた。その事をナナカは知る由もなく、背後から追跡者が迫り、行く手で狩人が手薬煉を引いて待ち構えているなど思いもしなかった。そのまま路地を行けば少なくとも無人偵察機に姿を捉えられる事は無く、多少会敵の危険があったとしても目的地へと辿り着く可能性はあっただろう。

 ナナカも不用心ではなかった、旧市街の外に居た時から国軍の軍用ヘリによる空中監視がある事は把握していた。それを加味したうえで屋根に上り、ヘリの音や目視での位置確認をし、サーチライトが此方に向くタイミングを見計らって身を隠すなどしていた。しかし国軍はともかくSSG社のオペレーター達の目を誤魔化すことは出来なかった。


 屋根を数棟分越え、ナナカは身をかがめてヘリのサーチライトを躱す。眩い光が円形の昼間を作り出して屋根を撫でつけ、ナナカの脇を通り過ぎる。背後に去って行くその光を目で追った時、ソレをナナカは捉えた。サーチライトの光を浴び、忌々しそうにヘルメットに装着されたNVGを跳ね上げる数名の影、黒いバラクラバで顔を隠していたが、一瞬だけ見えたその青い瞳は正確にナナカを見据えていた。

 追手だ。ナナカの思考は一瞬のパニックに襲われる。暗所に順応していなかったオペレーターの裸眼はナナカを見失っていたが、その鋭い眼光はナナカを恐怖させるに十分だった。なぜ追跡されたのか、その考えに至る前にナナカの身体は反射的に腰の拳銃に手を伸ばし、ライトが過ぎ去った暗闇、黒尽くめの戦闘員が居た方向に向けて引き金を絞っていた。

 乾いた銃声と共に生じた発砲炎がコロニアル建築の屋根を照らし、ナナカは駆けだした。狙いもつけずに放たれた銃弾は明後日の方向へ飛ぶが、未だNVGの機能が回復しないオペレーターは突然の発砲に怯み、再び「夜目」を利かせた時にはその姿を見失っていた。


「発砲!発砲だ!セプター、目標を見失った。追跡してるか」


《見えている、対象は「網」に向かって逃走中。追跡を続行しろ》


「了解、クソッタレ国軍め。余計な事をしやがって」


 悪態を突きながらオペレーター達は洋瓦の屋根を進む。緩やかな傾斜のついた洋瓦の屋根は歩きにくく、下手をすれば足を滑らせて落下の危険があった。しかし恐怖に駆られたナナカは危険を物ともせずに一心不乱に駆け、建物と建物の間の僅かな隙間は一息に飛び越え、追跡するオペレーター達との距離を広げていく。しかし、それは彼らにとっては織り込み済みであった。

 ナナカがいくつかの屋根を越え、他よりやや小高い屋根の頂を越えた瞬間、眼前を眩い光がナナカの視界を奪った。


「武器を捨てて投降しろ!」


 拡声器で増幅された訛りの強いスペイン語が、耳障りなハウリング混じりに投げ掛けられる。ナナカの逃走経路上で網を張っていたオペレーター達が一斉に通りを挟んだ屋根の頂点から身を乗り出し、カービンライフルの銃口を指向しフラッシュライトに照らされるナナカに照準していた。

 しかし次の瞬間、彼らの照準からナナカの姿が消えた。突如ライトに照らされて視界を奪われたナナカは洋瓦の不安定な屋根で足を滑らせ転倒、そのまま屋根を滑り落ちて行ったのだ。


「うわっ!うわわわ!!」


「逃げるぞ、撃て!」


 滑り落ちるナナカに向けてオペレーター達は発砲を開始、しかし銃弾は滑り落ちる標的を捉える事なく屋根に大量の穴を穿ち、ナナカは散る破片を浴びながらついには軒先より飛び出してしまった。高さは約12メートル、地面へ落下すれば無事では済まされない。が、勢いよく軒先から放り出されたナナカはそのまま通りを挟んだ建物の窓へと突入、部屋の端でまで転がり、壁に激突してようやく停止した。

 全身擦り傷と割れたガラスによる細かい切り傷だらけ、散々な有様に加えて落下の衝撃で全身が酷く傷む。しかし息をつく暇など与えてはくれない。上階から慌しい足音と怒鳴り声が聞こえ、ナナカは痛む体に鞭を打って立ち上がり、出口を目指して歩き始める。

 部屋の戸に手をかけてノブを捻った瞬間、ひとりでにドアが開け放たれる。眼前にあったのはバラクラバを被ったオペレーターの顔。驚愕の表情を浮かべるその瞳と丸くしたナナカの目が合い、一瞬お互いに硬直する。


「あ…、ドモ…」


「いたぞ!こっちだ!」


 ナナカの拳銃から銃声が轟き、首と顎に銃弾が撃ち込まれたオペレーターが血を噴き出し仰け反って廊下に倒れ込む。拳銃弾程度は容易に弾くヘルメットやボディアーマーを身に着けてはいても首と顔は全くの無防備だ。対破片防護のゴーグルもこの場合意味を成さない。顎を9㎜弾に砕かれた仲間が倒れるのを見た後続のオペレーターは一瞬たじろぎ、部屋から飛び出すナナカへの対処に遅れる。そして、それが命取りとなった。

 叫びながらナナカは拳銃を発砲、至近距離からの射弾は片手での当てずっぽうな射撃でもオペレーターの右腕を貫き、一瞬遅れたオペレーターの射撃は逸れて壁に穴を穿ち、消火器を破壊して狭い廊下を消火剤の煙幕で満たしてしまった。


「チクショー!被弾した!」


「撃て!撃て!野郎を仕留めろ!」


 被弾したオペレーターを一人が背後に引きずり、二人が狭い廊下いっぱいに銃撃を浴びせてそれを援護する。二人分の射撃が廊下を埋め尽くし窓ガラスや調度品を粉々に打ち砕く。濛々と立ち込める消火剤の煙が晴れ、視界がクリアになると同時にオペレーター達は廊下や部屋の中もくまなく検索するが、そこにナナカの姿は見当たらなかった。


「くそ、何処へ行った?」


 オペレーターが周囲に目を走らせると、蓋が開け放たれたダストシュートが視界の端に映る。それは成人男性が飛び込むには些か小さく、一瞬無視しようかと意識の端に追いやろうとしたが、最初の会敵時に見えた影を思い出し、もしやと思案する。部屋から飛び出し、発砲したその姿は成人男性とするには小さかった。もし女性であるのなら、このダストシュートも逃走経路として機能するのではないか、と。

 ダストシュートをつぶさに観察すると、縁に僅かながら付着する血液の沁みと衣服の切れ端、それが何を示唆するのか、容易に判断が出来た。畜生、たかだか鼠一匹にこうも出し抜かれたか。SSG社のオペレーターは歯噛みしつつも他の仲間を呼び、ダストシュートの繋がる先を検索に向かった。


「…痛ったぁ」


 本日三度目の高所からの落下を経験したナナカは、強かに打ち付けた尻をさすりながら這う這うの体でゴミの山を抜け出し、追手が大挙して押し寄せる前にその場を後にした。全身が満遍なく痛むが、腕も脚も満足に動くので確証は無いが恐らく骨折の心配は無い。その代わりに肌の露出した個所は切創や打撲痕、擦過創まみれで着ていた服も至る所が破れ、今のナナカはまるで浮浪者のような格好であった。

 そのまま数ブロックを逃走したナナカは無数に転がる死体を乗り越え、シャッターの閉じた自動車工場へと行きついた。工場とは言うがさほど立派な物でもなく、せいぜい一、二台分のスペースがある程度の個人経営の修理工場だった。看板を確認し、シャッターに記されている名前も確認し、そこが間違いなく目的地であることを確認する。


「正面は…駄目だよね」


 通りには薬莢が転がり、複数の血痕も散らばっている。間違いなくこの通りでも銃撃が発生し、そうである以上は馬鹿正直にシャッターを叩いて名を告げただけで主が門戸を開く事は無いだろう。ナナカは注意深く通りを観察し、素早く横断して暗がりから自分の通ってきた道を観察し、追手がない事を確かめた。先程の会敵地点からここまでの逃走中に追撃が無かった以上、相手は完全にこちらを見失っているのは明らかであったが、それでも念には念を押した。上空から監視をする無人偵察機も入り組んだ旧市街の路地に潜まれれば、高性能な熱線映像装置を備えていたとしても用を為さないのだろう。

 ナナカは工場の裏手へと回り裏口の扉を数度静かにノックする。しかし待てども応答はない。息を潜めていたいのも無理は無いが此方も非常事態であるから、ナナカは不本意ながらドアノブを捻ってみる。すると予想に反して裏口は施錠されておらず、すんなりと扉は開いてナナカは屋内へと侵入する事が出来た。警報装置の類も無し、不用心極まりない。が、ナナカにとっては僥倖であった。

 工場内に足を踏み入れ懐中電灯を数秒点灯しては消し、自らの位置をなるべく露見させぬように歩みを進めるナナカは奇妙な違和感を覚えた。工場内は明かりの一切が消えて静まり返っており、工場の主は逃げ出してしまったかとも思ったが、そうではない、人の気配を感じるのだ。既に踵を返して逃げだすには深く入り込み過ぎていたナナカは、後頭部をナイフの切っ先で撫でつけられる様な感覚に襲われつつも先へと進んだ。正確には今振り返れば取り返しのつかない事になりそうで、ナナカには先に進むより他に選択肢が無かったのだ。

 ナナカは作業場にたどり着き、懐中電灯で周囲を探ると足元に引き摺った様な血痕を見つける。その血痕の伸びる先を追い、やがてジャッキアップされたセダンに行き着く。そこには髭を生やした五十がらみの男が寄りかかり、口から微かに息を漏らしながら肩を喘がせていた。男はこの修理工場の主、アンヘロ・アコスタだった。アンヘロは口の端から血を垂らしながら自信を照らす光に眩しそうに眼を細め、よく見えはしないがナナカを睨みつける。手で押さえられた腹部は血でべったりと濡れており、血痕の元は其処であることは明らかだった。


「動くな」


 ナナカの背に銃口がめり込み、同時に発せられる声に血の気が失せる。心拍数が増大し、呼吸が乱れ、懐中電灯で照らす範囲以外は良く見えないにも関わらず逃げ場を探すように目が泳いだ。やがて数名の男達がランタンを持って現れ、作業場がおぼろげに照らし出される。その風貌から少なくとも男達は警備会社のオペレーターや国軍でない事は判別できたが、かといってそれが友好的である証左にはならない。まして、アンヘロを手に掛けた者達である恐れもあるのだ。


「何だ、お前は」


「助けてくれるって聞いた、だから来たんだ」


「誰に」


「フェリペ・カミノ。私の仲間で、革命活動家。アンヘロ・アコスタって修理工の知り合いらしくて、ヤバくなったら助けてくれる手筈だった」


 ナナカは素直に答える。正直賭けの要素が強いが、嘘を答えて相手が反体制活動家であった場合、自身の立場が非常に悪くなるからであった。なにより、彼らが政府側の人間であればこうして捕えられた時点で「詰み」なのだから、正直に答えたとして大して変わりがないのだ。


「もう一人いるんだな、そいつは何処だ」


「死んだ、議事堂の前で」

 

 男達は顔を見合わせる。仲間が死んだ場面を見たという事は、この女も議事堂の前に居たという事だ。そこから封鎖された旧市街に潜り込み、監視と掃討の目を掻い潜ってここまでやって来たと。信じられないという気持ち半分、大した根性の持ち主だという気持ち半分だった。男達の目がナナカを見据える。


「お前一人で来たのか、信じられねえな」


「私自身信じられない、死ぬかと思った」


 ナナカのみすぼらしい姿を見て男達は一応の納得を得る。男の一人がナナカの背後の人物に合図して銃を降ろさせ、男達は警戒を解いた。


「まぁ、良い。そこに倒れてるのがアンヘロだ。俺達が来る前にグリンゴ共が来て撃ちやがったらしい。手当はしたが、長くなさそうだ」


 アンヘロは俯いて喀血を繰り返す。見れば腹だけでなく胸元にも弾痕が見え、致命弾にならないにせよ、それが呼吸器を傷つけているらしかった。彼が撃たれたのは反体制派の協力者とバレての事なのか、それとも唯々無差別虐殺の被害者の一人としてそうなったのか、それは知る由は無い。しかし状況が悪い方向に向かっている事だけは確かだった。なにしろナナカにとってはアンヘロだけがこの殺戮の渦に飲み込まれたハバナを脱出する唯一の希望であるからだ。その希望が今まさに潰えようとしている。


「くそ、これじゃあ脱出できないじゃないの。クソ、クソ……で、アンタらは何なのさ。随分落ち着いてるけどさ」


 ナナカは頭を掻きむしりながら悪態をつき、愕然としながらその場に腰を下ろした。顔を見上げれば背に銃口を押し付けていた人物と目が合った。そう歳の離れていない女だったが、男達と同様に落ち着き払っている様子だった。


「俺達は政変当時からハバナで活動してるレジスタンスだ。政府の豚共に言わせりゃ『テロリスト』って奴だな。ハバナの外から来た連中が派手にやらかしやがった上にヘマしやがって、この有様だ。流石に居られないから脱出するんだよ」


「じゃあアンタらもヤバいって訳だ。此処で立ち往生だね」


「いいや、アンヘロは仕事をした。この車と、俺たち全員分の通行許可証、外交官の身分証、それとお偉いさん風の衣装まで用意してくれた。もしもの時に備えて車も改造済み、至れり尽くせりだ」


 ナナカの目に光が戻る。潰えかけた希望が再び自身の前で燦然と輝きだした。が、リーダー格の男がナナカの表情を見てそれを制した。


「残念だが、お前の分の用意はない」


「何で!? 助けてくれるってアンヘロが」


「当たり前だろ、お前は飛び入りで何の用意もされてないからだ。コイツが元気だったら何か手は有ったかもしれないがな。残念だ」


 思っても無いくせに。そう声が出掛かるが、冷静に考えればその言い分も尤もである。予備プランとしてフェリペと示し合わせていたとはいえ、直接の確認も顔合わせも無しに漠然と「助けてくれる」程度の認識でどうやって逃がしてくれるというのだ。ナナカは呆然としながら溜息をつき俯いた。議事堂前で身元が割れたその時から既に自分は「詰み」だったのだ。ナナカは全身から力が抜けて行くのを感じ、肩を落として愕然とする。しかし、そこにしゃがれ声でアンヘロが口を挟んだ。


「…逃がして、やれ……」


「なに? おい、逃がすったって、通行証も無いんだぞ」


 アンヘロは手を震わせながら後部座席とトランクを親指で指し示した。


「こういう時に…備えて、な……一人、二人分はスペースが、ある……俺は…抜かりない…からな」


 男達は再び顔を見合わせて考える。確かにそれならば身分証や衣服が無くとも問題は無いが、それはリスクが大きい。外交官の身分証と通行許可証が有れど旧市街から出るとなれば間違いなく検問を通り、その際に車内の検索を受けないとも限らない。アンヘロの腕前は確かではあるが、この事態の最中において政府側も手抜かりなどしないだろう。もし見つかりでもすれば全員が危険に曝される。


「俺は構わない、違う派閥と言えど同志だからな、見捨てるのは忍びない。手段が有るなら助けるべきだ。エルナンド、ミレイラ、お前たち二人の意見を聞きたい」


 リーダー格の男は口ひげを弄りながら問う。禿げ頭のエルナンドは「マルシオが言うなら」とリーダー格の男に即座に返すが、女の方、ミレイラは難色を示した。ミレイラは同じく反政府運動に加担していた弟二人が居たが、弟達は街の外から来た余所者に唆されてホテルの襲撃に参加した。結果、下の弟はエントランスで車爆弾に吹き飛ばされ、上の弟は頭を7.62㎜弾で砕かれて死んだ。先走った余所者たちが唆さなければ弟達は死なず、街を出る必要も無かった。それ故ミレイラはナナカの様な余所者に対し良い心証を持っていなかったのだ。ヘマをして窮地に陥ったのはナナカ達のミスであるし、その尻拭いの為に此方が危険に曝されるのは筋が通らないというのがミレイラの主張だった。


「この街を知らない余所者が好き勝手やったお陰でこのザマだ。コイツを連れて行くなんてリスクは取れない。私一人死ぬだけならいいさ、でもアンタら二人も道連れってのはイヤだね」


 しかしミレイラもマルシオ同様に情が深く、同志であるナナカを見捨てられない気持ちがあり、「但し」と付け加えて続けた。


「何か、私たちに有益な何かを持ってるっていうなら、乗せてもいい。技術、情報、物資、何でもいい。それで判断する」


 俯いていたナナカが顔を上げ、マルシオとエルナンドの顔を見る。二人はミレイラの言う事に賛同している様だった。先程まで曇っていたナナカの顔が疲れを見せながらも明るくなっていく。


「情報なら、ある」


「何の情報?言ってみな」


「私とフェリペの直近の仕事は件のホテルの監視だった。襲撃があった時も、あそこに居た。始まりから終わりまでずっと監視して、事が上手く運べば当局の動きを逐一伝えて脱出を支援する手はずだった」


 ミレイラの顔色が変わる。弟達が死んだその場に居たという事は、その瞬間も見ていたかもしれない。情報によれば憲兵隊が到着するまでに宿泊客が反撃に出たと聞く。もしかしたら、弟を殺した相手の顔も見ていたかもしれない。今すぐに仇が取れずとも、きっと必ずチャンスは巡ってくる。ミレイラはナナカを促し話を続けさせた。

 ホテルの話題でミレイラの表情が変わるのをナナカは見逃さなかった。うん、これは使える手だ。そう考えたナナカは、自分で気付かぬ内にまるでストレート・フラッシュをテーブルに叩き付ける様な表情をして言った。



「それで…誰が、あのホテルを制圧したか。知りたくない?」

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