十五.
空いていた椅子に腰掛け、将斗が開いていた古そうな本へ目線を落とす。
「なに読んでたんだ?」
「文芸部誌だよ。廻谷にも数年前まではあったんだ」
表紙にはアニメ調のイラストが描かれていて、いかにも学生が書き下ろしたといった風ではある。
吹奏楽部に文芸部。榊先輩の訴えに同情するわけじゃないけど、廃れて朽ち果てた部はこれまでも他にいくらだってあったんだ。
「お前が復活させれば良かったのに」
「一人じゃ難しいよ。今や廻谷は部員が十人もいれば多いほうだろう? ここ数年で帰宅部も増えたし……新聞なら一人でもなんとか作れるけど、文芸は作品持ち寄って雑誌も作れないんじゃあまともな部活動にならないさ」
まともに活動していない部なら他にもいくらだってある。別に気にしなくて良いんじゃないか──なんて、生徒会の立場で言ってしまっては本末転倒だろうなあ。
「涸沢のその顔を見るに、一人きりの部じゃもう予算は出してもらえなさそうかな」
将斗は本を閉じ、少しの間僕の顔を眺めると自ら本題に切り込む。
勘も良い。できるかぎり申し訳なさそうな表情を作って頭をかいてみた。
「悪いな。新聞部だからダメってよりも、最初から夏休みは予算カツカツで……」
「だろうね。なんとなくわかってたよ。実は僕もダメ元で聞いたみただけなんだ。そこまで切羽詰まってるわけじゃないから、あんまり気に咎めないでくれ」
心底気にしていないような素振りに拍子抜けする。りえか会長の言う通りだったか。ダメ元という話なら、どこの部も結局は、あたかも困窮しているように
資料室に来て早々、これ以上長居する意味がなくなってしまった。りえか会長に指示された通り、ここで引き返せば廻谷の総勢十グループもの調査はコンプリートだ。
……どうしようか。
長らく頭をよぎったのは、将斗が掴んだかもしれないという特大スクープと、先輩──特に三年の先輩たちが揃って口にする、二年前に起きたという事件。
卒業式にいきなり三十万円を無駄にさせたというかつての小さからぬ事件が、二年経ってから前触れなく生徒会で牙を剥き、今も猛威を奮っている。
……知らない。
知らないで済ませて本当に良いのか?
それとも。もしかして逆なんだろうか。
知らないままでいたほうが廻谷にとって、生徒会にとって──僕にとって、平和なままでいられるんだろうか。
りえか会長は、僕は知らないままで良いと、何度も暗に示しているように見えた。ただの自意識過剰かもしれないが、詮索しないで欲しいと強く念を押しているようで。
でも、じゃあ早希先輩は? 僕を生徒会に誘ってくれた、あの人はどうなる?
僕が知らないままでいることで、彼女が生徒会室に笑顔で帰ってくるなんて奇跡、果たして起こりうるんだろうか。
逆に、知ったことで帰って来なくなる場合はあるかもしれない。彼女が本当に三十万円の犯人だったなら尚更あり得る。なんたってお金が絡んでいるんだ、ああ、残念だよ。
でも、だからと言って。
僕はあの時、なんて言った? 知らないふりをしようとしたりえか会長へ、お金も事件も、あったはずのものをなかったことにしようとした彼女へ、僕はどう追い縋ったんだったか。
そうだ、確か僕は──
「生徒会は生徒の味方にはなってやれるが」
唐突に。
「正義の味方にはなれねえ。俺とりえか、どっちでもな」
どっかりと椅子に座ってからはやけに静かだった辰吾先輩が、唐突に口を開く。
「出水。お前は、誰の味方だ?」
× × ×
「……どういったトピックの導入ですか? それ」
「とぼけんなよ。ここんとこずっと、グループ周りを嗅ぎ回ってるんだってな」
僕は一気に身を乗り出す。
グループって、どのグループだ? 部活動か? それとも生徒会?
いや……そもそも学校の話なのか、今?
「廻谷大にもしょっちゅう顔出してるらしいな。先週なんか、テスト期間だってのに勉強もしねえで、町長選のあちらさん側の事務所に張り込んだらしいじゃねえか」
あちらさん、という言い回しでさすがの鈍い僕でもピンと来た。
やっぱり『鳩ノ巣グループ』の話だ。廻谷どころの騒ぎじゃない。将斗、まさかお前という奴は……!
「へえ」
将斗は思いのほか、あっさりと一連の尾行を認めた。自分も机へ両手を付きあごを前へ突き出して、なんだったら辰吾先輩を面白がって挑発するように。
「なんでわかったんです? 僕なんて、町からしたら無名の新参でしょうに。どんな経緯で身元がバレて……ははあん。さては滝口町長も、同じような身辺調査を秘書あたりにやらせていたんですか?」
「時期が時期だからな。籠森の大人連中は相当に神経尖らせてる。元々せめえ町だ、一度変な評判が上がったらそこらに出回るのなんか一瞬だぜ」
辰吾先輩は笑いも泣きも睨みもしない。ただ淡々と事実だけを告げるように、ヘの字となった口元を動かしている。
「お前、籠森の人間じゃねえだろ。投票権も持たねえガキのよそもんが、あんま派手な動きはしないほうが良い」
「穏やかじゃないなあ……ま、でも上等ですよ。良からぬ事柄であればあるほど、自分とより近い位置で起きてくれたほうが記事を出す口実にもなりますからね」
一歩も引かない態度で啖呵を切る将斗。
「ただ、まさか先に忠告してくれるのが滝口先輩だとは。鳩ノ巣会長だったならさもありなんですけど。あなたのおじいさんにとっては、僕はむしろ、たいへん都合が良いアクションを起こしているはずですが?」
「政治絡みでそんな面白いアクションがあるわけねえ。映画ドラマの中だけでやっとけ」
「そ、れって」
しびれを切らした僕はたずねてしまう。
「お前が近ごろ出そうとしている、特ダネとやらと関係があるのか?」
たずねてから、この話題は極めて危険だと、生徒会書記としての本能が語りかけてくる。しかしもう遅い。将斗はぎらりと目を光らせた。どこか嬉しそうに口角を綻ばせて、
「あるよ。めっちゃある。現職から政権を奪い取ろうと目論んでいる
本性をあらわした。
廻谷生とはいえ、おそらく僕と同じく推薦か一般入試で潜り込んだに過ぎないであろう外様がゆえの、楽観的で無責任、純粋な好奇心とよこしまな正義心をごちゃ混ぜにした、教室では大人しそうにしていてまったく透けていなかった、いきいきとドロドロとした将斗の本性。
誰だお前は。たった三ヶ月ちょいの付き合いだけど、こんな将斗は知らない。
知りたくなかった。
ていうか、ちょっと待て! ──小早川、だって?
つい数十分も巻き戻らない過去でも感じた、猛烈なデジャヴが僕に襲いかかってくる。
そうだ、思い出した。小早川。そんな苗字の人と僕はつい先月に会って、それも校舎の中で何度か話したことすらある。もちろん昨日のタクシー内でりえか会長と一緒に眺めた、あのポスターの人ではない。
まったくの別人……いや、まったく無関係の別人だとばかり思っていたんだ。
「──小早川
ひとりの女性の名前を口ずさむと、将斗はにやりとほくそ笑む。
「そう、参先生。先月、一年一組に教育実習生として二週間来ていた、廻谷大の地域創造学部の人。彼女もここの卒業生で、今まさに『鳩ノ巣グループ』が裏で綱引いてる元廻谷大教授、小早川巡氏の娘さんでね?」
なんだそれは。世界が狭いにも程がある。
辰吾先輩のおじいさんとあの教育実習生のお父さんが町長の座を争う宿敵で、りえか会長は後者のほうをバックアップしている学校法人グループないし廻谷高校学長の娘で?
ここは学校だぞ? 町議会とか役所とかじゃないんだからさ。
なんで僕ら高校生が普通に青春している場所で、そんな町の政界を牛耳るための場外乱闘を繰り広げているんだ⁉︎
辰吾先輩は初めて、肺の中に溜め込んでいた酸素を一気に吐き出すように呼吸を深めた。
「馬鹿野郎。どんなネタを掴んだんだか知らねえが、下手うちゃ選挙どころか廻谷がなくなっちまうぞ」
「滝口町長が負けたら、それこそ籠森町がグループに食い荒らされて潰れるのでは? 確かに僕は町民ではありませんが、健全な学生生活を望むいち廻谷生としては、経営が傾きかかっているグループの、悪あがきの道具にされるのはたまったものじゃないですよ」
二人して言うことがいちいち大袈裟過ぎる。廻谷がなくなるとか、町が潰れるとか。
……いや。そうか。
どうして今まで他人事のように知らぬふりを続けていたんだ、愚かな僕は。
これは決して、大袈裟なんかじゃないんだ。
「滝口先輩は選挙に勝ちたくないんですか? 学校や町以前に、まずご自分のおうちの生活がかかっているでしょう」
「そりゃあな。七十過ぎのじいさんでも、町長辞めたら仕事なくなるからな」
バクバクと心臓が激しい音をかき鳴らす。
「でもそれは向こうも同じだろ。小早川とかいう新顔が負けるぶんには別に構わねえ、大学に出戻るなり、後からどうにだってなるだろ。けど鳩ノ巣まで潰れるっつうことは、廻谷も潰れて学長のおやっさんも仕事なくなって──」
心がざわついた。僕は今、知りたくないことを知ろうとしている。
同時に、皮肉にも、それは知らなきゃいけないことだともとっくに気付いていた。
「──最悪、りえかが籠森で生きていけなくなるんだぞ」
あーあ。
なんてたいへんな学校に来てしまったんだ、僕は。
こんなの、どう頑張ったって生徒会書記の手に余る大事件じゃないか。副会長にも、会長にだってずっと手が付けられなかったのに。
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