九.

 全身から絶え間なく噴き出していたはずの汗が、ぴったりと止まったような感覚。

 だ……ダメだ。置物同然の僕が動揺してどうする。まだ……まだ確定したわけじゃない。なにより今あの人と話しているのは、対峙しているのは、他でもないりえか会長だ。


「はあ? ……なにバカを言ってるの?」


 しかし頼みだったりえか会長が声のトーンを一気に落としたことで調子付いたのか、海堂先輩はもっと芯が通った声を出す。


「バカじゃないだろう、天才的発想だ。どうせ生徒会に出すなら、最初から生徒会に書かせれば良い」

「良いわけないでしょ。そんなの……最初からそっちにまで手ェ出したら、生徒会がわざわざ学校とあんたら部活動の間に入る意味がない」

「難しい話はわからん。そんなに俺がバカだと思うなら、そのバカでもわかるように教えるなり、いろいろと融通利かせてくれないか。そのほうがずっと話が早く済む……ああ、そういう意味でも塚本はお前よかずっとわかりやすくて親切だ。愛の告白には応じてもらえなかったのが惜しいところだが、あいつはただエロいだけじゃなく性格も良い」


 白々しく嘘や出まかせが吐けるほど、頭の回る先輩じゃないことは僕もとっくの前から知っている。三年間同じクラスだったりえか会長なら、その言葉が真実だと悟るのも早かっただろう。


「お前も体のエロさは別に負けていないから、もう少し塚本で女を勉強したらどうだ?」

「うっさいわ。何様だてめえ。なぁにが勉強だよ赤点補習の常連が。そんなデリカシー偏差値ボーダーフリーじゃそりゃあ早希にもフラれるわ」

「だからいちいち例えが難しいな。そんなことより鳩ノ巣! さっきからお前は難しくて細かいことにばかりやかましいが、紙切れ数枚の一文二文がちょっと事実とズレてるくらいの、どこに問題があるというんだ?」


 挙げ句の果てに開き直った海堂先輩は、どんなにりえか会長が機嫌を損ねようと喚こうとも、堂々としたまま自分の正しさを押し付け続けた。


「たとえ一文も書いてなくったって、今の廻谷が俺たち水泳部を差し置いてよその部に金を渡すと本気で思うのか? ありえんよ。減らすなんて論外だ、バカでもわかる──今いる生徒でまともに全国レベルの結果を出せているのは、この俺と、鳩ノ巣、お前くらいなんだからな」



   ×   ×   ×



 校舎に引き返した僕とりえか会長は、音楽室に足を運ぶ。音楽室はもぬけの殻で、机や椅子も授業で使われている配置通りに放られたままだ。

 ジャズ部も土曜は午前から練習あるって報告書には書かれてるんだけどなあ……。


「つーか、最近マジで使ってんのここ? 楽器の音なんかテスト終わってから一度も聞いたことないわよ」


 職員室からもらってきた楽器庫の鍵を使ってドアを開けば、長らく密閉されていた狭い部屋のむわっとした空気が流れ込んでくる。中の様子を見るなり、りえか会長は舌打ちするほどはっきりと不快感を表した。


「なぁにが水泳部ばっかりで不平等だ、ふざけんな美鶴てめぇ」


 どうかしました、と言いかけて僕もすぐに楽器庫の異変に気付く。

 気付いてしまった。



 ジャズ部は二年前まで『吹奏楽部』だった。年々減っていく部員数でコンクールへの出場もままならなくなり、少ない人数でもバンドが組めるという理由でジャズに鞍替えしたという事情がある。

 事情──サッカー部とも通ずる、まるで苦肉の策だったみたいな聞こえの良さだが、そもそも部員の大幅減少にとどめを刺したのは、当時の部長と付き合っていた内藤先輩だ。

 授業終わりはろくに練習をせず、ライブという名目で都内のカラオケやらカフェバーやらスタジオやらを遊び歩く。職員会議でもたびたび名前が挙がるほど、ジャズ部はまたたく間に廻谷きっての深夜徘徊グループへと成り下がったのである。


 僕がこの話を聞いた、証言元は早希先輩だ。

 早希先輩も中学から吹奏楽部だった流れで、最初は内藤先輩にあっちこっち連れ回されていたが、あきらかに部活動としての体裁が崩れていることにうんざりし、生徒会に半ば逃げ込むような形でジャズ部ごと縁を切ったのだという。

 実際のところ、遊びには付いていかなくなったというだけで、内藤先輩と絶縁になったわけではないことも僕やりえか会長は知っている。


 ああ……酷い。酷いにも程がある。

 そんないわく付きのジャズ部。早希先輩や心から音楽を愛していただろうかつての部員たちに背を向け、生徒会に部費を無心する傍らで、いったいなんて酷いことをしているんだ。



「気のせいじゃ、ない、ですよね?」

「気のせいなわけねーだろ」


 ただでさえ虫の居所が悪いりえか会長の口調が荒ぶっている。

 まさかジャズ部に鞍替えしたのもこれが目的だったんじゃないかと勘繰るほどに、楽器で埋め尽くされていたはずの楽器庫は、前に見た時よりもずっと寂しくなっていた。

 ホールや体育館のステージ上でひときわ目立つコントラバスも、一本を残して残りはどこへ行ったのやら。生徒会が保管している備品リストには、四台は保有しているって書いてあったはずだぞ。まさか現在部員三名の全員で外へ持ち出してるわけじゃないだろう。


 ……最低だ。最低。

 これまでに音楽室を、吹奏楽部を守ってきた、歴代の先輩たちへの礼儀というものがまるでなっていない。


「よくこれで早希先輩に部費を増やせなんて頼めましたね」


 心の奥底でふつふつと何かが沸き立っていくのを自分でも感じる。外野ですらこうなるんだ、あの穏やかな早希先輩もさすがに堪忍袋の尾が切れたんだろうさ。

 ただ、りえか会長の怒りの矛先はジャズ部だけになかった。


「バカは永遠に治らないしクズは永遠に懲りない。七海といい美鶴といい、徹底的にボコしてやっとの連中相手に、ここまで付け上がらせた早希の責任も軽くないわ。……それに気付かず今日まで放っていたあたしたちにもね」


 ずきりと心臓が痛む。

 早希先輩は本当に優しくて親切で面倒見の良い人なんだ。僕にだけそうしてるんじゃない、誰が相手でも同じように聖女さながらの振る舞いをしているんだろう。

 知っているのか、この惨状を早希先輩は? もう使わなくなった楽器を売り捌いて、そのお金で貴重な高校三年間、青春時代をとことん堕落に貶めている美鶴先輩を、あの人はいまだ友だちだと認識できているんだろうか。

 どうせ、あっちは生徒会会計という名の金づるくらいにしか思ってないだろ。



 僕は恐る恐るりえか会長の顔を見上げる。

 怒りを通り越し真顔になってしまったような、いつも自信に満ち溢れた彼女からはなかなか引き出せない新鮮な表情で、僕もこの先まだまだ続く地獄の調査に今から頭を痛めた。


「……ナメるのも大概にしなさいよ」


 りえか会長。最後のそれは誰に言ったんですか。

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