七.

「どうもこうもないでしょ」


 作業の途中で回転椅子へ移っていたりえか会長は不機嫌そうに答える。


「なかったんだから」

「いやだから、あの……え? まさか……」


 ぶっきらぼうさにより恐怖を覚えて、


「なかった、で終わらせるつもりじゃないですよね?」


 たずねても返事が来なかったことで、その恐怖に確信を持つ。おいおい冗談だろ? 三十万だぞ? 三万とかじゃないんだぞ、いや三万でもダメだけど。

 しかしりえか会長は僕の懸念を決定付けるように、物分かりが良い先輩を気取ったような淡々とした口振りで言葉を続ける。


「こんなあぶく銭をアテにするんが間違いだったのよ。どっちみちあたしも忘れてたようなお金だもの。いつからないのかもわかんなくなっちゃったんだし……ま、どーしても気味悪いってんなら、しょうがないからあたしが数字合わせくらいやっておくわよ」


 背筋が凍るような思いをした。数字合わせってなんだ? ただ数字を書き換えるだけならマシなほうだ。まさか、この最上階級のたみときたら……!


「やめてください。廻谷の予算はあなたの私財じゃないんですよ!」


 嫌味たらしい表現だったかもしれない。でも本当のことだ。じろりと人相悪い目線を向けられただけで怯んでたまるか。


「そうよね。三十万円は高校生にとっちゃ安くないわよね」


 まるで自分が高校生じゃないみたいな言い方で、りえか会長は睨みをきかせる。


「じゃあなに? あんたはどうしたいわけ?」

「どうって、そりゃ……まずは安斉あんざい先生に相談して……」

「あんなジジイに相談してなんになるのよ」


 曲がりなりにも生徒会の顧問に随分と失礼な言い草じゃないか。そりゃあ、僕が生徒会に入ってから一度たりともこの部屋に来たのを見たことがない先生を、顧問と呼んで良いものかは一考の余地があるけれど。


「でも、黙っていたって話進まないじゃないですか。生徒で解決できない問題は、先生に相談して仲裁してもらって……」

「ネコババした奴を探し出して縛り上げて、三十万円を今すぐ返せって?」


 そうだ、と脊髄反射で返しかけた僕はその喉を枯らす。


 返せないだろう。わざわざ盗んでいるんだ。偶然目に留まった札束が魅力に感じて、魔が差すくらいには、犯人にとってその三十万円は安くなかった。

 なにより教師や事務局が介入すれば、その時点でもう仲裁ではない。いよいよちゃんとした窃盗事件として、本腰上げた一方的な犯人探しがこの生徒会室で繰り広げられることになると、誰にでも容易に想像が付いてしまう。


「これがマジであたしのお金だったら、ビンタでもグーパンでもしてチャラってことにしなくもないけど。学校のお金なんだから、返せば終わりで済むとも限らないでしょう?」


 背もたれをぎしと軋ませ、天井を仰いだりえか会長は静かに僕をたしなめた。


「今回は学校予算の管理と後輩への引き継ぎを怠った、会長のあたしの責任。……それで済ませておくのが、一番丸いのよ」

「で、でも!」


 一旦食い下がったからには、この人の喉元に噛み付いたからには。


「……早希先輩、ものすごく苦しそうでしたよ」


 骨までかじりつくしかなかった。



 神経を逆撫でされたような、一瞬で全身を粟立たせたような、とてもこの世のものとは思えない形相を、背もたれを戻し正面へ向き直ってきたりえか会長は浮かべていた。

 しかしすぐに椅子を半回転させ、僕から再び顔を背ける。第一容疑者を差し置いて、真相を貪欲に追い求めようとする探偵まがいにキレるのも筋違いだという自覚はあるらしい。


「早希は放っておきなさい」


 わずかに汗ばんだ白い背中が哀愁を漂わせて、


「今はなんもしなくて良い。……自分から言いたくなったら、いずれ言いに来るでしょう」


 決定的なセリフを放ったならば、僕はもれなく失望した。

 早希先輩にじゃない、このフルスペック会長に対してだ。なんだよ。あなただって、あなたでさえ、もう早希先輩が犯人だってわかりきっている風じゃないか。

 だったら、余計このまま放っておいてはいけないんじゃないのか? だって、だって僕たちがこうしている間も、早希先輩はずっとひとりで……。



   ×   ×   ×



 僕はソファにがっくりと腰を落としたまま床を見ていて、りえか会長は窓の外の景色をぼうっと見ている。


「淘汰さ。犯人探しして、それこそなんの意味があるの?」


 失意の底に沈むような気だるさを隠しもせず、りえか会長は僕の心を小突く。


「ないも同然だったお金をわざわざ掘り起こしたのもあんたじゃん。あれがなかったら最初から、こんな最悪な空気にはなってないのよ。別に生徒会は公的な法律機関じゃない、ましてや正義の味方でもないことくらいわかってんでしょ? そこらへん、自分の中でもう少し融通利かせられないわけ?」

「無理ですよ。俺はそこまで器用じゃありません」


 やけくそ気味に開き直った。

 けど、せめて僕は、僕が思っている通りのことを伝えなければ。


「犯人探しに意味なんかありません。ありませんよそんなの。でも……早希先輩のあんな顔も、もう見たくないです。事をうやむやにして、先輩のあの顔が……疑いがどこかで晴れたりするんですか? 時間が解決してくれますか? それに、辰吾先輩はまだこの話は知らないですよね? どうするんですか? 黙っておくんですか?」


 今日も最後まで辰吾先輩は現れなかった。課題が終わらないんだろうか。

 日頃の素行が悪いばっかりに、生徒会で起きている最悪の事態を知らずに済んでいる呑気なリーゼント頭へ恨み言のひとつくらい言ってやりたくなった。


「もしかしたら最悪、あの先輩こそ犯人かも──」

「ない」


 ぴしゃりと。

 さっきまで人が変わったように言葉のキレを失っていた彼女が、


「それだけはない。もういっぺんあいつにそんな口の利き方したら殺すわよ」


 その言葉尻だけで本気だと悟るくらいに調子を取り戻したのがわかった。

 なんだ急に? そこまで怒られるようなことを言っただろうか? 僕だって本気で疑っているわけじゃないし、辰吾先輩が不良なのは別に間違っていないじゃないか。


「……俺も、早希先輩を疑いたくなんかないですよ。辰吾先輩も」


 ソファをゆっくり立ち上がり、白い背中をじいと見据える。


「けど、もし犯人だったなら、その事実を俺らはちゃんと受け入れるべきだと思います。なくなったお金のことも、早希先輩や他の誰かがやってしまったことまで、全部なかったことにするなんて、できません。すぐにお金を返すことはできなくても、せめて、犯人が俺らに謝れる環境を……俺らが犯人を許してあげられる時間を、作ってあげなきゃいけないと思うんです」



 りえか会長がさりげなく漏らした本音を思い出す。

 彼女は、誰が三十万円を盗んだのかがどうでも良いから、犯人探しに意味がないと言っているのではない。薄々犯人に心当たりがあるからこそ、それを暴いてしまった後を恐れているのだ。これまでに保たれてきた生徒会室の平穏が、築かれてきた生徒会の関係がひと夏で崩れてしまうことを嫌っている。


 だからこそ僕は反論する。この非の打ちどころがない、勝ち目のない生徒会長を説き伏せてみせる。

 精一杯の真心を込めて、生徒会執行部書記としてするべきこと、言わなきゃいけないことを最後まで言い切るんだ。



「正義の味方ではなくても……生徒の味方では、あるべきじゃないでしょうか」



 数秒。

 数十秒ほど黙りこくってから、りえか会長は再び回転椅子を動かし顔を見せてきた。


「……二年前のことも知らない一年風情が、でかい口叩くようになったわね」


 外はもう夜を告げていた。

 りえか会長は表情筋をぴくりとも動かさずに、真っ暗なあの空くらい静かに語り聞かせてくる。


「あたしの意見は変わらない。そんなに調べたいなら勝手に調べて。でも安斉先生には伝えたらダメ。絶対ダメ。なんなら犯人は卒業生かもしれないし、教師に一度でも介入させたら事態はもっとこじれる……生徒会で起きた問題は、生徒で解決する。大口叩いたからには、ここだけは絶対忘れないで」

「わかりました」

「あと、明日からさっそく各部活動への乗り込みもおっ始めちゃうから。あたしは日曜はゴルフあるし、終業式まで時間ないのもわかりきってるでしょう?」


 スマホを手に取り、爆速でなにかを打ち込んでいるかと思いきやすぐさま僕のスマホにも通知が届く。

 りえか会長が生徒会のグループチャットへ送り付けたのは明日の予定だった。平日の登校時間とほとんど変わらない集合とされていて、調査する部のラインナップもスケジュールも朝から夕方までぎっしりだ。

 果たして明日までに、僕以外の何人がこれを確認するかはわからないけれど。


「まさかとは思うけど……あんたまでブッチしないわよね?」

「上等じゃないですか」


 僕はやや胸を逸らし、負けじとりえか会長の挑発に乗っかる。

 一年坊主の新入りに突っかかられたくらいで彼女がその気になったんなら、僕もなかなかどうして、生徒会として立派な働きをできているんじゃないのか。

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