第9話 そう教えてくれましたよね?

 「んぱっ」

 教子のりこ先生の優しい声とともに、口を覆っていた先生の手がふいにはずれた。

 激しく息をする。

 菜津子なつこ

 いまなら逃げられるはずなのに。

 「ねえ」

 甘いささやき。

 「肉をとるために殺すだけじゃなくて、革をスカートにして、それでも余った革でむちを作っておいたらよかったなぁ。どう思う? それって、悪いことかな?」

 「わっ」

 「菜津子ちゃんのこのあたりを」

 右のほっぺを後ろから指の関節でぽんぽんぽん。

 「鞭でかわいくぴちっ、ぴちっ、ぴちっ、って」

 言って、教子先生は残酷に笑う。

 いや、普通に笑う。

 その「くくっ」というかわいらしい笑い声がかえって残酷!

 「わっ、わっ」

 激しい息の下、菜津子はなんとか声を立てる。

 「わっ、わっ、わっ、悪いことだと思いますっ! そ、そういう、人道に反する使いかたをするなんてっ!」

 「うふふうーん」

 こんどは、頬に五本の指を立て、両方の頬を十本の指で、ぐりょぐりょぐりょ!

 形がいいと自分で思っている、菜津子の頬を、ぐりょぐりょぐりょ!

 「さすがだぁ。それでこそ、わたしの教え子だぁ!」

 首筋の後ろで教子先生が叫ぶ。

 「ちゃあんと、教えたこと、覚えててくれたんだぁ」

 勝ち誇って。

 菜津子は耐える。

 耐える?

 いや。

 毎日、ここに来るのが楽しい。

 夏休みだから、昼ごろから夕方まで先生といっしょにいられるのが楽しい。

 勉強をがんばっているのも、あと二年……。

 ……あと二年、この先生といっしょに過ごしたいからだ。

 なぜ。

 なぜ、いっしょに、過ごしたい?

 「うむーん、ぐりんっ!」

 自分で擬態ぎたいを発しておいて、先生は菜津子の体の向きを一八〇度変えた。

 両手で肩を、そして左足で菜津子の左足を引き、右足で菜津子の右足を押して。

 無抵抗な菜津子は、ソファの上で半回転した。

 「あーっ! 今日はうまくいったぁ! はははははっ!」

 ごつん、とおでこ。

 そして、鼻先。

 先生のぺっちゃい鼻と、菜津子の、高くはないが鼻筋の通っている鼻がぶつかる。

 平ぺっちゃい顔で頬が盛り上がっているのは嬉しいからだろう。でも、それで、なおのこと、鼻のぺっちゃさがよく伝わる。

 言っておかなければ。

 「やめてください! 唇は、やめ……て」

 「なんで?」

 教子先生がふしぎそうに言う。

 「ぜんぜん非人道的なことじゃないのに」

 いや。

 こういうの、相手の合意なしにやるのは、やっぱり非人道的なんだけど!

 たしか。

 そう教えてくれましたよね? 先生。

 でも、いま口を開けてそう言うわけにはいかない。

 口を開けたら……。

 いや、開けなくても!

 何の前ぶれもなく、菜津子の厚い唇は、先生の血色のいい唇に吸いつかれた。

 そして、不規則な「鼻音」のほかには、菜津子から声が漏れることはなくなった。

 しかし。

 気づいたら、菜津子も、その唇で、ぷゆっ、ぷゆっ、ぷゆっと吸っていた。

 息は鼻でしている。その荒い鼻息が、教子先生の盛り上がった頬とぺっちゃい鼻と自分の美しい形の頬のあいだをすり抜ける。

 菜津子の作るリズムに教子先生も合わせてくれる。

 いや、合わせなければならなくなっている。

 それは……。

 胸を、ぱつっ、ぱつっ、ぱつっとやっていたときと同じ。

 菜津子自身のリズムだった。

 「んん……んん……んんっ……」

 教子先生は苦しそうに鼻から「鼻音」を漏らす。

 でも、そのリズムは、菜津子のぷゆっ、ぷゆっ、ぷゆっに合っている。

 逃げられない。

 菜津子は教子先生のハーフアップの髪の向こうに手を伸ばし、教子先生が逃げないようにその頭をぎゅっと抱き寄せた。


 (終わり)

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菜津子の夏 清瀬 六朗 @r_kiyose

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