第8話 ノートのありか

そうと決めたら早速行動しましょう、消灯になる前に。


「あっ、シャロン。待って!」


足早く部屋を出るシャロンの後を慌てて追いかける。いざ実行するとなったら、てきぱきと動き出すシャロンの行動力に、わたしは早くも圧倒されかけた。


「談話室にいた1年の子は確か同じクラスのハリエットだったわね?」


わたしもここに来たばかりで、まだ全員の顔と名前が一致したわけではないが、同じクラスの子ならば大体把握できるようになっていた。夕べ談話室で勉強していた1年の子は、確かハリエットという名前だった気がする。よく談話室に友達と一緒に来ているのを見かける。


シャロンはハリエットの部屋の前まで来ると、控えめにドアをノックした。同室の子が出て来て応対する。こんな遅い時間に誰かが訪ねてくるとは思わなかったのだろう。しかも、それが変わり者で有名のシャロン・ホームズだなんて。その子は明らかに戸惑った表情を浮かべた。


「あなたシャロン・ホームズよね? なぜここに? え? ハリエット? いるけど……」


その子は明らかに動揺した様子だったが、断る理由もないので素直にハリエットを呼んでくれた。パジャマ姿のハリエットは、怪訝な顔をしながらそろそろと姿を現わした。


「夜遅くにごめんなさい。ちょっとあなたに尋ねたいことがあって来たの。ちょっとこれを見てくれる?」


シャロンは、ハリエットに見えるように、手に持っていた本を開いた。それは、大きな交差点のイラストだった。シャロンは、その絵の信号のところを指さした。


「この絵に描いてある信号、どちらが赤でどちらが青か分かる?」


ええ? いきなりシャロンは何を言い出すの? わたしは口をぽかんと開けてびっくりしてしまった。よりによってこんな場面で信号の色を聞くなんて。しかも、誰が見たって一目瞭然じゃない? 小さい子供でも分かることよ? 全く意味が分からない。


「ちょっと、シャロン、一体どういう……」


わたしは、思わずシャロンを止めようとしたが、ハリエットの方はさっと顔色が変わった。明らかに動揺して唇がぶるぶる震えている。ハリエットは何に怯えているのだろう? ますますもって意味が分からない。わたしはすっかり頭が混乱した。


「立ち話もなんだから、人気のない場所で話しましょう。談話室は人がいるし……面談室を借りても怪しまれそうだから……私たちの部屋に来る?」


どうやら人に聞かれてはまずい話のようだ。ハリエットは無言で首を縦に振ると、黙ってわたしたちの後に着いて来た。そして、221B号室に入ると、ハリエットはわたしの椅子に座ってもらい、わたしは自分のベッドに腰かけた。


「な、何が言いたいの……」


ハリエットは椅子に座ると、視線を床に落とし、おどおどした様子で尋ねた。


「ちょっと待って。わたしも訳が分からないんだけど、ハリエットがノートを持っているってことなの?」


「私から説明しましょうか? それとも自分で話す?」


シャロンが静かに問いかけると、ハリエットは堰を切ったように口を開いた。


「わざとじゃない! 2年生のノートって知らなかった。次の日の準備をしようと鞄を開けたらノートが入ってなくて、それで談話室に忘れたと思って取りに行ったの。そしたら、後になって別の所から自分のノートが出て来て、よく確認したら2年生の先輩のノートだった……返さなきゃと思って放課後談話室に行ったら、大騒ぎになってたから怖くなって逃げて来たの……」


「でも、1年生と2年生のノートは色分けされていて、一目見れば間違えるはずないじゃない! 1年生は赤で、2年生は確か……」


「緑ね。ハリエットは赤と緑の区別がつきにくいの。だから間違えたのよ」


「赤と緑を間違える? 一体どうして?」


すっかり混乱したわたしに、ハリエットは戸惑いながらも説明してくれた。


「生まれつき、特定の色を見分けるのが難しいの。私の場合は赤も緑も、両方同じ緑っぽい色に見えてしまう。みんなには教えてなかったんだけど、本当は生活してても困る時があって……だから今回も、消灯間近で急いでいたから、よく見ないでノートを取ってしまったの」


「どの色を混同しやすいかは、いくつかパターンがあるけれど、ハリエットの場合は、その中でも一番多いパターンね。3年のノートは全く関係ない色だったから最初から除外したの。たまたま手元にあった信号の絵を見せに行ったら思った通りだったわ。その質問だけで、赤と緑が両方緑に見えることが知られていると理解したのね。全て明らかになれば他愛もないことよ」


「ジェーン、ごめんなさい。何となくあなたが疑われるような空気になっていたのに、あそこで自分から名乗り出るのが怖くなったの。あなたに肩身の狭い思いをさせて申し訳なかったわ……」


わたしは、すっかり小さくなって謝るハリエットを励ますように声をかけた。


「そんなの全然気にしてないわよ。別に表立って何か言われたわけでもないし。それより、今まで色々不便があったことをみんなに隠して生活するのは大変だったでしょう? もしよければだけど、困ったことがあったら遠慮せずに相談してね?」


「ありがとう、ジェーン……あなたいい人ね」


ハリエットは顔を上げてわたしの顔を見て弱々しく微笑んだ。よかった、これで一件落着だ。


「まだ完全に終わった訳じゃないわよ。ノートを元の持ち主に返さなきゃ」


シャロンの冷静な一言で、また現実に引き戻された。そうだ、忘れてた。ハリエットは諦めたようにため息をつきながら言った。


「本当のことを言って謝って来るわ……色を識別しにくいってことも……」


「ちょっと待って! ハリエットはそれでいいの? 今まで隠してたってことは、本当は知られたくないんじゃないの?」


「それはそう……だけど、でも他に説明しようがないし」


ハリエットは、まだ迷っているようだ。わたしは、そんな彼女の両肩を抱いて上を向かせた。


「それなら、また適当なところに置いとけばいいじゃない。なあに、大丈夫よ。今まで探さなかった場所から出てきましたってことにしとけば」


「でも! そういうわけにはいかないわよ!」


「別に向こうも犯人探しがしたいわけじゃないから構わないって。ノートさえ返ってくればいいんでしょ。気にしない、気にしない」


結局、ハリエットは、わたしの提案に乗ってノートを人目に付きやすい別の場所に置いて来た。これで、後は持ち主のところに無事返れば、一件落着だ。ハリエットは、わたしたちに何度もお礼を言いながら自分の部屋へと帰って行った。


「本当にこれでよかったの? あなたは自分への疑いを晴らしたいんじゃなかったの?」


ハリエットがいなくなってから、それまで黙っていたシャロンが口を開いた。


「別に? わたしもちょっとナーバスになってたところがあっただけよ。来たばかりでまだ友達もできないから色々不安になっていたの。でももう平気」


わたしは、晴れ晴れとした表情でシャロンを見つめた。そうだ、まだ大事なことを言ってなかった。


「ありがとう、シャロン。あなたにもお礼を言わなくちゃ」


それを受けたシャロンは、切れ長の目を丸くして、今までにないくらいびっくりした顔をした。

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