夢想疾駆

春海水亭

God speed you!

 ◆


 夜十時。

 獣が低く唸るようにエンジンが始動する。

 鉄の怪物みたいな大型二輪ナナハンに乗って、俺たちは疾走はしる。


 冬の夜。

 空気は凍てつくように冷たく、握るグリップは心臓みたいにやたらに熱い。

 法定速度をぶっちぎって、限界まで飛ばす。

 置き去りにされたパトカーが鳴らすサイレンが耳に心地良い。

 夜の街をキラキラと照らす人の明かりが、加速の中で線のようになって地上に星座を描く。

 時速二百キロメートルを超えた世界で自分の身体は消えて、ただの風になる。


「なあ、ナツ――」

 俺の前を疾走るアキが言う。

 俺の知っている中で一番美しい男だ。

 殆ど自殺みたいな加速の中でキラキラと笑う男だ。

 それ以外に俺の前を疾走る奴はいない。

 しかし俺の後ろを疾走る奴もいない。

 元々はちょっとした暴走族ゾクだったけど、アキの速さについていける奴は俺しかいなかった。

 超高速の世界で言葉は発した瞬間から置き去りになる。

 道路に引きずられてズタボロになった言葉の断片を捉えて、俺は返事をする。


「なんだよ?アキ」

「俺らさぁ、来年からどうすっかなぁ」

 俺もアキも十八歳ジューハチで、馬鹿しかいない高校の卒業を控えていた。

 俺もアキも馬鹿なまんま放り出されようとしていた。


「そりゃあ……」

 将来を考えたことはない。

 こうやって疾走っていると、最高速の現在で未来を追い越してしまえるような気さえしていた。

 いつまでも疾走って――それでいいじゃんか、と思う。


「いいんじゃねぇかなぁ、まだ」

 高校を卒業するって言っても、まだ十八歳で――別に俺らが何かに変わってしまうわけじゃない。今日も明日も明後日も、これでいい。


「まだ、か……」

「ま、なんとかなるだろ、俺ら。すげーから」

 ら、と言ったけれど本当に凄いのはアキだ。

 単車の知識が凄まじい、そして技術も。

 多分、三百キロ出して――その速度で日本一周をするような、そういう真似が平然と出来てしまうだろう。今の速度だってアキの方が俺に合わせてゆっくりと疾走っているだけだ。

 多分なろうと思えば何にだってなれる、そういう凄い奴だ。


「あのさぁ、ナツ――」

 超高速のアスファルトに引き摺られて、紅葉おろしみたいになった言葉が俺の耳に届く。


「一緒に死なねぇ?」

 一瞬、グリップを握る手が緩んだ。

 思わず手放しそうになった命をしっかりと握り直す。

 限界まで加速した世界で、俺の身体は単車に乗った剥き出しの心臓みたいで、ちょっとした事故で簡単に死ねる。

 けれど、俺もアキも死なない。

 スピードを緩めないでいれば、死も俺たちに追いつけないで諦める。

 そんな夢想の中に俺たちは生きている。


「死ぬって……?」

 風の轟音のせいで聞き間違えたのかもしれない。

 そんな聞き間違いをするはずがない――そう確信しながらも俺は聞き返す。

 風は俺たちの耳を妨げない、俺たちが風そのものになっているのだから。


「ああ、死ぬよ。一緒にどう?」

 アキが振り返って言った。

 フルフェイスのヘルメット越しでもわかる、アキのキラキラした笑顔。

 遠足の前日みたいな、少しワクワクした声。

 死ぬって言ったのが冗談みたいだったけれど、多分本当だろうな。と思った。

 アキは本当に凄い奴だから。


「死ぬんだ」

「コーナリングなんて考えずにバカみたいにスピード出して、ガードレールをぶち抜いて――」

「いいかもなぁ」

 アキの声を聞いていたら、なんだかそれがとてもいい考えのように思えた。

 結局、十八年生きてきて単車転がす以上に楽しいことは見つけられなかった。

 パトカーとチェイスして、ちょっとミスっだけで死ぬ限界速のツーリング、もともと薄い理性が風と同化して、どこかに飛んでいってしまう。グリップを握る感触すら薄れて最後に残るのは興奮だけ。

 そういう世界にいつまでも生き続けていたい。

 けど、アキは俺よりは賢いからわかってるんだろうなぁ。

 こういうのはいつまでも続けられるもんじゃないって。

 いつか――どういう形になるかはわからないけど、今日みたいな走りは出来なくなる。

 でも、やってる途中に死んじまえば死ぬまで続けられたことになるよなぁ。


「よし、死のうか」

「うん、死のう」

 俺たちはそう言って、キャハキャハ笑った。

 人生で一番楽しく笑った瞬間だった。

 あの瞬間、世界で一番楽しく笑ってたのは俺たちだと思う。


「なあ、ナツ」

「どうしたよ、アキ」

「なんで俺ら、こんな楽しいことに出会っちまったんだろうなぁ」


 アキの愉快そうな声の底に、ほんの少しの後悔が沈んでる。

 わかるよ。

 なんで、もっと穏当で平和な趣味に出会えなかったんだろうな。

 でも、違うよな。

 例え、どんな趣味だって俺らは命懸けになっちまってたよ。

 アキは凄い奴で、俺はアキに憧れちまったから。


 俺が返事をするよりも先に、アキが加速する。

 どこまで改造イジればそんなに速度が出るのかわかったもんじゃない。

 でも俺のもすごいんだ。

 アキに改造ってもらったもんな。


 加速。

 限界を超えて――風が冷たい。怖。限界って、そうか超えられないから限界なんだ。俺もう怖くてたまらないよ。アキが加速する。まだ、行くんだ。速いな。俺はもう無理。怖。アキは凄い。俺だってもっと加速。アキが振り返って笑う。キラキラしてて綺麗だな。身体が宙を。アキが俺の前で風になった。


 ◆


 あれから二十年が経ち、俺は三十八歳になった。

 腹周りに肉がついて、抜け毛が洒落にならないことになってきた。

 アキは俺の思い出の中でいつまでも十八歳でいる。

 ずっと美しいままでいる。

 アキは凄い奴だったから、キラキラ笑って死ねて、俺はアキに憧れるだけの奴だったから、最後の最後でビビってしまった。


 アキの命日に運転するのは家族向けのワゴン車。

 限界まで速度を出しても風にはなれないだろう。出したこともないけれど。

 アキが死んだ場所の近くに車を停めて、線香代わりに煙草に火をつける。

 白い煙が天に立ち昇る、けれどアキはそこにいないだろう。

    

 アキが死んで、結局俺はダラダラと生きながらえている。

 結婚して、子供も出来て、あの頃よりも最高なものには出会えなかったけれど、それでもなんとか楽しくやれている。

 アキも、あの時死んでいなければ、俺みたいに――いや、俺よりも器用で、凄い奴だったから、かなり楽しくやれていただろう。


 けれど、そういう妥協がアキには出来なかったんだろうと思う。

 綺麗な水の中でしか暮らせない魚みたいに、アイツはこの世界じゃ生きられなかった。

 現実を振り切って――ここじゃないどこかに行かなければならなかった。


 たまにアキの夢を見る。

 夢の中でアキは美しい顔でキラキラと笑っている。

 アキの夢を見ると、俺もアイツを追ってどうしようもなく死にたくなる。

 けれど、同じ場所には行けない。


 嫁だって、ガキだって、俺のことをアキのようにキラキラと美しい夢に見てくれはしないだろうから。

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夢想疾駆 春海水亭 @teasugar3g

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