第8話 大団円

 この、南部蝦夷国というのは、傀儡国家だと思っていたが、実際には違うという。しかも、そう思わせることが外交面でもいいのだというのだが、それはどういう意味なのだろうか?

 これも、大日本帝国における戦術であるが、外交面において、まわりへの影響を鑑みて、「普通であれば、こんなことはしない」

 というようなことを、お互いにやった戦争もあった。

 これこそ、外交面において、自国が不利にならないように、というか、不利になってしまうと、

「戦争継続が困難になり、自国の滅亡につながってしまう」

 ということが考えられるからであった。

 大東亜戦争というのを、閣議決定した時、

「この戦争は、ここまで遡る」

 と言われた事件のことであり、それは、

「シナ事変」

 であった。

 昭和十二年の七月七日の、北京郊外で発生した日本軍と中国軍の戦闘状態である、

「盧溝橋事件」

 に端を発したのが、

「シナ事変」

 だった。

 ただ、正確にはこの盧溝橋事件は、現地でいったん和平条約が結ばれたことで、終結したことになっているので、この事件を、シナ事変の始まりとして捉えるのはおかしいという意見もある。

 だが、その後に起こった、

「郎坊事件」、

「通州事件」

 など、中国側からの挑発であったり、通州事件に至っては、中国側による、言語を絶するような虐殺事件を引き起こしたのだから、シナ事変というのは、明らかに、

「中国側が仕掛けてきた戦争」

 といえるだろう。

 しかし、この戦争は、実質的には、戦争とは言わない。なぜなら、

「どちらの国からも、宣戦布告をしていない」

 ということからであった。

 宣戦布告を行ってこその、戦争状態ということから、昭和十二年から、昭和十六年の末までの期間は、間違いなく戦争ではなく、事変なのだった。

 ではなぜ、宣戦布告をしなかったのか?

 ということであるが、理由としては、

「宣戦布告をしてしまうと、第三国は体制を決めなければいけない」

 ということになるからだ。

 特に中国側は、戦争を行うのに、イギリスやアメリカから、支援を受けていた。日本も、戦争継続のためには、アメリカなどからの物資の輸入に頼っているところがあった。

 しかし、宣戦布告をしてしまうと、アメリカが立場を決めなければいけない。それは、どちらかに加勢をするという立場か、中立という立場かということになるが、中立にしてしまうと、アメリカから、支援をしてもらうことができなくなってしまう中国には、戦争継続すら難しくなってしまう。日本も、輸入が難しくなるという意味で、どちらも、宣戦布告には否定的だった。

 そのため、宣戦布告なき戦いが続くことになったが、日本が対英米戦に宣戦布告をしたことで、アメリカから支援をしてもらっていた中国に、宣戦布告をしない理由がなくなり、連合国側について、日本に宣戦布告をした。

 その時点で、シナ事変から、戦争へと変わった。だから日本でも、

「昭和十二年にまでさかのぼって、今回の戦争を、大東亜戦争と呼ぶ」

 という閣議決定になったのである。

 このように体制を決めることで、外交面や、外国とのやり取りが制限されるようになるのはまずいわけで、表向きと、実際とでは違ってしまうのは、ある意味当たり前のことではないだろうか。

 中世のこの時代に、そこまで世界としても、国家体制が国際的にどのような影響を与えるかということまで重要視していない時代であっても、蝦夷国では、そこまで考えて傀儡を演じているのだった。

 イギリスはイギリスで、きっと、国内的にはスペインを意識して、対外的には、ロシアをバックに意識して、蝦夷国の国家体制を築いていることだろう。

 そうなると、問題は、織田信定という男のことであった。

 彼を城主に据えて、形としては、彼が国家元首になる形である。そして、これがイギリスによる傀儡政権であるとすれば、イギリス(イギリス内の一組織?)にとって都合がよくなければならないだろう。

 そして、イギリスの傀儡であるということを、世界的にも思わせる必要があるので、そのようにふるまえる人物でなければ難しいことではないかと思うのだった。

 本来であれば、イギリスの一国家の傀儡だと思わせることは、簡単なようで、そうでもない。

 本国にあるイギリス政府が、まったくかかわっていないはずの蝦夷国なのに、勝手に、傀儡国家という意識を是会に与えることに、違和感がないわけではない。イギリス本国にとっても、メリットがなければ難しいだろう。

 何しろ、イギリスという国は合理性を重んじる国で、そのためには、少々強引なことでも、卑劣なことでもやってのけるという国である。そんなイギリスにもメリットのあることだとするならば、それは、

「ロシアを意識している」

 ということであろう。

 史実としては、イギリスはロシアを結構意識しているのだが、直接対決として、戦争をしたというものはないのではないだろうか?

 二度の世界大戦でも、同じ連合国の仲間(?)という感じであったし、直接の対決というのもなかった。

 しかし、他の国の戦争において、相手国を支援するという意味での影響があったり、多国籍軍として参加しての敵対というのはあっただろう。

 たとえば、日露戦争などもそうだった。

 日論戦争は、戦争は避けられない状態であったが、日本が戦争に最終的に踏み切ったのは、外交面で、イギリスと同盟を結ぶことができたからだ。

 イギリスという国は、それまで、

「栄光ある孤立」

 ということで、どこの国とも同盟を結ぶことがなかったが、その時は、

「ロシアの南下政策阻止」

 という意味で、利害が完全に一致したのだ。

 極東と同様、中央アジアにも不凍港を求めていたロシアとすれば、ギリシャやトルコなどに進出されてしまうと、イギリスの影響下とぶつかってしまう。

 それを避けたいということで、ロシアをけん制する意味で、日本と、

「日英同盟」

 を結んだのだ。

 結果、バルチック艦隊が日本に向けて出港してから、大西洋経由で抜けていく中で、イギリスの影響下にある国の港で、食料、燃料の補給がうまくいかず、結局日本についた時には万全ではないということになり、しかも、その動向は、日本に筒抜けだったのだ。その時点で、ある程度勝負がついていたといってもいい。

 日本政府が最初からそのことまで意識していたのかどうか分からないが、最終的には、艦隊合戦だと思っていたとすれば、作戦は大成功だったといえるだろう。

 また、ロシアへの影響とすれば、革命によってできた赤軍への対抗策として、

「シベリア出兵」

 というのがあった。

 九か国くらいの多国籍軍がシベリアに出兵し。ソ連をけん制した。イギリスという国は、自国に利益がなければ、決して動かない。そこは、自国を、

「世界の警察」

 とみなしているアメリカとの違いであろうか。

 イギリスという国を、

「紳士の国」

 と呼んでいる人も多いようだが、外交面においては、それどころか、ありとあらゆる悪行を働いていたといってもいい。

 アヘン戦争のように、自国の利益のために、清国を国家ぐるみで、麻薬中毒にしてしまったり、世界大戦では、アラブの国々に対して、ロレンスを送り込んで、諜報活動や、ゲリラ活動を支援したり、

「いずれは、アラブの国を作ってやる」

 と言って、アラブ諸国に協力させ。さらには、同じ口が、ユダヤ人にも同じように建国をほのめかしたりと、二枚、いやそれ以上の舌を使っての外交は、

「これのどこが紳士なのか?」

 というものであった。

 ただ、この蝦夷国に対しては好意的である、基本的にイギリスは、第二次大戦中以外では、日本に友好的な国なのではないだろうか?

 この後、何度か、南北の蝦夷国で小競り合いのようなものがあった。お互いにけん制しあっているというべきか、相手に攻め込むようなことはしなかった。

 それぞれ、自分たちが相手に攻め込んで占領しようという意識はなかったようだ。占領したとしても、メリットがないと分かっていたのかも知れない。

 それに。元々、北部には、ロシアが建設した要塞があったし、南部でもそれに対抗するかのように、頼経が改造した、

「難攻不落な城」

 建設されたことで、お互いに、攻め込むことはできなかったのだ。

 さらに、あまり表に出てはいないが、重光の外交手腕もすごいもので、イギリス人顔負けの合理的な交渉は、理詰めによって、相手がなるべく損をしないように考えられていた。重光は、その外交手腕を、かつての領地において、教育係と言われた人に授かったのだった。

 その男は、その後、全国を渡り歩き、戦国時代に多く存在した。

「軍師」

 と呼べれる人間を多く輩出したという。

 黒田官兵衛であったり、山本勘助、直江兼続、片倉景綱、さらには、明石全登や、飯田角兵衛などと呼ばれる人たちまで親交があったという。

 そういう意味では、

「戦国時代の軍師のさきがけ」

 といえる人間は、重光だったといってもいいだろう。

 そんな重光に仕えていた頼経は、築城の技術を、まだ、農家から出てきたばかりの羽柴秀長ともに、当時有名だったが、歴史に名前の残っていない、

「築城の名手」

 と呼ばれ、普請事業に関しては、誰にも負けない人物に学んでいた。

 彼は、すでにその頃から、まだ歴史的には、城というと、

「櫓や砦のようなもの」

 という意識が強く、

「質よりも量」

 として、コンビニよりもはるかに多かったとされる城の完成に近いものを思い描いていたのだった。

 天守閣を持った城というイメージもしっかりあった。

 堀も崖のようなものから水堀であったり、その先に石垣を作るという発想。さらに、それまでの山城ではなく、平城を作ることが、それ以降の時代の城として、主流になってくるということも、しっかり頭に入っていたようだった。

 そんな時代が来るまでには、まだ少し時間がかかるとは思っていたので、

「このままでは、わしの生きている間に、実現することは難しい」

 と悟った彼は、いかに、この考え方を伝えていくかということで、自分の考え方を伝承してもらえる相手を探していた。

 それが、頼経であった。

 頼経が、師匠の考えをしっかりと受け止め、そして、内地にいる間に、黒田官兵衛や、羽柴秀長などに、師匠のことを話、意気投合したことで、彼らに自分の知識である築城のノウハウを出し合って話し合ったりした。

 だから、築城の技術に関しては、かなりのものがあったので、この南部蝦夷国の、城を見た時、一番愕然とした、いや、興奮を抑えることができなかったのは、この頼経だったに違いない。

 日本本土は、すでに戦国時代に突入していて、天下を取ったのは、信長であり、ただ、それを確立させることができないまま。光秀に謀反を起こされた。天下というものが、畿内統一であるとすれば、という条件つきの天下統一である。

 その後、秀吉によって、名実ともに、全国統一がなされ、その目が、明国に行ってしまったことで、蝦夷国は安定を取り戻した。

 なんといっても、秀吉の朝鮮出兵は、北部蝦夷国にとって、さらにはロシアにとっては、実に迷惑な話だったからだ。

 密かに、ロシアが手をまわし、朝鮮を支援したことで、秀吉の朝鮮出兵、および、招待的な明国制服は夢のまた夢に終わってしまった。

 それを考えた時、北部蝦夷国の存在がなければ、朝鮮が征服されていたかも知れない。

 歴史は別の要素になっていただろう。

 というのも、今まで海外から意識もされていなかった日本が、世界に打って出たことになるのだ。

 それまでまったく意識もしていなかった日本の台頭は、これから植民地を増やしていこうとする欧州の国には、実に迷惑千万だ。

 それまでは、大人しく国に入ることで、内部から操る、傀儡国家を考えていたのかも知れないが、もし、朝鮮を手に入れるとなると、

「日本はあなどれない」

 として、傀儡国家ではなく、本当に征服してしまい、西洋の属国となるか、植民地として、外国による政府が作られ。占領の憂き目にあっていたことだろう。

 それを何とか阻止できたことで、のちに迎える江戸時代で、鎖国という政策がとられることになったのだ。

 鎖国がよかったのか悪かったのか、賛否両論あるだろうが、そのおかげで、蝦夷国は、侵略されることもなかった。

 伊能忠敬や、間宮林蔵の時代に、蝦夷地も調査はされたが、平和になった江戸時代において、下手に蝦夷地に対して攻撃をするなど、国の滅亡にもつながる。その時代にも、南北の蝦夷国は存在していて、相変わらず、ロシアとイギリスの支配を受けている国であった。

 もちろん、南部は、傀儡国家として表向きには存在したが、内部的には、一組織による傀儡であった。これを、全世界的に暗黙の了解のように尽力したのが、重光の手柄だったのだ。

 時代は進み、南部蝦夷国の元首は、重光の子孫が世襲している。参謀として君臨するのが、頼経の子孫であることは言わずともわかることであろう。

 ただ、この頃になると、蝦夷国内においての傀儡は、事実上なくなっていた。傀儡を匂わせる雰囲気になっていることが、世界に類を見ない、

「蝦夷国」

 の国家体制だったのだ。

 この体制が、いずれ、戊辰戦争で後退してきた幕府軍に対し、

「蝦夷に一大国家を建設する」

 という、榎本武揚や、土方歳三の考えに結びついてくるのである。

 五稜郭というものが建設された背景には、かつて存在した、

「南部蝦夷国」

 があったのだということを知っているのは、榎本武揚、土方歳三、大鳥圭介などの、一部だけだったのだった……。


                 (  完  )

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歴史の傀儡真実 森本 晃次 @kakku

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