第7話 傀儡国家

 歴史上、傀儡国家と呼ばれるものが、存在した。その多くは第二次世界大戦における国家であり、特に、大日本帝国が樹立したものが多かった。

「傀儡」

 とは、

「操り人形」

 のことで、海外勢力である文、

「操る側の人間」

 がいて、元々そこにいたその国家の主権者である、

「政権」

 というものは、そのまま存続するというものである。

 しかし、大航海時代におけるヨーロッパなどが行った政策は、元々いた先住民の政府を破壊して、そこに自分たちのルールに則った政府を樹立するということだ。当然主権は、征服した側にあり、征服された側の先住民は、無理矢理に従わされるということになる。

 要するに、

「侵略された」

 ということになるのだ。

 しかし、傀儡国家というのは、少し違う。

「侵略された」

 という意味では同じなのかも知れないが、表向きは、今まで通りの、

「独立国家」

 という様相を呈している。

 しかし、元々の主権者には、その力はなく、主権者として君臨しているが、あくまでも、侵略した側の政策通りにしか動くことのできない。

「見かけの政権」

 なのである。

 どうして、傀儡国家などというものが、存在するのかというと、大東亜戦争時代の大日本帝国を考えれば分かることである。

 当時の世界情勢は、東南アジアのほとんどの国は、欧米列強の侵略を受け、侵略してきた国の作った政権が存在した。それらの国は、侵略してきた国の占領下にあり、元々あった先住民のおける、当地の方法や文化は崩壊させられ、占領国の政府が新しく樹立されることになる。

 そんな状態のアジアを、

「解放する」

 というスローガンを持ち、日本は戦争を始めたのだった。

 日本側の目的は、東南アジアに存在する資源の確保、そして、傀儡国家として樹立した満州国は、日論戦争において獲得した満州鉄道の支線から、その周辺を支配することで、ソ連の脅威の排除という、安全保障面からの問題と、さらにもう一つ、さらに切実なる問題として、

「世界恐慌と、人口増加問題を、満蒙問題と一緒に考え、満州を平定することで、一石二鳥の開設を図る」

 というものであった。

 当時、中国の一部だった満州地区であったが、満州鉄道とその保護に必要な地域は日本の統治下にあった。しかし、中国側が、満鉄の支線に、中国独自の鉄道を建設し、満鉄を脅かしてくる。それらの問題と、前述における、人口問題として、日本から移民を受け入れる土地の確保という問題のために、満州事変をでっち上げたのだ。

 国際連盟による、

「リットン調査団」

 は、これを、

「日本の自衛権の行使には当たらないとして、満州国を否認する決議」

 を採択し、日本は、それに対抗するように、国際連盟を脱退し、孤立することで、戦争への道を歩むことになるのだが、そもそも、満州国における当時の

「中国による嫌がらせや、虐殺事件」

 など、居留民にとっては、死活問題であった。

 文字通りの生きるか死ぬかという問題解決に、満州事変を画策したという意味では、

「日本の自衛だったのではないか?」

 と考える人は、自分だけではないと思われる。

 しかも、日本は侵略したわけではない。

 そこに建国された、

「満州国」

 というのは、傀儡国家なのだ。

 皇帝には、かつての支配国である満州民族出身で、かつて中国に存在した、

「清国」

 の最後の皇帝、

「愛新覚羅溥儀」

 を擁立し、国家元首に据えたのだ。

 しかも、そのスローガンは、

「五族協和」、

「王道楽土」

 であった。

 ここでいう、五族というのは、

「満州、漢民族、朝鮮、モンゴル、そして日本」

 である。

 それぞれの民族が協和して、

「西洋の武力による統治ではなく、徳による統治(王道)により、アジアの理想郷を目指す」

 という願いが込められた建国だったのだ。

 したがって、政府は、満州民族である、

「愛新覚羅溥儀」

 を皇帝とした、

「専制君主国」

 ということになる。

 しかし、当時の満州国だけでは、国家としての体裁を作ることができないので、日本が国家、政府設立の、

「お手伝いをする」

 という形になったのだ。

 ただ、実際には傀儡国家だった。

 国家の体制は、あくまでも、関東軍の保護のもとに存在するので、満州国の決定事項は、関東軍、つまり、日本政府が承認したものではないとダメだということであった。

 特に満州国の閣議において、総理大臣としての国務総理は、一切発言することがなかったというほどで、国家主席である皇帝にさえ、決定権はなかった。

 関東軍の決定したことを、皇帝が代弁するという程度の権力しか、皇帝といえども持っていないというのが、傀儡国家というものである。

「ではなぜ、植民地とは違う、傀儡国家なるものが存在するのか?」

 という問題であるが、これは、一番大きな問題としては、

「対外的な体裁」

 というべきであろうか。

「傀儡国家というのは、あくまでも、植民地のように、侵略して奪い取ったものではなく、主権は、今まで通り、その国家の政府にある」

 ということである。

 そうしておかないと、

「五族協和」、

 のちに出てくる、

「大東亜共栄圏」

 なるものに、矛盾が出てくるからであった。

「大東亜共栄圏」

 というのは、そもそも、

「欧米列強に、侵略され、建国された植民地政府を打倒し、そもそも原住民族主権の政府を樹立し、欧州からの支配から脱却し、日本を中心とした、東アジアで、共栄していくための、範囲を確立する」

 というのが、目的である。

 だから、日本が、中国に対しての戦争、および、対英米戦を、

「大東亜戦争」

 と呼び、そのスローガンとして、

「大東亜共栄圏の確立」

 を挙げたのだ。

 そんな日本が、植民地を作るというのは、矛盾していて、本末転倒なことだといえるのではないだろうか。

 そもそも、かの戦争のことを、

「太平洋戦争」

 というのは、大きな間違いではないかと思う。

 なぜなら、あの戦争は、帝国議会の閣議で、

「対中戦争にさかのぼって、大東亜戦争にする」

 ということになっていたのだ。

 それを、戦勝国であり、占領軍を送り込んだ側が裁く、

「国際極東軍事裁判」

 において、

「大東亜」

 という言葉を使うと、

「大東亜共栄圏」

 というスローガンを認めることになり、戦勝国側のそれまでやってきた植民地政策をことごとく否定することになってしまう。実際に世界大戦が終わってから、諸国では独立運動が主流になり、ほとんどの国は独立を勝ち取った。

 中にはそのまま、内戦の口火となった地域もあり、治安が悪化したところもあったが、日本の敗戦は、

「アジアの解放」

 という意味で、一役買ったといってもいいだろう。

 日本が快進撃を続けている時、

「欧州を追い出しても、日本が侵略してきた」

 という人もいるが、実際には、

「大東亜共栄圏」

 を建設するためには、仕方のないことではないのだろうか?

 確かに、アジアの国家からすれば、

「欧州であろうが、日本であろうが、自国を押さえつけるのは、侵略行為でしかない」

 といえるだろう。

 だが、長い目で見て、日本が解放した地区に入り、いくら戦争継続のためもあったとは言っても、インフラを整備したり、産業を奨励したりして、経済が復興したのも、事実である。

 それを思うと、必ずしも、日本が侵略をしたといえない部分もあるのではないだろうか?

 日本という国が、もう少し国力があれば、アメリカにも対抗できていたかも知れない。ただ、実際に国力がないのであるから、当初の計画通り、

「ある程度の打撃を先制攻撃において与えておいて、一番有利なところで講和に持ち込む」

 という作戦を見失ってしまったことが、戦争を、やめるに辞めれば五ものにしてしまったのだ。

「何事も、始める時よりも、終結させる時の方が、数倍難しい」

 というが、まさにその通りなのである。

 では、この蝦夷地に作った、イギリスによる、

「南部蝦夷国」

 というのは、どういうものなのだろうか?

 ここは、国家としての体裁は完全に整っているわけではない。どちらかというと、日本本土において、

「大名が納める国」

 という程度の体裁しかもっていなかった。

 実際には、イギリスも、もう少し、民主的な理想国家を作りたいという意思はあったようだが、あまり急激に変革させてしまうと、

「蝦夷地も、植民地になってしまった」

 と思われるだろう。

 蝦夷地に植民地国家を作ってしまうと、北部で対峙している、ロシアを後ろ盾にしている、

「北部蝦夷国」

 を刺激することになり、

「今はまだ、大人しくしていないと、来るべき時がくれば、世界の賛同を得ることができなくなってしまう」

 という思いが強かったのだ。

 傀儡国家にしても、植民地にしても、諸外国との関係が不可欠だ。なぜなら、諸外国も、成立国家を見極め、その存在を承認するかどうか、さらには、国交の問題にも発展するのだから、他人事では済まされないだろう。

 基本的には、イギリスの傀儡国家である、

「南部蝦夷国」

 であるが、傀儡国家といっても、スペインの影響もまったくないわけではなかった。

 その一つには、現状、元首といってもいい、織田信定が、遠縁といっても、現在、日本本土で派遣を握っている織田信長と親戚関係にあるということだ。

 信長は、スペイン人のことしか分からないので、本土は、スペイン人に対して、国民、特に寺院や仏教徒などが、キリスト教という、

「異教」

 に対して対抗意識を燃やしている。

 そんな異教を崇める人種である、

「イギリスという国は、さぞかし、異端な民族なのだろう」

 ということである。

 信長が保護しているので、大っぴらにできないが、この頃からすでに、

「攘夷論」

 というものは存在していたのだろう。

 傀儡国家として存在している南部蝦夷国では、実際に、自分たちが操られているという意識は低いようだった。

 むしろ、

「ロシアの脅威を持った北部蝦夷国の圧力から、イギリスの権威が守ってくれているのだ」

 という意識が強く、操られているどころか、守られていると思うことで、イギリス人は、その立場を維持している。

 これは、安全保障上、非常に大切なことで、

「守ってもらえるのだから、それなりの条件があっても、それは無理もないことだ」

 といえる。

 さらに、南部蝦夷国にいる原住民であるアイヌ民族は、

「保護してくれるのであれば、どこだってかまわない」

 と思っている。

 それが、日本本土であっても、イギリス国であっても、スペイン国であっても同じなのだ。

 そういう意味では、北部蝦夷地におけるアイヌ民族も、

「ロシアに守ってもらっている」

 と思っているだろう。

 もし、いつ一触即発の両国が、戦闘状態に突入するか分からない。そうなってしまうと、

「果たして、どっちが強いのか?」

 ということになるが、実際の戦闘は、原住民が行うだろうが、指揮を執るのは、宗主国である、ロシアであったり、イギリスの司令官に違いない。

 だからこそ、代理戦争の様相を呈しているわけで、逆に言えば、実力が拮抗しているのであれば、そこに均衡という状態が生まれ、どちらから攻めるというわけではなく、睨みあったままの、膠着状態が続くことになる。

 それを平和といえるのだろうか?

 膠着状態が続くことで、戦闘には発展しないが、果たして緊張感がどこまで続くことだろう。

 人間には、そこまで緊張を持続できるほどの強さが備わっているわけではなく。文明を持った動物というのは、えてして、本能を持った本当の意味での闘争反応はないのではないか?

 本当に極限状態に陥れば、本能が勝手に動いて、

「動物的な勘」

 が潜在的に持っていた感情と相まって、本来の姿を取り戻すのかも知れない。

「人間という動物だけが、自分の私利私欲で戦争をする」

 というがその通りだろう。

 戦争を、本能と本能のぶつかりのように感じるのであれば、それは、潜在しているものが、もっと表に出てきているものでなければいけないだろう。

「表に出ている部分が大きいから、潜在しているものも大きいというわけではなく。潜在しているものに変わりがないから、上に出ている部分が、明らかに違ったものに見えている」

 といえるのではないだろうか。

 それが、人間と動物と呼ばれているものの違いであり、

「人間は、脳の数パーセントしか使っていない」

 という発想にもつながっていくのだろう。

 当時に、超能力と呼ばれているものがあったかどうか定かではないが、超能力として考えられているものの候補としては、祈祷なのではないだろうか。

 祈りを捧げることで、雨を降らせたり、病気を治したりする。また、戦勝祈願など、自分たちが必死でやっていることまで、最後は神頼みだ。それだけ、普段から、

「人間の力など知れている」

 と、思われているのかも知れない。

 確かに、戦などというと、自分ひとりでできるものではない。戦争する相手がいて、相手も同じように、指揮官がいて兵隊がいる。実際に、指揮官のいう通りにすべての人間が動くわけではなく、実際に寸分狂わず動いたとしても、作戦が元々おかしければ、成功するものであってもしないといえる。

 だが、逆に、

「成功するもの」

 とは何だろう?

 成功するはずの作戦でも、駒がうまく機能しなければ、失敗に終わる。逆に失敗するはずの作戦でも、兵が無能であれば、

「予期せず行動として、相手に疑心暗鬼を与え、精神的に苦しめることで、勝利が転がりこんでくるかも知れない」

 といえるだろう。

 それだけ、偶然が重なったといえることでも、成功すれば、相手に勝つことができるというものだ。

「成功は時の運ともいうだろう」

 神頼み、えてして重要な要素だったりする。

 時代的にはもう少し後になるのだろうか。

 九州の大友氏と島津氏が戦った、有名な、

「耳川の戦い」

 において、

「その日は、占いで戦闘をしてはいけない日だ」

 ということが出たにも関わらず、大友宗麟が強硬に戦闘を行ったことで、敗北してしまったという逸話が残っている。

 だが、よく考えれば、これもおかしな発想であって、

「占いに、戦闘にふさわしい日だ」

 というのが出ていたとして、結果同じ、敗北であった場合、歴史上はなんといわれるのだろう?

「占いで、戦争に最適だという言葉を信じて戦いに挑んだのに、負けてしまった」

 と言われることだろう。

 その場合は、間違いなく、占いのことには触れずに、

「その作戦が悪かった」

 あるいは、

「兵が想像以上に機能しなかった」

 などと言われることだろう。

 それが、日本人の、

「謂われ」

 というものではないだろうか。

 戦争がうまくいかなかったことを、祈祷において、どちらに祈祷の判断があったかということで、何が悪いかが変わってくる。それも、実に不可解なことであり、理不尽ともいえることに思えるのだった。

 この、

「耳川の戦い」

 において、大友宗麟が、祈祷の忠告を聞かなかったというのは、ひょっとすると、

「宗麟がキリシタン大名だ」

 ということに関係があるのではないだろうか。

 キリスト教を信じることで、戦での祈祷師の言葉というものを、どこか軽視していたのかも知れない。

 日本の古来から伝わっている仏教精神に則った占いなのではないかと思うので、ここで宗麟の中に、宗教同士確執が、ジレンマとなって襲い掛かっていたのかも知れない。

 宗麟としては、敗北したことで、これ以上の自己嫌悪に陥ったことがないように思えるが、どうであろうか?

 大友宗麟というのは、

「果たしてどこまでのキリシタンだったのだろう?」

 というのも興味深いことだった。

 当時は、キリシタン大名というのも結構いた。だが、よく考えてみれば、おかしな気もする。

「人を殺めてはならない」

 と、十戒にも書いてあるのに、戦闘集団であるキリシタン大名に、キリシタンがいるというのは、何か矛盾している気がするからだ。

 しかし、世界史的に考えれば、この矛盾は世界レベルだといえるのではないか?

 何しろ今までに起こっている戦争で、結構宗教がらみの戦争も少なくない。

 特に、

「聖地を取り戻す」

 という名目のもと、組織されたのが、十字軍というものではなかったか。

 それに、

「宗教戦争」

 などという言葉も存在し、昔から、宗教による宗派に対しての争いであったり、土地の問題、さらには、彼らのプライドの問題であったりと、宗教という名前を冠していても、普通に争いというのは起きるもので、きっと彼らはそれを、

「自衛」

 という言葉で示すのだろう。

 元来、宗教というものは、自給自足の考え方が多いので、

「自分たちのことは自分たちで」

 ということなのではないだろうか。

 そうなると、当然のごとく、誰も守ってくれないのであれば、自存のための戦争を正当化するのも当然である。

 やはり宗教団体といっても、形成しているのは、個々の人間だということなのであろう。

「そういえば、この南部蝦夷地にある国家には、何か宗教はあるんですか?」

 と聞くと、

「我々にも当たり前に宗教を信じる人はいるようだ。ただ、国を挙げての宗教というものはなく、自由に宗教の信仰を許しています。今はなかなか、そういう支配階級があるところはないだからね。でも、勢力として強いのは、キリスト教でしょうか? 北部蝦夷地では、ソロアスター教というのが、国教となっているようだ」

 というのを聞いて、

「そのゾロアスター教というのは、何なんですか?」

 と聞いた。

「ゾロアスター教というのは、何やら火を祀る神様だということで、昔、中央アジアに存在した、ペルシャという国で盛んに活動していたということなんだ」

「やはり、それは、ロシアの影響でしょうか?」

「そうだね、ロシアという国は国土が広いだけに、国内でもいろいろな民族や宗派が存在している。その中の一部のゾロアスター教徒が、ロシアから、この北部蝦夷地に来たようなんだ」

 というのを聞いて、少し不思議に感じた重光は、

「えっ? ということは、こちらに来ているロシア民族は、国の方針とは決して同じではないということですか?」

 と聞いた。

「そうだと認識している。実は、ここにきているイギリスの連中もそういうところがある。しかし、本土に来ているスペイン人や、ポルトガル人は、キリスト教布教を、国家利益としての、植民地化をあからさまに目論んでいるので、彼らは、「国家の手先だ」だといってもいいのではないだろうか?」

 というのだった。

「じゃあ、国家ぐるみの傀儡国家ではないということになるんですね? あくまでも、個人というか、国家とは違う集団が、暗躍することで、それぞれの蝦夷地を占領しているということになるんですか?」

 と重光が聞くと、

「表面上はそういうことだな。だけど、彼らには、それなりに理念があって、自分たちの主張と、この国の国益との利害が一致しているということもあるんだ。だから、占領されているという形になっているのは、体制上仕方のないことではあるが、占領されているわけでも、ましてや、植民地などということでは決してないんだよ」

 と、信定は言った。

「でも、傀儡国家なんでしょう?」

「ああ、表面上はね。でも、そう思わせておく方がいいということだってあるんだよ。それが外交面で役に立つことがある」

 という信定の言葉に、まだハッキリと納得がいかない、重光であった。

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