第4話 「むふぅー」

 こんにちは、おはよう、さようなら、ありがとう。


 ざっと四つの手話をマスターしたのかね? ほっほっほ、まずまずじゃの。とりあえず最初の町で<ひのきのぼう>を買ったくらいだけど、素手よりはましじゃからな。冒険はまだ始まったばかりじゃぞ?


 ろう者——耳が聞こえない人のこと——が主に使う日本手話は、ちょう者——耳が聞こえる人のこと——が本格的に勉強するには結構複雑で、かなりの時間が必要だと教わった。そもそも文法からして日本語と違うから、少なくない人が挫折しちゃうみたい。


 と、いうわけで、しばらくは文明の利器に頼りつつ、君との会話を楽しもうではないか。言いたいことが伝われば筆談でもスマホでも手旗信号でもなんでもいいしね。


 正直、私は君と一緒なら全部楽しいんだから。


 そういえば陸上の大会があって忙しかったんだよね、その中で覚えてくれたんだ、うれしい。どうだった? 走り高跳び。県二位? すごいじゃん!


『ま、まあ、わたくしが注目してる殿方なんですからそのくらいは当然ですわ!』


 心の中でお嬢様カナちゃんを再登場させつつ、スマホで『すごいですわ』スタンプを押してみる。このキャラ気に入ってるのかって? まーね。


 さーて、もう一個クッキー食べよう、と思ったらメッセージ到来。八月で空いてる日? だいたい毎日空いてる、いや一応勉強もするよぅ、多分。それでそれで、どうしたの? デートのお誘いかな?


『ここに行ってみたい、とな』


 ほんとにデートじゃんか……いざ誘われる側になるとこう、ビビるね。


 そーっと君が張ったリンクに触れ、ブラウザが立ち上がる。野外イベントのサイトが出てきた。


『手話を使うリアル脱出ゲーム?』


 ろう者と聴者でチームを組んで、お題に沿った謎を解いていく。謎は公演ごとに違っていて、現地に着いてからのお楽しみ?


『なにこれ、おもしろそう!』


 最後には手話にちょっと慣れている仕組みかぁ。前回は……手話を使う村出身の女の子と音声言語を使う村の男の子の恋物語をサポートする……? なんだか親近感半端ないなぁ、サポートはなかなか得られないけど。


 まあ、君は手話初心者界における<ひのきのぼう>を<どうのつるぎ>にアップグレードしないといけないから、駆け出し勇者様の修練にはちょうどいいかもしれない。私も最近は君以外の聴者の人たちとあんまり絡むことないし、いい機会かも。


 そこまで考えて、ふと我に返る。


 私は君に寄り添ってもらったけど、私の方からは君に歩み寄っていないっていうのはちょっとバランス悪いよね。いつも助けられてばかりじゃ、女が廃るってもんよ。


『……でも、私が君の方に寄り添うってなんだろう?』

 

 今でも、少しでも君に近づきたいからボディタッチやわかりやすい表情は意識して多めにしてるし、口から息を漏らす「音」を唇で感じながら君に届けようとしてきた。きっと、これからもそうすると思う。


 けれど、やっぱりほんの少しでも私の口から、言葉を「音」にして紡がなければ、私と君の間にあるちょっとした壁は壊せない気がしてしょうがない。子供のころ以来、発話の訓練を面倒くさいってサボってきたからなぁ……うまくはできないよね。変だと思われたら恥ずかしいけど、最低限トライはしないといけないかな。


 きっと君はそんなこと気にしないよ、って言ってくれると思うけど、私が気に食わないんだよ。自分自身でうまく「音」にできたかどうかを確認できないから余計に。


「むふぅー」


 ついつい自分の生まれを呪いそうになったけど、それでも人生を楽しむんだ、楽しんだもの勝ちなんだ、という気合は息を吐きだすことで表現してみる。いまさら不安に飲み込まれたって、いいことなんて何もないよね。


 君は数秒前の上機嫌から一転した私をきょとんとしながら見ている。


『ん? なーんでもない。いーや、秘密。教えなーい』


 おっと、なになに、珍しく食い下がるように視線を遮ってくるじゃん、いい勘してるね。さっすが、私が惚れた男。でも、もうちょっと察しが良くてもいいよ?


『そろそろ夕方だし、帰ろっか。コンビニでアイス買ってからでいいよね?』


 ごまかしつつ、スマホをぶんぶんと振りながら横断歩道の向こう側を指さした。


 ちょっとしたメンタルの揺らぎも、ついでにペロッと食べちゃおう。君と一緒に。



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