第30話 目をつむる

 ついさっきまでの心配はなんだったのか。


 佐久が思わずそう漏らすほど、場は盛り上がっていた。


「再開を祝して、乾杯!」


 テーブルに並べられた日本酒やビール、裂きイカなどのおつまみ。蓼科は仕事が忙しいこともあり家では滅多に酒を飲まないので、急遽吾妻が台所に立っておつまみを作り始めた。


「なんだまったく、もう酔ったのか。これくらいでだらしがない」


「ザルのお前と一緒にするな。医学生時代から変わらんな」


 手酌で水のようにビールを飲む秋霜、ちびちびとすするように日本酒をなめる蓼科。


「おお、これもお前から勧められて以来好物になったな」


 蓼科は干しぶどうを一粒摘まみ、口に放り込む。


「佐久、お前にも小さいころよく差し入れていたな」


佐久は山で峻に干しぶどうを勧められたことを思い出す。


「……パパがお見舞いによく持ってきてくれてたけど、こんなところで繋がってたな

んて」


 吾妻がおつまみを作ってきても、時計の短針が一回りしても二人の会話は尽きることがない。


 手持無沙汰になった峻と佐久は、隣で泥酔する父親を放って二人で話し始めた。


「……峻のパパも、医者だったの? なんで言わなかったの?」


「知られたくなかったから。大体いじられるし、変な目で見られるから。「『お前んち医者で金持ちなんだろ?金貸せや』って転校先で言われることもあった」


「……ああ、親が医者って知られると大概面倒くさいよね」


 高校生活初日、クラスが大騒ぎになったことを思い出す佐久。勤め先が大病院ということもあるのかもしれないが。


「友達なんだからただで診て、とか言うのもいた」


「……月並みな言い方だけど、わかる。病院だって慈善事業じゃない。スタッフを雇うにも土地を買うにも、病院の電気代だって払わなきゃいけないのに」


「潰れる病院だってあるし、クビになる医者だっているのにね」


 世間には医者は金持ちというイメージばかり浸透しているが、それほど楽な商売ではない。自由時間も少なくなるし責任は重いし激務だ。


それからも二人は、医師の子供あるあるで盛り上がる。


 だが徐々に佐久はまぶたが垂れ下がってくるのを感じた。気が付くと体が横に傾くのを修正する頻度が、次第に増えていく。


「どうしたの?」


「お嬢様、大丈夫ですか?」

おつまみを運ぶためテーブルにやってきた吾妻が、咄嗟に体を支えてくれた。



「……昨日、発作が起きて。それで寝てないから」


「なぜ言わなかった」


「……心配かけたくなかったから。それにパパに言ったら治してくれるの?」


 怒りをあらわにした父親に対して皮肉たっぷりにそう言った佐久の表情は、これ以上ないほどの恨みと絶望に満ちていた。


 父親の蓼科も、同じ医者である秋霜も、何も言えなくなる。


「……朝から緊張してたから、疲れた。横になりたい」


 周囲の空気を無視してそうこぼした佐久は、椅子に寄りかかる。


「お嬢様、寝室へ」


 吾妻はそう言って肩を貸そうとするが、初老の女性に思春期女子一人分の体重はきついのか立ち上がらせることさえできなかった。


「峻、何ぼさっと見ている。お前がやれ」


「ぼ、僕が?」


「訪問診療した時、自宅で倒れていたご老人をベッドへ運んだことが二、三回はあったぞ。お前もいずれはやるかもしれん」


「……私からもお願い。峻がいい。いや、峻じゃないと嫌だ」


 眠気のためか濡れたようになっている瞳が、まっすぐに峻を見つめる。


 峻の表情が照れくさそうになったのを、佐久は気のせいだと思いたくなかった。


「……パパたちお酒臭いから、背負われたくない」


 そう照れ隠しに言うのが精いっぱいだった。


「じゃあ、失礼して」


 峻はおずおずと佐久の隣にしゃがみ込み、肩を貸して立たせようとする。


「……痛い」


 だが佐久は痛みの余り顔をしかめ、峻はすぐに動作を中断してしまった。


 佐久の身体にはほとんど力が入らないから、持たれた腕が引っ張られ、脇の下に肩が食い込んでしまう。


「しょうがないか。ちょっと我慢してね」


 今度は峻はもっと姿勢を低くし、佐久の隣にしゃがみ込む形をとった。


 何をするのだろう。佐久は眠気であまり働かない頭の隅でそう考えた。


峻が何か覚悟を決めたかのような表情をしたのが気になる。


今度は膝の下と、肩の下に手が回される。


食いこまないように配慮してくれたのだろう、先ほどよりずっと柔らかな感触と共に

佐久は浮遊感を感じると同時に、視線が一段高くなる。


「……わ、わわ」


「動かないで、危ないから」


 肩と膝に回された手、すぐ目の前にある真っ赤に染まった普段は優し気な顔。


 これはいわゆる、お姫様抱っこというやつではないだろうか。


 佐久の脳が一瞬で覚醒し、恥ずかしさがこみあげてくる。


 だが下ろして、という言葉は口から出てこなかった。


 四賀山で彼に背負われた時とは比べ物にならないほどの密着度。しかも今は室内で薄着だから、峻の身体の感触が直接に近いほどに伝わってくる。


「……」


 佐久は脳がオーバーヒートしてしまったかのように、うまく言葉が出なくなる。


「じゃあ、佐久さんの部屋に行くよ」


 吾妻の案内で峻は佐久の部屋に進む。そのたびに体が揺れるので、佐久は反射的に峻の首の後ろに手を回した。


「さ、佐久さん?」


 佐久の日本人形のような黒髪と峻の前髪が触れ合う。すぐ目の前にいるのに、佐久は峻と目を合わせることができず目をつむった。

 

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