第29話 医者っぽくない見た目の医者もいる。

 翌日の日曜日。玄関のチャイムが鳴る音で佐久は身を強張らせる。


 迎えに出る吾妻についていく勇気もなく、リビングで味のわからないお茶をすする。フレアーのロングスカートの裾をぎゅっと握り締めた。


 上から羽織ったニットの上着の下の肌は震え、雪のように白い肌は若干青白い。


 目が覚めた時にコミュニケーションアプリを確認すると、お見舞いに行きたいという峻からのメッセがあった。


 蓼科が峻に対しどういう態度をとるかは怖かったが、怖いことは先延ばしにしているとどんどん怖くなる。


 今日は蓼科の仕事が休みだったこともあり、


『……急だけど今日の昼でもいい?』


 そうメッセを返すと、


『いいよ、それと父さんも来たいって』


 既読がついてから少し時間を置いて、そう返事が返ってきた。


 吾妻と蓼科に峻とその父親が来ることを伝えると、家の中は急にあわただしくなった。


 家事手伝いである吾妻が大急ぎで来客の支度をする物音を、佐久は自室で勉強しながらずっと聞いていた。


 時計の針が十二時を示す頃、吾妻に連れられて一人の男子と一人の男性がリビングに通される。


テーブルをはさみ、峻と彼の父親、佐久と蓼科、吾妻という形で向かい合った。


これが、彼の父親。


峻と違い熊みたいな風貌だが、優しげな雰囲気はよく似ていた。


慣れないアイロンがけのワイシャツにくたびれたスラックス。


蓼科とは住む世界が違うことを肌で感じると同時に、峻とさえ距離が開いてしまった感じがする。


離島や山の奥に行く仕事と言っていた。医師でありインテリな蓼科とうまく話ができるだろうか。


幸い今のところ険悪な雰囲気にはなっていないが、もう峻やみんなと山に行くのを許

してもらえないかもしれない。


そう思うと佐久は胸を切り裂かれるかのような痛みを覚えた。


二人の口元がわずかに動いた。会話の始まりを感じ、佐久は目を伏せて身構える。


「久しぶりだな、妙高蓼科」


「そうだな。白馬秋霜」


 第一声に目を丸くしたのは、この場で佐久だけだった。


「こうして会うのは何年振りか」


「山岳医療の学会で顔を合わせてからだから、三年ぶりじゃないか?」


「今度はお前も参加するんだったか。出席者の一覧に名前があったぞ」


「そういうお前は座長をつとめるそうじゃないか。ずいぶんと立場が偉くなったな」


 吾妻が淹れた玉露の緑茶を、峻の父親は遠慮なくすする。

急に親しげに話し始めた父親と峻の隣に座る秋霜を見て、佐久は呆然とした。


「それより、なぜ尋ねてこなかった?」


「いや、色々と忙しくてな。この町に腰を落ち着ける間もなくあちこちへ往診に行っている。今、最果村から帰ってきたばかりだ」


「最果村はこの県でも有数の限界柳楽だぞ」


「そういうところに行くのがいいんじゃないか」


「お前は医学生時代からそうだったな」


 蓼科が分厚い眼鏡の奥の瞳を細めると、峻の父親は豪快に笑った。


「……ちょ、ちょっと待って」


「なんだ佐久? 男同士の再会に水を差すのは無粋というやつだぞ」


「ついさっき知ったんだけど、僕の父さんと佐久のお父さんは大学の医学部で同期だったんだって」


「……でも峻、父さんの仕事は離島とか山の奥だって」


「登山好きが高じて、離島やへき地医療の分野だから。ザックに聴診器とか血圧計、専門書を詰めて自転車やバイクで獣道走って往診に回ってる」


「山岳医療の団体でいくつも論文を書いているな。学生時代から変わっていない」


「勉強そっちのけで登山ばかりしていた。うちの大学は周囲が日本有数の山岳地帯、アルプスだからな。おかげで成績はぎりぎりだったよ」


「お前が苦手なのは座学だけだろうが」


 そう言いながらも、蓼科は笑顔だった。


 父親がこれほど打ち解けて話しているのを見るのは、佐久にとって初めてだった。


「卒業してからは山岳医療の道に進んだから、家業の病院を継いだ私とは滅多に会うこともなくなってしまったが」


 それからも、二人の会話は盛り上がっていく。


 自分たちそっちのけで話しはじめる二人を、峻は苦笑いしながら見ていた。


 彼の短く切りそろえられた髪の下と目が合った時、ふと今までの疑問が腑に落ちた。


初めて空き教室で話した時、自分に近い感じがしたのも。


自分がケガした時、あんなに手際よく治療できたのも。


 そのせいだったのか。


 ふと会話がとまり、秋霜が姿勢を正す。息子の峻もそれに倣った。


「それより今回はうちの息子が付いているというのに。娘さんにケガをさせてしまいすまなかった、蓼科」


「すみませんでした」


秋霜は深々と頭を下げ、峻もそれに倣った。


「顔を上げてくれ」


 二人が顔を上げたのを確認し、しっかりと目を合わせてから蓼科は言の葉を紡ぐ。


「日常生活でも、病院でもトラブルはつきものだ。大事なのはその後どうするか。秋霜の息子らしく手際よく処置してくれたそうだしな。それよりも」


 分厚い眼鏡の奥の視線を、左隣に向けた。娘と反対側に座るのは、初老の家政婦。


「吾妻から話は聞いている。最近、めっきり佐久が明るくなってきたので何があったのか尋ねてみたのだが」


「山にハイキングに出かけるようになった。幼馴染である望月くんとも、朝のウオーキングを行っているとな。料理にも興味を持ち始めている。ベッドで寝ているか勉強机にかじりついているだけだった娘には、今までなかった」


「主治医の勧めがあっても今までのことがあってか、なかなか軽い運動に手を付けてくれなかったのだが……」


 蓼科はそこまで言うと、冷めてしまったお茶をグイと飲み干す。


「これもみな、君のお陰だ」


 今度は蓼科が深々と頭を下げる。大病院の院長である父親がこれほど丁寧に頭を下げるのを、佐久は初めて見た。


「秋霜の息子なら問題なかろう。これからも娘をよろしく頼むぞ」


「わたくしからも。お嬢様と仲良くしてあげてください」


 父親と吾妻の二人につられ、佐久も深々と頭を下げた。


「……よ、よろしく。峻、峻のパパ」


 彼女が頭を上げると、日本人形に似た黒髪越しに見える大人たちはなぜかニヤニヤと笑っていた。


「さて、堅苦しい話はこれくらいにしよう。吾妻、酒を頼む」

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