壁:ジェイド

 学園西端の護陣塔──激しい水音が鳴り止まないその第一階層で、ジェイド・グレードは異形の召喚獣と対峙していた。

 天井付近に現れた黒渦から濁流が流れ込み、上層へと繋がる階段を完全に沈め、塞ぐ。そのまま空間を満たすまで上昇するかと思われた水位だったが、開け放たれた塔の入口から水が流れ出ている事に加え黒渦から流入する水量も不思議と穏やかになった事により、現状は室内の半分に満たない高さを覆い隠す程度に落ち着いていた。

 とはいえ陸棲動物の泳ぎでは逆らえない程に水流は激しく、もしシルバーが飛行能力を持っていなければ手も足も出ずに溺死していただろう。何も無い空間に水を喚び寄せて環境を作り変え、適正を持たない敵を一方的に殺めるその能力は大きな脅威だ。


(攻め方はどうする。ブレスは……使うべきではないだろう)


 力任せの広範囲攻撃。若しくは反撃の手も届かない高々度からのブレス。ここが戦場であれば真っ先に取るであろう選択肢を除外し、慎重に敵を観察して効果的な攻め方を考える。敵は時間稼ぎに集中するつもりなのか、身構えるばかりで攻撃を仕掛けてくる様子はない。

 クラスメイトの召喚獣であることに気を使い、手心を加えようという訳では決してない。相手が明確な人類の敵であることが判明した今、人間であるヘレシー本人は未だしもその召喚獣の生死を気にかけている余裕などない。

 それでもブレス等の強力な攻撃を躊躇う理由は、ここがメイユールにとって歴史的、戦略的に重要な建造物の中であるからだった。


 護陣塔の防護壁は強力だ。今は入口部分に穴を空けられているものの、それ以外の防御機能は生きている。大量の水による圧力を物ともしない様子を見るに並大抵の攻撃では壁面に傷を付ける事すらできないだろう。

 だが、シルバーは特別な召喚獣だ。その絶大な力が護陣塔の防護壁で防ぎ切れるのかどうか、確かめる方法は実際に攻撃してみる他に無い。


(そうでなくとも、ここで力を使い過ぎてしまえば後に控えているヘレシーとの戦いで勝つ事などできない。消耗の激しい飽和攻撃ではなく、もっと効率的な……)


「あ、あのー……」


 残すべき魔力を逆算しながら間合いを計っている目の前で、敵の召喚獣が大げさに広げていた触手を足下へと戻していく。攻撃を開始しないこちらの実力を見下げたか、眉を吊り上げた険しい表情もどこか気の抜けたものに変わっていた。弛緩と油断。この認識の甘さは大きな隙になるだろう。


「……もしかして、私の準備を待っていたりしますか? それなら大丈夫ですよ。あまり時間を掛けていたらヘレシーさんの用事が終わってしまいます。それは貴方にとって……良くない事ですよね?」


 ヘレシーのの完遂。それは邪神召喚が成され、世界が滅亡する事と同義だ。

 悠長に構えている時間は無いと暗に伝えるその言葉が、水音で満たされた空間に緊張と重圧を生む。

 息を吸い、シルバーの背を叩く。待機中も静かに闘志を滾らせていた相棒は、翼を一際(ひときわ)力強く羽ばたかせて合図に応えた。


「【エンチャント・シャープネス】……シルバー、一気に叩くぞ!」


 相棒に特性を付与し、短く指示を出す。一度大きく高度を上げたシルバーは両翼で宙を掻き、無防備に露出している敵の本体に向けて降下しつつ突進した。この戦場は竜種にとってあまりに手狭だが、高さを利用した加速によって瞬時に大空での速度にまで到達する。


「【スプラッシュウォール】!」


 銀竜の突進。僅かでも相手の反応が遅れていればその身を両断できたであろう飛行速度。しかし敵は素早く魔法を行使し、正面に高圧の水飛沫を展開してみせた。

 目眩ましと力の受け流し、そして水による戦場の環境操作。人間同士の戦いでは絶大な効果を発揮する水魔法の一つだが──認識が甘い。その程度でシルバーは止められない。水流で僅かに狙いをずらされながらも大爪は展開された水壁を容易く切り裂き、その奥で回避行動に移っていた敵召喚獣の触手を掠め取るようにして切断した。

 すれ違って壁際まで飛行したシルバーは正面に向かって羽ばたき、自らの勢いを殺しながら相手に追撃を加えるべく瞬時に転回する。

 恐らく敵召喚獣は魔法を使って状況を仕切り直そうとするだろうが……この詰め時を逃す訳にはいかない。


「っ! め、【メイルシュトローム】……!」

「【アクセラレーション】! 喰い破れ、シルバー!」


 敵の魔法により水面が局地的に膨れ上がり、中心に発生した大渦が複数の竜巻を伴いながら獲物を呑み込むべく襲い掛かる。

 本来なら不可避かつ対抗手段の少ないその最上位魔法を強引な加速で掻い潜り、俺達は一筋の銀弾となって巻き上がる水の烈風を突き抜けた。

 視界が晴れた先には敵召喚獣の本体。後は真っ直ぐに爪を滑らせて体を切り裂くだけ。必殺を確信して正面を見据えていた俺の視線は、何故かシルバーが身を捻った事により大きくその角度を変えていく。頭上を影が覆った。


 ──轟音。


 振り下ろされた数本の触手の一本が先程まで自分がいた位置を力強く打ち据え、側面に重い一撃を受けて体勢を崩したシルバーの大爪が空を切る。命中しなかった他の触手が水面を割り、床にまで到達して亀裂を作ったのを見て、俺はシルバーが咄嗟に体を捻らなければ即死していた事を数瞬遅れで理解した。


 俺を背に乗せたまま着水したシルバーは、翼で水を切りながら敵との距離を空けて入り口側の壁際で飛び上がり、空中で水を払い体勢を整える。俺は一連の動作で大きく消耗した騎乗用の魔導具に魔力を込め直しつつ、再び見下ろす形で敵と対峙した。互いに致命傷を与えられないまま状況が振り出しに戻ったが、得られた敵召喚獣の情報は多かった。

 強力な魔法を単独で連発する豊富な魔力。突進する銀竜の軌道を逸らせる程の力を持つ無数の触手と、それらを統括して自在に操る情報処理能力。気味の悪い外観に反して全てが召喚獣として高水準であり、遠近問わず、魔法も物理も使い分けて立ち回れる隙の無い性能を有している。一個体として突出したその力は作戦の主軸として運用するに十分であり、間違っても時間稼ぎに使われるような存在ではない。


(方針を変える。全ての条件を都合良く満たして突破できる相手ではない)


 護陣塔を傷付けず、余力を残し、素早く勝利する。それは最善の目標だったが、一度矛を交えて現実的ではない事がよく分かった。

 優先順位を考える。今最も失ってはならないのは時間だ。確実に邪教の儀式を妨害し、平和の敵である信者達を捕らえる。混乱と争いの芽を摘む。致命的な何かが召喚されてからでは遅い。


「……凄い力です。それに、お二人の絆も確かに伝わりました。これならヘレシーさんもきっと認めてくれます。だから、貴方はもう止まっていいんです。一度立ち止まって隣に目を向けてあげて下さい。貴方は、一人じゃない」

「俺はもう逃げない、そう言った筈だ」


 遠回しな停戦の提案。先の攻防でこちらを油断ならない相手と見て、単なる力比べだけでなく搦手を交えた時間稼ぎに切り替えたのだろう。拙い交渉術ではあるが、人語を発音するという召喚獣としては珍しい長所を活かした策だ。今が人々の未来を天秤に乗せた極限の状況でなければ、その外見が多少なりともまともであれば、耳を傾ける者もいたかも知れない。

 敵も焦り、手段を問わず時間を欲している。儀式が成るか成らないか、世界の命運を左右する分水嶺は恐らくここだ。

 切り札を切る。竜族が最強種と呼ばれる所以を示す。後悔も責任も、明日を迎えられてから背負えばいい。


「お前は殿しんがりの役割を十分に果たして死んだ。ヘレシーにそう伝えてやろう」


 意識して勝ち気な言葉を選んだ。相棒の首を撫でると、溢れんばかりの力が躍動の瞬間を待っているのが分かる。

 自信に満ち溢れていたあの頃のように不敵に笑ってみせ、俺はグレード家の伝家の宝刀を抜いた。


「【ショックシールド】、【ヒートバリア】、【マジックヴェール】……見せてやれ、シルバー!」

「グル……GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!」


 熱線。或いは閃光。

 開かれた竜の顎から生まれたのは万物を無に帰す魔力の奔流。ただ同じ空間にいるだけで、幾重にも展開した防御魔法を貫いて大きな衝撃と熱量が身を襲う。

 直撃すれば何者も形を保てないと確信できる絶大な破壊力。指向性を持った破滅の波。過去の戦場で万の敵兵を葬り去った銀の息吹が、行く手を阻む滂沱の水を蒸発させながら目標へと進んでいく。本来は一瞬である筈のその光景が、極度の集中状態によって脳内で引き伸ばされる感覚。


「は、【ハイドロシェルコート】!」


 刹那を切り取ったような時間の中で、敵の反応速度も尋常ではなかった。ブレスを防ぐべく周囲の水を固めて高硬度の水殻を作り出し、そこに室内の水流を集中させる事で少しでも防壁を維持しようと抵抗してみせる。その行いは不変の未来を先延ばしにする延命措置に過ぎないが、最期の時まで時間稼ぎの役割を果たそうとする確かな気概が感じられた。ここにいないヘレシーとどのような契約を結んでいるのかは不明だが、その揺るぎない忠誠心は召喚獣として高く評価されるべき資質だ。

 しかし俺達は二人いる。一方的な忠義ではなく、確固たる絆がある。シルバーを助け、その障害を取り除くのは契約者としてではなく家族としての俺の役目だ。


「【アンチ・アクアマジック】」


 幼少期、顔合わせを兼ねた競技会で想い人が使っていた魔法。家に帰ってからも目に焼き付いて離れない彼女の姿を想いながら何度も練習した魔法。同じ魔法や戦技を覚えればその才能と努力に追いつけると本気で考えていた過去の自分が、今の自分に残した数少ない中身のある実績。

 その属性反発魔法を受けて、急激に縮小しながらも辛うじてブレスを防いでいた敵の水殻が波打つように揺らぐ。自分の力量では完全に打ち消す事はできなかったが、今はそれで十分だった。


「あっ……」


 甲高い音が響くと共に水の防壁が砕け散り、小さく発せられた声が掻き消される。敵召喚獣は丸めた触手で本体を覆って防御を固めたが、それごと飲み込むように致命の閃光が降り注いだ。

 竜の息吹の直撃。敵対する生命の悉くを消し去ってきた最強種の威光は、今回も例外なくその力を発揮した。

 幾重にも束ねられた太く長い触手の表面が泡立ちながら変質し、まるで幻想であったかのように光の粒子となって消えていく。強い光に付随する膨大な熱が空間を焼き尽くし、この状況からの回避と生還を不可能なものにする。

 紛れもない強敵の、余りにも呆気ない最期。こうして敵対する事なく、味方としてメイユールのためにその力を振るっていたとすればどれだけ多くの命が救えたのかと考えずにはいられない。そんな口惜しさと共に、戦いが起きている原因であるヘレシーに勝利し、その道を正さなければならないという強い使命感が湧き上がる。

 視線の先では断続的に放射されるブレスが敵の体組織を崩壊させ、既に大部分の触手を蒸発させていた。間もなく敵の本体にも破滅の光が届き、戦闘が終わるだろう。

 今度こそ勝利を確信し、次の戦いに思いを馳せる。体内の血潮に意識を向け、残った魔力の量を確認する。


 その時だった。


(……? 何が──)


 先ず変化したのは室内の照度。敵を消滅させるべく放たれていたブレスが中断され、背中の俺を何かから庇うようにシルバーが水面付近へと高度を下げた。

 胸騒ぎにも似た違和感。天井を隔てて上部から僅かに漏れ出ていた既知の狂気が、何倍にも膨れ上がったような感覚──否、それだけではない。

 一つ。いや、二つ。完全に未知の邪悪な気配がこの世界に姿を現わし、狂気の持ち主へと合流していた。

 天地を塗り潰す穢れ。人類を複数回滅亡させて尚弱まりそうにない強大な悪意。そんな世界にとってこれ以上ない異物達が、よりによってこの国の中心に同時に顕現している。


「俺は……間に合わなかったのか……」


 尋常ならざる空気。ただ真下にいるだけで何もせずとも息苦しく、体が震え、意識が奪われていく。

 狂気と瘴気。空間を歪ませる程に濃い穢れ。死よりも恐ろしいものが護陣塔に張り巡らされた魔法障壁を貫通し、どろりと染み出すように天井から溢れ落ちてくる。ここは既に邪神の領域だ。


「あ、危なかった……もう少しで、逃げ帰らないといけないところでした」


 敵の召喚獣が半壊した防御姿勢を解き、本体が姿を見せる。欠損した足を補充するように新たな触手が内側から現れ、粘液を撒き散らしながら身を捩る。

 仕留め損なったという事実には何も感じない。頭の中にあるのは塔の上にいる存在への恐怖心だけだった。


「貴方達の力、本当に凄かったです。でも、私もこの戦いで負ける訳にはいかないんです。ヘレシーさんの召喚獣になって、初めて単独で任された仕事なんです。ここで失敗したら……失望されちゃいます」


 ここで気付いた。絶えず水を吐き出していた黒渦が放水を止め、天井と壁を完全に覆い尽くすまで拡大していた事に。


「人間って水中で呼吸できませんよね。ちょっとずるいかなと思って水位を加減していたんですけど……ごめんなさい、私も嫌われたくないんです。もう天井まで沈めます」


 堰を切ったように巨大な黒い渦から大量の水が流入する。超質量を持った水の壁が全方位から迫り、まともに抵抗する事もできないまま押し流される。まるで海の一部を切り取って召喚したような圧倒的な光景。


「貴方は挑戦者としての役割を十分に果たして死んだ。ヘレシーさんにそう伝えておきます。……なんて」


 先程のこちらの発言への意趣返し。そんな敵の言葉遊びに反応する時間は残されていなかった。

 空気に触れていられたのは一瞬。水の壁同士がぶつかり合った強い衝撃を受け、俺は窒息するよりも先に意識を失った。

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