第22話 願いと代償(4)


「お願い……待って!」

 遠ざかっていく背中に向かって、リーシャはあらん限りの声を振り絞った。

 見覚えのある背中は、その声を聞いて静かに足を止める。しかし、前を向いたまま背中の主はこちらを向こうとはしてくれない。


 振り向かない彼を前に、リーシャは気持ちを落ち着かせようと静かに深呼吸を繰り返す。――何を探しているのかもわからず、ただ自分に足りない「何か」を追って駆け出していたリーシャ。それは深い霧の中を手探りで進んでいくようで、足元すらおぼつかない不安な探索であった。

 でも、その背中を見た瞬間に不安は確信へと変わった。欠けているのは、と相手の名前もわからないのに実感を掴む。


「お願い……こっちを向いて」

 呼びかける名前がわからなくて、震える声でリーシャは懇願した。

 少しだけ躊躇いを見せてから、目の前の彼はゆっくりと振り返る。黒い髪がふわりと風になびき、その顔を露わにした。キリリとした眉、すっと通った鼻筋、薄い唇……そんな精悍な顔立ちがリーシャの記憶に残ることなくするするとこぼれ落ちていく中で、ただ彼女を見つめる灰緑の瞳だけがリーシャの魂を撃ち抜いた。

 優しく、甘く、それでいて苛烈な程に熱の籠もった灰緑の瞳。リーシャをずっと見守ってきてくれた、忘れたくないその視線。


 ――間違いない、彼だ。私の執事だ。




「お嬢様、どうして……」

 執事の言葉を最後まで待たず、リーシャはその身体に飛びついていた。

 淑女らしさなんて気にする余裕もなく、似合わない化粧や髪型が崩れることも構わなかった。ただ、彼が離れてしまうことだけが不安だった。


 震える彼女の身体を抱き止めてから、彼は躊躇いがちにリーシャの肩に手を伸ばす。

「まだ、パーティの途中では? リロイ様のことはよろしいのですか?」

 驚きを滲ませながらも落ち着きを保った彼の言葉に、リーシャはイヤイヤと首を振った。

「そんなことより、貴方のことの方が大事だったの。私を置いて、何処に行こうとしていたの? お願いだから、居なくならないで……私のそばに居て……! 私は……」


 一瞬だけ言い淀んでから、リーシャは激情を迸らせるように言葉を放つ。

「貴方のことが、好きなの! 貴方の名前も顔も覚えられない私がこんなことを言うのおかしいってわかっているけれど……でも、ずっと貴方だけが私の心の支えだった。先の見えない真っ暗な現実で、貴方が私の手を引いてくれた。そんな貴方のことを、私の大切な半身を忘れたくないの!」

「お嬢様……」


 呆然とリーシャの告白を聞いてから、執事は苦しそうに首を振る。

「そんな、一介の使用人の俺では貴女を幸せにできません。俺は、お嬢様に幸せになって欲しいんです。そのために、俺は……」

「貴方のそばに居られれば、それで幸せよ!」

 噛みつくような勢いでリーシャが断言すると、執事は驚いたように目を瞬かせる。


「前に言ってくれたじゃない、『本当に望むなら、私を連れて逃げてくれる』って。あの言葉は嘘だったの?」

「いえ、そんなことは……」

 それ以上言葉を濁して、執事は口を噤む。

 しばらく訪れた沈黙が、リーシャの高ぶる感情を静かに現実へと引き戻した。


「……ごめんなさい、貴方の気持ちも聞かずに勝手なことばかり言って。よく考えたら私、自分の都合ばかりだったわ。今の言葉は、忘れてちょうだい」

 初めて彼から「逃げても良い」と言われた時は彼に迷惑を掛けられないなんて考えていたくせに、いつの間に自分はこんなにも我が儘な人間になってしまっていたのだろう。誰かを好きになることが、こんなに身勝手な考え方に繋がるなんて思ってもみなかった。




 辛そうに目を伏せて、リーシャはそっと彼から離れようとする。しかし、その身体を執事はそっと引き留めた。

「本当に……俺なんかで、良いんですか。ここで貴女が頷いてしまったら、俺はもう二度と貴女を離すことができなくなるでしょう。いつか貴女が自由を願っても、その時には逃がしてあげられなくなってしまいます。それでも……構いませんか」

 囁くような掠れた声がリーシャの耳朶を打つ。

 力がこもっているわけでもないのに、その声にリーシャはぞくりと背筋を震わせた。彼の言葉が誇張でないことは、その熱く絡めとるような視線が雄弁に物語っている。


 その執着に満ちた視線を受け止めて、リーシャは迷わずに真っ直ぐ頷く。

「えぇ。構わないわ。家を捨てる覚悟だって、できている。たとえ貴方が悪魔でも……喜んでこの身を捧げましょう。貴方を、愛している」

「悪魔でも、ですか……」


 その言葉に低い声で笑う執事の呟きに、リーシャは首を傾げる。

 ――彼女は、知る由もない。実際に悪魔と契約した彼が何を望み、何を失ったかなんて。彼が絶対に手に入らないだろうと諦めていた存在が、欲しいと思うことさえ己に許さなかった対象が自分リーシャだったなんて、彼女はまだ知らない。

 それでも、リーシャは彼を選んだ。もう彼から離れることはできないだろうなと予想しつつも、その甘やかな拘束に喜んで身を差し出した。もう二度と、彼のことを忘れたくなんてないから。


 リーシャの言葉を聞いて、執事は覚悟を決めたようにリーシャの手を取った。彼の長い指がリーシャの手をゆっくりと確かめるように絡めとっていく。

「えぇ、お嬢様。俺も貴女を愛しています。貴女のためなら、何を失ったって構わない。……約束します、必ず貴女を幸せにすると。そのために、俺はここに居るのだから」

 彼の手をしっかり握り返して、リーシャは顔を上げた。二人の視線が交差し、言葉はなくともお互いの感情が、熱が伝わっていく。


 静かに頷いて、リーシャはひと言だけ口にした。

「何度でも、貴方も名前を教えてね」

 ええ、と答える彼の声は囁きにすらならず、見つめ合う二人の距離は徐々に近づいて……そして、そっと唇が重なった――。




○   ○   ○   ○   ○   ○   ○



「ふーん。結局オジョーサマが新しい恋に走ることも、あのコの執着が暴走することもなくハッピーエンドになったのねー」

 二人の姿を眺める、第三の声。

 中空に浮かぶ鏡を通して彼らの動向を見物していたグィニードは、彼らの出した最終的な結論に無責任な感想を洩らしていた。


 彼らの動向を逐一監視しては、楽しんでいたグィニード。それがひとまず落ち着いてしまったことに、少しばかり肩透かしを覚えてしまう。ハッピーエンドが好きな彼ではあるが、結局のところ悪魔である彼はそこに至るまでの苦悩が大好物なのだ。

 その結果痴情のもつれによる事件が起きても、もしくは本当の気持ちを押し殺したいびつな終着を迎えても、それはそれで楽しめると思ったのだが……意外にも彼らは迷いなく一番良い選択肢を掴み取っていった。それは些か、人間の苦悩を娯楽としている悪魔にとっては物足りないくらいで。


「うーん……ロマンス小説だったら、愛のキスで呪いが解けるのがお決まりではあるけれど……」

 グィニードとしても楽しませてもらった分、奪った代償を返すこと自体はやぶさかではなかったのだが。

「もうちょっと……彼らには苦しんでもらった方が、楽しいかも?」

 気まぐれなのは、悪魔の性分。

 幸福に緩む二人の空気を一瞥して、グィニードはあっさりとそんな結論を下す。


「それにしても、面白いモノね。相手の姿もわからないままで、好きになるなんて」

 そう呟いて首を振るグィニードは、結局人間のことがわからない。わからないからこそ、時々彼らを観察したくなるのだ。

「せっかくワタシのチカラを貸してあげたんだもの、もう少し楽しませてもらうわ」


 そんなことを口にしながらも、グィニードは薄々察していた。

 どんな困難が降り掛かろうと、きっと彼らが挫けることはないのだろうと。想いが通じ合った彼らに、もう恐れるものなど何もないのだから。


 異界へと繋がる鏡は、ただ静かに仲睦まじく寄り添う二人の姿を映し続けている――。


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死に戻り令嬢と顔のない執事 本人は至って真面目 @Im_serious_for_me

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