第7話

 去年の夏と比べると八月の電気代が節約できそうだ。

 月鳴館で鹿目さんに勉強を教えはじめて二週目、涼しい部屋で彼女の指先を目で追いながらそう思った。

 正確にはその指で握ったシャープペンシルによって書かれていく計算式と、それが導く答えに誤りがないか否か、手が止まることがないかを注意深く見ている。そうは言っても、間違ったその瞬間に声をかけることはしない。解きながら鹿目さん自身が誤った道を進んでいるのに気がついて、自ら正すのが理想であるし、それができたのなら褒めてあげればいい。最初から最後まで道を踏み外すことなく答えにたどり着けたのならいっそう。


 ぽきん、と。シャープペンシルの芯が折れるとともに彼女が手を止めた。小さな溜息。芯は折れたまま、カチカチカチとされることなく、ころんと投げ出されるシャープペンシル。


「これ、あっている?」


 自信なさげに彼女が訊ねる。折れたのはちょうど問題の答えを記入し終えた時だった。私は「おしいわね」と途中式を指差す。初歩的な計算ミス。


「ねぇ、ハチ先生。どうせならおめかしして来れば?」


 消しゴムをつまみ、それから間違いを消さずに転がして、鹿目さんが言う。集中力が切れた様子だった。


「どうして?」

「わたしが見たいから」

「期待するような、いかにも大学生らしい服装ってあまり持っていないわ」


 春物はある。入学する少し前に購入した、大学一年生女子がこぞって着回すような洋服がいくらか。でも夏になると、周りを気にせずに安価で過ごしやすい服ばかりを選んでいる。二カ月から三カ月に一度、髪色を染め直しているのはその周期がちょうど美容院に行くのと合致するだけで、美容師に勧められるままにしているからというだけだった。


「ハチ先生のデート服、どんなのか知りたいなって」

「デートをしに来ているんじゃない」

「わかっているよ。ねぇ、写真ないの?」

「……利用者の前でスマホの使用は禁止だから」


 勤務初日の面接時に通達された、本当のことである。月鳴館の利用者はスマホやPC、その他の電子端末の持ち込み・使用が制限されている。そしてスタッフも彼女たちの前でそれを扱ってならないのが原則だ。

 たとえばSNSに依存して心を病んでしまった利用者が制限されるのならまだしも、そうではない少女がスマホを取り上げられるのは、精神衛生にマイナスの影響があると予測されるが、鹿目さん曰く「一週間したら慣れた」らしかった。


「そもそも自撮りなんてしなさそう。SNSは何かやっている?」

「前に少し。とくに発信することがないからやめたの。厳密にはアカウントはそのままで、閲覧専門かな。あんまり見てもいないけれどね」

「ハチ先生と繋がりたい人、たくさんいそうだけどなぁ」

「いい意味に聞こえないのだけれど」

「やだなぁ、趣味が同じ人たちと友好な関係を結べそうって話だよ? きわどい自撮り写真をあげれば食いつく人たち大勢いそうとか思っていないよ。ねぇ、趣味ってあるの。施設にいる年下の女の子の面倒を見るのは趣味じゃないでしょ?」

「そうね、強いて言えば映画かな」


 答えながら、この子が学校をやめた原因がネットにあるかどうか考えてみた。SNSでのいわゆる炎上だったり、彼女自身が仄めかした不健全なやりとりだったりが関係しているんだろうか。それにしては、なんてことないふうに話している彼女だ。


「撮るの?」

「え?」

「映画」

「まさか。こっちも観る専門。自分の部屋で小さな画面でね」


 自分で映画を撮影してみたいと思ったことがない。それが一人きりで完結させられて、そうではない作品と遜色ない出来になるなら挑戦してもいい。しかし現実として、それは非常に難しい。そんなの誰だってわかる。


「友達や恋人と感想を言い合ったりは?」

「苦手なのよ。ええと、映画に限らず、本や漫画、それらの感想を誰かに伝える、伝わるようにまとめるのが」


 鹿目さんは、にやっとして「たとえば、わたしがさ」と消しゴムをつまみあげた。


「計算が苦手だって言ったら、どうアドバイスする?」

「それは……。気持ちの面では焦らず、丁寧に。それに問題数をこなすのが大事。必要なら途中式を書くのはもちろんとして、見直す癖をつけるとか」

「ふむふむ」

「でも、そんなに計算が苦手じゃないでしょ?」

「うん。間違えることはあるけどね」


 そう言ってさっきの間違いを消す鹿目さん。遅ればせながら私は彼女の言わんとしていることに気づき、きまりが悪くなる。


「私の苦手もそうやって直せってことね」

「直せだなんて、そんな。ただ、試行回数は多くないんだろうなって。つまりアウトプットの。ハチ先生は映画や本の感想を共有せずに一人で味わい、それで済ます。それが悪いとは思わないよ、わたしは」


 シャープペンシルを使って、計算をやり直し、正しい答えに書き直される。そしてまた彼女はペンも消しゴムもその指から遠ざけた。


「話を戻すけどさ、おしゃれをしてきてほしいな。メイクもろくにしていないでしょ? もったいなくて見ていられないよ」

「TPOを弁えないバイト学生って見られるのは嫌だもの」

「わたしが我儘言ったことにすればいいじゃん」

「今のところ、そのとおりよね」

「うーん……じゃあ、わたしの服を着てみる?」


 妙な提案だ。背格好にさほど差がないから着ることはできそう。


「あなたのファッションセンスの良し悪しはともかく、誰かが袖を通した服を着るのは抵抗があるわ」

「古着屋にぜったいに行かないタイプの人だ」

「まあね」

「わたしのことを汚いって思っている?」

「それはない。――――以前、誰かにそう言われたことが?」


 鹿目さんが鼻で笑う。そしてその長い黒髪を軽く手で梳き「なくもないよ」と言った。


「けどね、先生。もしもイジメを想像しているならそれはハズレ。そういうのはなかった。ううん、わたしの学校にもそれは平然とあったけど、わたしたちはそれとは遠いところで生きようとしていた」


 急に現れた一人称複数の正体を問う前に彼女がそのまま話を続ける。


「むしろ逆。小さい頃は、母親から綺麗ねって事あるごとに言われたの。『可愛い』じゃなくてさ。お母さんは今も昔も綺麗が好き。清潔や潔白、清純って言葉を信条にしている人。それがあって、今のわたしはここにいる」

「それって……」


 鹿目さんの母親は今の彼女を、信条に反する存在だとみなしたから、家にあげずに月鳴館に追いやった。そんな筋書きを私は描き、だとしたら目の前いる少女の「汚れ」はなんだろうと疑問が生まれる。


 彼女は「ちょっと話しすぎちゃったかな」と私から顔を背けた。


 惹かれる横顔だ。世の中には私にとってそうではない横顔のほうが圧倒的に多いのに、この子の横顔には惹かれる。その声と同様に。

 

 改めて彼女の顔に未成熟な美を見出していた。二週目になると、その未完成ながらも際立っている魅力が私のなかでくっきりとしてくる。インプットが完了したのだった。でもその魅力を万の言葉で描写できそうにはない。

 試す気にもなれないのは、諦めているからだ。あるいは共有する相手がいないからだ。彼女の美しさを誰に話すというんだ。家の近所にあるスーパーでレジ打ちしている人や白い大型犬を散歩させている人に話す内容ではないはずだ。


 テーブルに置かれたデジタル時計が、小休憩を予定していた時刻を示している。鹿目さんの私物ではなく部屋に元々あったもので、日付と曜日も表示されていた。


「ここにいても、新しい服は買えるの?」


 私から、大人しく話題を元に戻す。

 野々井さんからのお願いが頭にちらついたが、今ここで鹿目祀梨の心をこじ開けようとするのは痛手を負う結果になるだろうなと思った。


「まずわたしが自由に使えるお金はないんだよ、先生」


 露骨に残念そうな声で彼女が言う。


「月鳴館の収容者のみが使える通貨があったら面白いのにね。何か仕事をこなす毎に溜まってさ、欲しいものと交換できる。お菓子や紅茶、服や鞄、アクセサリや宝石。そうやって他の人たちと差をつけていくの。それでほら、気づけば塀の中でお姫様になっている。ねぇ、こういう映画もあるかな?」


 私は「たぶん」と返す。具体的な作品名に心当たりがなくても、あるだろうと本気で思う。小説ほどでなくても、膨大な数があるのだから大抵のシチュエーションはあると信じている。


「そうだ、こういうのはどうかな」


 明朗な声をあげた彼女はその顔を私に近づけた。


「テストでいい点数をとると、わたしはハチ先生にお願いができる。それを先生は叶えないといけない」


 彼女の囁き声はその吐息が耳に当たらずとも、どこかくすぐったい。秘密のお願いは色気があって、私をくすぐっているのだ。

 だからといって、それを易々と受け入れるほどに前後不覚な私ではない。


「そんな契約結ぶわけないでしょう?」

「待ってよ、最後まで聞いて。逆にわたしがミスをするたびにね、お仕置きポイントが溜まっていくの。ハチ先生はそれを使ってわたしに好きなお仕置きをしていいんだよ。どう? すごくそそられるよね?」

「そうね、私が健全な男子高校生だったら生唾を飲み込んでいるシーンね。でも、私があなたに今感じているのは、どちらかと言えば負の感情よ」

「軽蔑したってこと?」

「早い話ね。あのね、もしもお願いというのが、ちょっとしたお菓子や漫画の差し入れぐらいだったらいいわよ。他のスタッフに隠れて持参してあげても。それであなたの学習のモチベーションに繋がるならお安い御用だわ」

「でも、ハチ先生はわたしが口にした『お願い』にそういう安っぽさを感じなかった?」


 私は首を縦と横のどちらに振るか迷った。言われて気づいた。たしかに私は彼女の「お願い」に妖しさを感じ取って、背徳的な想像すらしていた。野々井さんや多香子さんのせいだ。きっとそうに違いない。


「ふふっ」

「なによ」

「意外と顔に出るんだなぁって。ハチ先生、赤くなっている」

「あなたねぇ――――」

「いいかげん、ロクって呼んでよ。あ、祀梨って呼ぶのはなしね。特別な間柄の人にしか呼ばせないって決めているの」


 そう言われて思いつくのは恋人。

 性格に多少の難があっても同級生が放っておかない容姿だ。この子は過去にどれだけどういった人と付き合ったんだろう。彼女を名で呼び、その横顔や声とは違って普段は晒されることのない彼女の部位や一面に触れたのは何人いたのか。


「あれ? ハチ先生……わたしの特別になりたいの?」


 私の瞳を覗き込んで彼女は。 


「教えておくわね。こんな狭い部屋で世界の中心のような顔している子に、私が抱く感情は冷ややかなものよ」

「でもさ、温度に下限はあるよね」


 私の突き放すような態度に、彼女はまったく堪えていない素振りで返してくるのだった。

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