第8話

 お盆期間に入って月鳴館にいる常駐スタッフの数も減ったと鹿目さんが話した。利用者の中には家族の元に一時的に帰省している人もいるとかいないとか。

 私が立ち入るのはエントランスと廊下を除けば専ら鹿目さんの部屋なので、利用者の出入り状況は把握していない。

 たとえば野々井さんに訊いたとしても情報保護の観点から話してもらえない気がする。あの人は素直で、基本的なルールは遵守するに違いない。あくまで私は鹿目さんに勉強を教え、そして野々井さんの個人的な依頼を進めている人間に過ぎないのだ。後者の進捗が芳しくないのは事実だけれど。


「スタッフや他の利用者と日常的に関わっている?」

 

 勉強の合間に私は鹿目さんに訊いてみることにした。


「え、今更?」

「どうなの」

「んー? ないよ。最近のわたしはハチ先生だけのもの」

「へぇ」

「炭酸が抜けたコーラでも、もっとまともな返事するよ」


 今日は一段と薄着の鹿目さんが緩い胸元から素肌をちらつかせながら、そう言った。異性のいない環境で生活し続けると、こういう部分が無頓着になると聞いたことがある。この子の場合は月鳴館に来る前からなんだろうか。

 

 ふと、思い出されるのは高校のときの体育の着替え。男女に別れて着替えていたが、同性の前で肌や下着を晒すのを恥じらう子もいたっけ。丸裸になるわけでもないのに。無論、何一つ気にせずにさっさと着替える子も多くいて、この両者の差異は何を起因にしているんだろう。わかりやすいのは自分の身体に対するコンプレックスの有無、程度の違いだ。クラスで一番美人だった子の胸元にキスマークが発見されたときは姦しくなったものだ。付き合っていたのは男子バスケ部に所属している上級生。周囲からの嫉妬がかなりあったと、完全に外野の私の耳にまで届いた。


 当の私は着替えについてはなんとも思っていなかった。誰も見ず、誰にも見られずだ。あともう少し胸が大きければ変わっていたのかな。もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら世界の歴史的局面も変わっていた、そんなふうに記したのはパスカルだったか。


「食事は利用者専用の食堂でとっているのよね。そこで誰かと話さないの?」

「食堂のおばちゃんとか? ないない。あの人たちはわたしたちと下手に会話しちゃダメって言われているみたい。それを規則ととるか配慮ととるかは任せるよ」

「他の利用者とは?」

「時々ふらーっと現れる綺麗な人がいて、話しかけてみようかと思ったこともあったの。でもね、遠目で観察していたらその人、めちゃくちゃ食べ方汚くて。マナーどうこうの問題じゃないんだよ? あー、これは頭がイッちゃっているんだなぁってわかるやつ」


 ぐちゃぐちゃだった、と鹿目さんがそれらしいジェスチャーをする。


「精神状態もそうだけど、やっぱりどうしても出るもんなんだなって」

「なにが」

「育ちってのが、いろんな所作にさ。食べ方だけじゃなくて、話し方や歩き方、それに身なりにも。それを言うと、ハチ先生の第一印象ってどこかの令嬢、ううん、よくできたメイドって感じだった」

「それ、褒めているわけ」

「お嬢様のほうがよかった?」


 私は「べつに」と肩を竦める。 

 生まれてこの方、お嬢様と言われたことはない。それと同じく、メイドと表現されたこともなかった。


「ねぇ、試しにわたしをお嬢様って呼んでほしいな。まだロクって呼んでくれないし。なにをそんなに意地を張っているかわかんないけどさ」


 最初の一回。それを逃すと、なんだかうまく呼べずにズルズルと今日まできている。子供じみた意地だとは自分でも思う。所詮、この子と四歳しか違わない私だ。いったい私とこの子の間で人生経験にどれほどの違いがあるんだろう?


「もっとお嬢様らしい立ち居振る舞いをするなら、呼んであげてもいいわ。顔立ちだけなら、それっぽいから」

「え、ほんと? いやぁ、照れるなぁ。気品出ちゃってたんだね」


 けらけらと笑う様子は品位に欠けていた。


「さあね。せめて私といるときは、きちんとした恰好をしてほしいわ」

「最初に会った時は素っ裸でもいいって言っていたじゃん」


 そう言えばそうだ。


「あれあれ? もしかして今になって目のやり場に困っちゃっている?」


 何がおかしいのか、鹿目さんはくねくねと体をよじらせる。


「自分でも不思議。居心地が悪いのよ。つまり……無防備なあなたといるのが。ふとした拍子に傷つけちゃうんじゃないか、そんなことを考えてしまう」


 鹿目さんが体の動きを止め、私をじっと見つめてくる。

 思いのほか暗いトーンで不可解なことを口にしてしまった。それを私は省みて「なんでもない、忘れて」と笑ってみせた。けれど、彼女は「それ、無理」とすぐに返してきた。


「ハチ先生って無防備な誰かを傷つけたことがあるの?」

「いや……ない、はず。どうだろう」


 少なくとも多香子さんのように、行く先々で女性の心の隙間を言葉巧みに埋めて、身体を重ねたことなど一度もない。


「んー? あれじゃない? 封印していた記憶が漏れ出たやつ」


 鹿目さんが彼女自身の頭をがしっと掴んで、笑う。さっきとはまた別の笑い方。多香子さんみたいな貼りつけられた笑顔じゃない。自然だ。それで私もつられて「そういうのじゃないわよ」と口元を緩めた。


「ようするに私が言いたかったのは、関係性の問題」

「詳しく」

「私は先生で、あなたは生徒。あなたがいつまでもそんな恰好をしていたら、毎回、先生らしさのある服装を心掛けている私が馬鹿みたいでしょ?」

「だーかーらー、べつにおしゃれしてくればいいじゃん。可愛い系でも綺麗系でも、カッコイイのでも」

「自慢じゃないけれど、私はガーリッシュとガーリックを勘違いするような女なのよ。ミニスカートを履く人間の気持ちがわからない生き物なの」


 また隙をみせてしまった。

 私の告白に鹿目さんがあくどい笑みを浮かべて、私はそう思った。自滅だと言えば、そのとおりだけれど、普段の私なら自分自身のことをこうもあっさり吐露しない。そもそも話す人がいないし。


「じゃあ、もしかして先生ってその下、毛むくじゃら?」

 

 鹿目さんが半笑いで私の脚を指差す。ファッションとムダ毛処理はまた別だ。「剃っているわよ」と答えると、彼女は椅子の上で片膝を立てて「わたしはね……」とそのつるつるとした表面に指を這わせた。


「ここに来てからしばらくそのままにしていたの。ありのまま。レットイットビー、それともレットイットゴー? 伸びたきゃ伸びればってね。脚だけじゃなくて脇だったりうなじだったり、全部。小中学生のときはそんな気になるほど目立たなかったんだから。それにここじゃ、わざわざ言ってくる人なんていない。不自然に綺麗で在り続けるのを強いる人はいない」


 彼女の脚。丹念に処理されている。陶器のようだ、と月並みな喩えが頭をよぎる。でも彼女の脚は骨と肉がつき、それに血だって通っているのはわかる。そしてだからこそ、妙な色気があるのだった。


「でも、剃ることにしたのよね」

「そう。結局さ、少しずつ、本当に少しずつでもね、これまでの自分が拒んでいた『自然』が纏わりつくのに耐えられなくなったんだ。シミ一つ、ニキビ一つ。枝毛一本。許容範囲はあるけど、それはとても小さくて狭い」


 鹿目さんが立てる膝を変える。両方を立てることはしない。彼女の内腿の白さを直にはっきりと知るのは道徳的にまずい気がしたが手遅れだった。


「わたしなりにまとめると、鹿目祀梨はまだ少女でいたいんだーって。わかってしまったの。穢れを知らない少女ってやつ。これって一種の感傷?」

「老いに悲観するティーンエイジャーってだけ」

「ハチ先生にもそんな時期あった?」

「というより現在進行形。大人になりたい気持ちとなりたくない気持ちは、誰もが抱く心情だもの。おかしくない」

「わお。学校の先生っぽい、お言葉」


 彼女は膝を元の位置に戻す。

 小休憩、取り過ぎちゃったな。私は彼女に勉強の再開を促す。今日の午前中は苦手な英語だ。不規則な活用をする過去形に対する文句を、もう十回は聞いた。


「最後にひとつだけ」


 ペンを持った鹿目さんが、事情聴取の終わりに探偵役の刑事が口にするような台詞を発した。


「無垢を望むのは無垢でない者だけ。誰の言葉かわかる?」

「知らないわ」

「どこかの誰かが言った」

「今、思いついたってこと?」


 かぶりを振って鹿目さんは勉強を再開する。

 彼女の透明な声が私の頭の中で柔らかく響き続けるのだった。




 お盆期間中に、多香子さんから電話があってお盆明けの日曜日に昼食を二人でとることになった。彼女はまた私が暮らす地域に立ち寄る機会ができたのだという。

 別段、彼女と話したくはなかったが「いいとこのランチ」に釣られた。近頃は、似たり寄ったりのメニューしか食べていなかったこともあり、食の面で刺激が欲しくなっていたのだ。


「焼肉のほうがよかったかしら」


 丸い皿に芸術的に配置された夏野菜のソテーを私が機械的に時間をかけて食べていると、多香子さんが訊いてきた。


「お肉食べたい気分ではなかったので」

「そう。じゃあ、また今度ね。どう? 美味しい?」

「ええ、美味しいですよ。とても。野菜の旨味が利いています」

「野菜だもの」


 くすりともせず、でも見事な笑顔で多香子さんが指摘してくる。私は聞こえないふりをして炭酸水を飲んだ。舌触りからして、硬度が高い。


 街から離れた、海辺近くのオーガニックレストラン。

 多香子さんはレンタカーで私をそこまで連れてきたのだった。オーガニックと言われても、健康志向が無駄に強い女性で支えられているジャンル、という偏見がある私だった。雰囲気はいい。比較対象が少ないので絶対評価。磯の香りがするほどではないが、なんていうか爽やかな風が外を通っている気がする。流れている音楽もそういう趣がある。


「姉さんはピーマンが苦手だったのよ」


 訊いてもいないのに多香子さんが話し始めた。今日の彼女は私服姿で、黒のリブニットに濃いグリーンのロングスカート。ちなみに私は飾り気のないワンピース。


「……多香子さんが物心ついた頃って、母は高校生ですよね。そのときもまだ苦手だったってことですか」

「そういうこと。それで、幼い私が食べているのを見て、食べないとってなったの。よくある話だけれど素敵でしょう?」

「実際には親から言われたんじゃないですか。お姉ちゃんなんだからって」

「そうかもしれないわ。でも大切なのは私の行動によって姉さんが苦手を克服できたという事実にあるのよ」


 ああ、苦手だ。そう感じた。

 母のことを、とくに私を産むより前のことを話すときの多香子さんの声は濁っている。もちろん、それは私の思い込みであって他の人からすれば、いつもどおりの聞き取りやすく心地いい声なのだろう。けれど、私からすればその声は不透明だった。靄がかかっていた。ちょうど、鹿目さんとは反対に。

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