第6話

 月鳴館で鹿目さんに勉強を教え始めて一週間が経った。

 午後三時過ぎ、彼女の部屋から出て連日どおりに涼しいエントランスにて送迎バスの到着を待つ……ことはせず、野々井さんの運転する軽自動車に乗り込む。経過報告を、という話になっていたのだ。

 

 彼女は「運転に集中したいので」と車内であんまり話したがらなかった。私は一言断って、イヤホンで音楽を聴きながら目的地への到着を待つことにする。ほどなくしてやってきたのは麓にあるカフェで、道を挟んだところに駐車場があった。店の外観としては、同じ通りに並ぶ建物のうちでは比較的新しい。でも、立地からするとそんなに客入りが見込めない気がするのは余計なお世話だろうか。


 果たして店内はがらんとしていた。

 入ってすぐに、眼鏡をかけた細身の四十代と思しき男性が「いらっしゃい」と野々井さんに微笑みかけてくる。マスターだろうか。その穏やかな表情は自然と私にも向けられ、ひとまず会釈しておいた。

 カウンター席を案内してくれたが、野々井さんが「二人で話したいことがあって……」とぼそぼそと返すと「そっか」と表情を変えぬまま、奥のほうにあるテーブル席を示してくれた。


「アイスティーでいいですか?」


 移動する前に野々井さんがそう訊いてきて、私が肯くと彼女は「アイスティー二つお願いします」と眼鏡の彼に言った。

 

「ここにはよく来るんですか」

 

 丸いテーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けてから私は訊ねた。


「今の仕事を始めてからはわりと。街まで出るのが億劫な休みの日なんかに。あまり大きな声で言えませんが、いつも空いているのが、人ごみが苦手な私にはありがたいんです」


 気持ちはわかる。この口ぶりだと、あの男性店員が暇つぶしがてら野々井さんに話しかけてくる展開もないのだろう。


「以前は別のお仕事を?」

「ええ。専門学校を卒業してから三年ほど看護師をしていたんです。でも……人間関係に疲れてやめちゃって。よくある話です。今となっては私なんかがよく三年ももったなぁって。す、すみません。こんな話」

「月鳴館にはどういう縁で?」


 求人が出されていても、あの土地柄と業務内容からすると率先して応募したいとはあまり思えない。それとも「人間関係に悩むことナシ!」みたいな宣伝でも書いてあったんだろうか。


「次のあてがないまま退職して半月経った頃に、高校の時の先生とばったり会ったんです。あ、私はここが地元で。月鳴館に就職してからは一人暮らししていますが」


 早々にアイスティーが運ばれてくる。

 他に店員はいないのか、私たちを出迎えてくれた男性がそのまま給仕し「ごゆっくり」と体格にそぐわぬ渋い声を残して去った。


「えっと、それでその先生の知人が月鳴館に勤めている方で、よかったらどうって勧めてくれてっていう流れです。その時点では宗教とかそういうの知らなかったんですけど。先生は仏教徒ですし」

「へぇ……」


 高校の恩師からの紹介。そんなふうに仕事が決まることもあるんだな。私が思い返してみても、高校の先生の顔と名前は既にほとんどが一致しない。担任の苗字は思い出せても、名前なんだっけ。


「でも、そのときはあの子が来るとは思いませんでした。というより、あんなことが起こるなんて」

「えっ?」


 野々井さんの声色にそれまでにない暗さが宿って、私は聞き返してしまった。


「な、なんでもないです。いえ、ありますが、今はまだ、その……。すみません」


 謝られても困る。こんなときにコミュ力強者は彼女の心にうまく踏み込み、ささくれを容易く取り除けもするんだろうか。


「最近の鹿目さんの話が聞きたいです。勉強は順調ですか?」

「英語と歴史以外は。認定試験、マークシート方式のテストなのが幸いです。長めの和訳や英作文までできるようにさせるってなると、大変ですから」

「そうなんですね。お恥ずかしい話、私も英語ってすごく苦手で」

「いやいや、私だってネイティブとごく普通に話せるレベルなんかじゃないですって。TOEICだってそんなに……」


 そもそも日本語での対人コミュニケーションに長けていないのである。同年代の子たちと流行のファッションや映画、コスメや色恋、そうした話題をしようとしたら置き去りどころか、完膚なきまで叩きのめされ、ぺしゃんこになってから埋葬されそうだ。そんな被害妄想をこじらせてもいる。


「勉強以外で困ったことはありますか?」

「ええと、こう言ってはなんですが、症状らしい症状がないので助かっています。もっとも私からするとどこからが病気と呼べるかの線引きってできないですけれど」

「みなさん、そうですよ」


 野々井さんが苦笑した。その三人称複数はスタッフ側なのか利用者側なのか、全員をひっくるめてなのか定かでない。


「前にも話したとおり、なかには明らかに病的な子がいます。でも、その子だって病的であって、すっかり病んでしまっていると言い難いんです。もとより、月鳴館は治療や更生目的の施設ではないんでしょうね」


 投げやり。

 他人事みたいに言ってのけた野々井さんの顔から感情がうまく読み取れなかった。入り混じっている。それを一語で形容できない。


「月鳴館は……社会から弾き出された若い女性の避難場所と考えても?」


 少し迷ったけれど、踏み込むことにした。

 自分が働いている場所なのだから、その存在意義、いや、そこまで堅苦しくなくても、在り方をいつまでも曖昧にしておくのはもどかしかった。

 野々井さんは口をもごもごとさせる代わりに、アイスティーを飲むと、哀しげな眼差しを向けてきた。


「彼女たちがいつまでもあそこにいられないのは確かです」


 それは私が期待した返答ではなかったけれど、いつどんな時でも必ず問いと答えが寸分の狂いなく合わさる世界に生きていないのは承知していた。「いずれにしても、ですね」と彼女は話をまとめ直そうとする。


「何か鹿目さんに変化があれば教えてください」

「というのは?」

「彼女が積極的に過去を語りはじめたのなら、それに耳を傾けてあげてください。そしてどうかそれを私にも教えてください」

「でもそれは――――」


 鹿目さんが望むとは思えない。

 むしろ許してくれないんじゃないかな。あの子はこの一週間で私を相手に、その心の深い部分を見せてくれなどいないが、もしも今後見せてくれることがあれば、それを野々井さんに共有するのは不誠実な気がする。


「一言一句違わずにじゃなくていいんです。大まかにでかまいません。どうかお願いします」


 どうしてそんなに必死なんですか。なのに、どうしてあなた自身が彼女と対話しないんですか。私は対価として何か受け取ることができるんですか。

 私はすべてを飲み込み、ついでにアイスティーを啜った。冷たく、薄く、後味の引かないアイスティーだった。

 

 きっとこの人はあの子の髪の手触りを知らない。

 ふとそう思った。


 結局、私は「善処します」とのみ返事をよこした。




「あの、ここからは鹿目さんとは無関係の話なのですが」


 野々井さんがそう前置きをする頃には、彼女のグラスからアイスティーがなくなろうとしていた。それはあたかもこれからしようとしている話を切り出すための、舌を回す燃料として欲していたふうだった。


「八尾さんは、鷲沢さんの連絡先を知っているんですよね?」


 私は咄嗟に「いいえ」と嘘をつきそうになったのを堪えた。でも、表情としては不快感が出てしまったのだろう、野々井さんは「いえ、あの、そのぉ」と口をもごもごとさせはじめ、視線を泳がせた。


「あの人の姪として言わせてもらうと」


 私は小さくなった氷の一つを口に含んで、噛み砕く。


を期待するのはやめたほうがいいです」

「っ! ち、ちがいますから!」


 鹿目さんの話をしていたときとは、うってかわって感情を剥き出しにする野々井さんだった。


「私は鷲沢さんと体だけの関係になりたいんじゃないんです。たとえもう二度と抱かれなくても、私はもっとあの人と話してみたくて」

「どうしてもって言うなら連絡先を教えることはできます」

「わ、鷲沢さんに恋人はいるんですか?」

「たぶんいないです。あの人はずっと片思い中ですから」

「そう、でしたか……」


 つらそうな顔をする野々井さん。人を好きになるのに一夜は充分な時間なようだ。だからといって想い人の姪、年下の大学生に頼み込むのはどうなんだ。


「片思い相手の素性を、八尾さんは知っているんですか」


 誤魔化したら答えるまで何度も機会を作って訊いてきそう。私はげんなりしつつ、知っている範囲で教えてあげることにした。


「私の母です」

「へ?」

「相手は私の母なんです。叔母にとっては実姉の」

「そんな、でも……」

「年の差があったせいか、子供の頃から姉妹って感じではなかったそうです。それで、なんていうか、こじらせちゃって」

「で、でもっ。八尾さんのお母様はご結婚なされて、旦那さんがいて、八尾さんを産んで、今だって幸せな家庭を――」

「幸せの定義は人それぞれですが」


 焦ってしどろもどろになりつつある、野々井さんの話を遮る。

 同性相手に恋をするのは彼女にとって現実であっても、近親相手の恋となるとそれはまだフィクションの域を出ていない素振りだった。

 そんな彼女に私は絶望あるいは一縷の希望を突きつける。


「一人娘の大学進学を目前に事故死するのは不幸じゃないですか?」


 野々井さんがはっと息を呑む。それからテーブル上でぐっと握っていた右の拳を開き、その掌で私を示して「一人娘?」と確認してきたので、私は「はい」と応じた。


「つまり、その、八尾さんのお母様は亡くなっているんですか」

「そうです。けれど野々井さんが聞きたいのは、叔母が今でも死人に想い続けているか否かですよね? べつに私の母には興味がない」


 海鼠でも踏んだかのような顔をする野々井さん。

 ちょっと意地悪だったかもしれない。とはいえ、私の母がどんな人物だったかを根掘り葉掘り聞かれるのは勘弁してほしかった。ましてやそれを「参考」にして、多香子さんと二度目の逢瀬を企むような人間であるのなら……ううん、この人はそんな肝の据わった人ではないと思う。現に今、次の言葉を探すのに必死になっている。


「脈、ないですか? 私と鷲沢さん」


 静けさに甘えて、近頃よく聴いている曲の一部を頭の中でリフレインしていると、野々井さんが泣きそうな声を漏らした。


「ええと……そういうの、私に訊かれても。連絡先は教えるので、ご自身でかたをつけてもらえると助かります」


 いよいよ目元を抑え始めた野々井さんを私は眺めるしかなかった。

 生きている人間同士ならまだ脈がありますよ、文字通り。そんなことを言ってみてもどうにもならないとわかっていた。

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