夏の近づく晴れやかな空に、綿をちぎったような雲が点々と浮かんでいた。

 そのうちのひとつを、鈴音は視界の端からぼんやりと目で追っていく。ちょうど真ん中に来た辺りで、ふと眠気が込み上げてきた。近くに人がいないのを確認してから、大口を開けてあくびをする。

(のどかだなあ……)

 穏やかな風がふわりと頬を撫で、小鳥のさえずりが耳をくすぐった。短い草の生えた地面に両足を投げ出して、木の幹に背中を預けたままぼんやりしていると、あまりの心地よさにうっかりまぶたを閉じそうになる。

(駄目だ、このままだと寝てしまいそう)

 庭の片隅で眠っているところを誰かに見られでもしたら、何を言われるかわかったものではない。時継や小景には笑われるだろうし、閃には馬鹿にされるだろう。光繁だったら最悪だ。

 そう理解しているにも関わらず、それでもいいか、などと考えてしまうのだから睡魔というものは恐ろしい。

(よくない、よくない)

 鈴音は両手で軽く頬を叩き、眠気を振り払うように立ち上がった。何度か身体をひねったあとで、大きく伸びをしてからほっと息をつく。

 館の庭園はいつ見てもため息が出るほど美しい。緑が濃くなり始める今の季節は、さらにその壮麗さが増す。丁寧に整えられた低木。力強く枝を湾曲させた木々たち。苔生した岩に囲われた大池には、幾重にも重なった草木の色が映り込み、朱色の橋が彩りを添えるように架けられている。

 池の向こうに見える館では今、庭に面した広間の簾がすべて降ろされていた。中で会合が開かれているからだ。

 南方にある草渦の国と小規模な戦をおこなうようで、そのための集まりらしい。鈴音も参戦させて欲しいと光繁に主張してみたが、半ば予想していた通り、彼には鼻で笑われただけだった。

 話し合いの内容が気になるけれど、以前のように聞き耳を立てたところで、すぐにまた見破られるに違いない。そう思い、今回は渋々ながらも大人しくしている。

 辺りの景色を楽しみながら歩みを進めていき、やがて池に架かる橋を越えた頃。ようやく広間の簾が上がった。ぞろぞろと人々が出てきたあとで、姿を現したのは時継と閃だ。

「よお、鈴音じゃねえか。何してんだ」

 野太い声に名前を呼ばれて、鈴音は彼らに駆け寄っていく。

「お疲れさま。別に用があったわけじゃないの、暇だったからぶらぶらしてただけ。ところで、話し合いはどうだった? 次の戦は大変そう?」

「いやあ、正直楽勝だと思うぞ。ぱっといって、ちゃっちゃと片づけてくるさ」

 余裕の態度で言い切った時継の隣で、閃が険しい顔になる。

「あまり油断をなさらないでください、時継さま。湯白との先の戦をお忘れなく」

「わかってらあ、真面目な奴め。そんなわけでまあ、ちょっくら閃と素振りでもしてくるわ。万が一でも負けることのないようにな」

 苦笑いを浮かべる時継を見上げながら、鈴音は少しばかり不安になった。半月前、辛くも引き分けたという湯白との戦があったときにも、時継が楽勝だろうと大口を叩いていたのを思い出したのだ。

 戦では何が起こるかわからない。神と交信をおこなうことのできる事読みでさえ、はっきりとした予測をするのは難しいのだから。もしも、万が一でも、目の前にいる彼らが出陣したきり帰ってこなかったらと思うと――。

 暗い考えを心の隅に追いやって、鈴音は口の端を上げた。

「そっか。いってらっしゃい」

 大柄な時継と小柄な閃が並んで去っていくのを見送ったあとも、鈴音はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 簾の上がった室内では、まだ数人が残って話し合いを続けていた。遠目だが小景の姿もある。解散するまでにはまだ数刻かかるだろう。

 皆が次の戦の準備で忙しそうにしている中で、自分だけが暇を持て余している。なんだか悪いことをしているようで居たたまれなかった。何か、できることを探さなければ。でも何をすればいい?

 じわじわとした焦りを感じていた鈴音に、遠くから明るい声がかかる。

「あ、いた! 鈴音、ちょっとちょっと!」

 瞬きのあとで首をめぐらせると、山吹色の衣をまとった細身の女が、こちらに手を振りながら駆けてくるところだった。きりりとした眉に、二重まぶたの大きな目。両膝に手をつきながら息を整えている彼女に向かって、鈴音は驚きつつも問いかける。

「どうしたの、たえさん。わたしに用?」

 ようやく呼吸を落ち着かせた妙が、姿勢を戻してから口をひらいた。

「今から町までいかないとならなくなってね。鈴音にもついてきて欲しいんだ」

「いいけど、何をしに?」

「ほら、もうすぐ〈降神祭〉があるだろ。町では準備がどんどん進んでて、大層な賑わいなんだって。その話を聞いた志穂しほさまがさ、自分の代わりに見物してきて欲しいっておっしゃって」

 志穂というのは、光繁の正妻の名だ。妙は侍女として志穂に仕えており、好奇心旺盛な主人からよく頼みごとを受けている。

 国長の妻ともなれば、簡単に町へ出ることは叶わない。だから志穂は妙を代わりに向かわせて、土産話だけでも楽しみたいと考えたのだろう。

「わたしだけの感想だと、満足していただけるかわからないからね。一緒に来て、面白い話を集める手伝いをしておくれよ」

 鈴音は表情を明るくした。祭の準備で賑やかな町。想像しただけでも楽しそうだ。

「うん、いきたい!」

 待ってましたとばかりに頷いてから、妙がにっこりと笑った。


       *


 緋浦の館から道なりに少し坂を下ると、庶民が暮らしている町にたどり着く。

 昼中の町は、鈴音が想像していた以上に賑わっていた。中央に位置する四つ辻には壁のない掘っ立ての店がいくつも建てられていて、少しでも多くの通行人を呼び入れようと、売り子が競って声を張り上げている。

 売られているのは山菜から日用品まで様々だ。足を止めた客は売り子と朗らかに言葉を交わし、商品を小銭や別の物と交換してから、満足そうに店を去っていく。

 地面からもうもうと上がる砂ぼこりのせいで視界が煙たいが、行き交う者たちの表情に憂いは一切見られない。〈降神祭〉まであと数ヶ月。誰もが心を弾ませ、口をひらけば祭の話題で盛り上がっていた。日が近づけばますます賑やかさが増すことだろう。

「……小景にも見せてあげたいな」

 人の溢れる町並みを眺めているうちに、鈴音の口からぽつりと言葉がもれた。隣を歩いていた妙が深々とうなずきを返す。

「本当にね。あの子もまだ十二歳なんだ。もっと色んなものを見て、色んなものに触れて欲しいよ。大事なお役目のためだってのはわかってるんだけどさ」

 人外の力を得る代わりに、神器のそばから離れられなくなるのが事読みの定めだ。

 十にも満たない歳で能力を引き継いだ小景は、緋浦の館内以外のことをほとんど知らない。

 ふたりが歩いていたすぐ近くを、数人の幼子たちが笑いながら駆けていく。無邪気なその姿を見送ってから、妙は少し寂しげな笑みを浮べた。

「千織さま――小景のお母さまが亡くなって、すぐにあの子の瞳が青く変化したときは驚いたもんだ。事読みって本当に不思議なんだなって。でもさ、自由と引き替えっていうのはあんまり納得いかないな。……なんて言ったら罰当たりかもしれないけど」

 誤魔化すように言葉をつけ足す妙を見て、鈴音は静かに首を振った。

「わたしもそう思うわ。だけど小景は、自分の定めをちゃんと受け入れて、前に進もうとしているから。あの子の信じる道を信じて、そばで支えてあげるのがわたしの役目だとも思ってる」

 光繁もそうなることを期待して、歳の近い鈴音に遊び相手を任せたはずだ。それに、役目などなくても小景のことは放っておけなかった。頑張り過ぎてよく落ち込んだり、なんでも内に溜め込む性格をしているから。

 妙はわずかに目を丸くしたあとで、穏やかに微笑んだ。

「小景のそばに、鈴音がいてくれてよかったよ」

 面と向かって褒められるとなんだか照れくさい。鈴音はうつむいて頬を染めた。単純かもしれないが、緋浦にいてもいいと言われたようで嬉しくなってしまう。

 その後もたわいない雑談を交わしながら歩いていたところで、妙がふいに通りの先を指差した。

「ね、あれ見てよ。食べ物を売ってるみたい」

 顔を向けると、何軒が先の店の前にちょっとした人だかりができているのが見えた。気になって近づくにつれ、何かが焼ける香ばしいにおいが漂ってくる。

 食欲をそそられて集まっている野次馬たちのあいだを抜けて、鈴音と妙は人だかりの先頭にたどり着いた。網の乗った壺型の炉で炙られているのは、串に刺さった餅のようだ。鈴音が目を奪われているうちに、横から進み出た妙が売り子の女に近づいていく。

「ほら、買ってきたよ。『龍神もちもち』って名前なんだって」

 戻ってきた妙から差し出された串餅を、礼を言いつつ受け取ってまじまじと見た。

 細長い棒状の生地を蛇腹に折って竹串に刺したもので、ところどころに焦げがついている。先端だけは少し膨らんでおり、飾りのつもりなのか笹の葉が一枚、鶏冠のように揺れていた。

「『龍神もちもち』? もしかして、龍神さまの姿を真似しているのかしら」

「その通り!」

 何気ない発言に返事があったことに驚いて、鈴音は危うく串餅を落としかけた。

 いつの間にか、すぐそばにひとりの老人が立っている。彼はしわに埋もれそうな目をかっと見ひらきながら、堂々たる口調で言った。

「まさしくそれが、龍神さまのお姿よ。わしは昔、この目でしかと見たのじゃ。空を割って天上より降臨なされた、光輝く龍神さまをな!」

 声の大きさに圧倒されて瞬きを繰り返しているうちに、売り子が慌てて止めに入る。

「おじいちゃんったら、恥ずかしいから大声出さないで! ……ごめんなさい。うちのおじいちゃん、もともと湯白の国にいた人でね。五十年前の〈降神祭〉に立ち会ってたことを誰彼かまわず自慢して回るのが好きなのよ」

「へえ、そりゃすごいね」

 素直に感心して相づちを打つ妙に、老人が誇らしげに胸を張った。

「あのときの光景は、今でも鮮明に覚えておる。あまりの神々しさに、見ていた者は皆ぴくりとも身体が動かなくなってのう」

 さらに語り続けようとする彼を、呆れた様子で売り子が店の奥に押し込んでいく。

「はいはいわかったから。じゃあお客さんたち、ごゆっくり。笹の葉は食べられないから取ってちょうだいね」

 どたばたと離れていくふたりに苦笑してから、鈴音は言われた通りに笹の葉を引き抜いた。まだ湯気の立つ餅をひと口頬張る。名前のごとくもちもちとした食感を楽しんでいる隣で、妙が複雑な顔をしてつぶやいた。

「龍神さまを食べるなんて、なんだか畏れ多い気もするなあ」

「あはは、それは確かに……」

 でも、これで面白い土産話ができそうだ。志穂もきっと満足してくれるに違いない。

 焦げた部分の苦みを味わいながら、鈴音は賑わう町並みに視線を移した。

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