そそり立つ山のような雲が浮かぶ空を、小鳥が軽やかにさえずりながら横切った。

 つられて顔を上げた鈴音の前に、横から小さな手が伸びてくる。かと思うとそのまま容赦ない力で頬が引っ張られた。

「ふぐぐ。いひゃいいひゃい」

「これ、喜与丸きよまる。鈴音をいじめてはなりませんよ」

 すぐさま気品のある声が飛んできたが、鈴音の肩につかまり立ちをしている犯人は、けらけらと無邪気に笑うばかりだ。鮮やかな赤の衣をまとう幼子は、まだ三歳の悪戯盛り。こうして彼に頬をつねられるのにも慣れている。

 されるがままになっていた鈴音のそばで、何枚も着物を重ねている若い女が、口もとを手で隠してくすりと微笑んだ。

「この子ったら、本当に鈴音のことが好きね」

 彼女は光繁の妻であり、名を志穂という。いつも険しい顔ばかりしている夫とは違い、常に穏やかな笑みを浮かべている人だ。隣では彼女の侍女である妙が、主人のために扇で柔らかな風を送っている。

 志穂は身分や年の差にあまりこだわりがないらしく、鈴音が暇をしているときなどに、よく息子の喜与丸と遊ばせてくれる。鈴音も彼女のそばにいるのが好きだった。歳は十ほど離れているけれど、一緒にいると優しい雰囲気に包まれているようで、いつも心が安らぐのだ。

「それにしても、近ごろめっきり暑くなったこと。じっとしているだけでも身体が溶けてしまいそう」

 言いながら小さく息をついた志穂が、おもむろに視線を外へ向ける。

 縁側の向こうに見える庭ではもやもやと陽炎が揺れ、蝉の鳴き声がうるさいくらい響いていた。日差しの当たらない板間にいても、ちっとも涼しく感じない。

 気怠げな空気が漂う中で、喜与丸だけが楽しそうに動き回っていた。扇を動かす手をゆるめないまま、妙が感心したように言う。

「元気ですねえ、喜与丸さま。頼もしいことです」

「夏生まれだからかしら、暑さには強いみたい。わたくしも夏は嫌いではないけれど、それにしてもね。早く次の季節が訪れて欲しいものだわ」

 母親の憂いの声などお構いなしに、喜与丸が勢いをつけて縁側に突進していく。それを慌てて引き寄せてから、鈴音は志穂のほうへ向き直った。

「夏が終わったら、すぐに〈降神祭〉ですよね。実はわたし、すごく楽しみにしてるんです。このあいだ町でおじいさんに聞いた通りなら、きっと不思議な光景が見られるんだろうなって」

 弾んだ鈴音の声に、すかさず妙が相づちを打つ。

「ああ、わかる。本当に『龍神もちもち』みたいなお姿なのかも気になるよね。……なんて、まだこの国に降臨されると決まったわけじゃないんだけどさ」

 龍神が現れる条件は、その時点で一番力のある国長がいること。結果は当日になるまでわからないが、この国に暮らす民は皆、少なからず期待を抱いている。

 数日前におこなわれた南での戦は、時継の予想していた通り緋浦の圧勝に終わった。このまま勢いがつけばきっと、と誰もが心を躍らせているのだ。

 妙の言葉にうなずく鈴音を見て、志穂がうらやましそうに口をひらいた。

「『龍神もちもち』、わたくしも食べてみたいわ。どうにかしてお忍びで町にいけないかしら。ねえ妙、何かいい考えを思いつかない?」

「そう言われて協力すると思います? 今度こっそり買ってきますから、それで我慢してくださいな」

「その場で焼きたてを食べたいのよ。賑やかな雰囲気も楽しみながら」

 志穂が子どものように唇を尖らせたとき、廊下の向こうから荒々しい足音が近づいてきた。現れたのは、動きやすい普段使いの衣に身を包んだ光繁だ。相変わらず眉間には深いしわが刻まれている。

 本当ならば床に額をつけて出迎えるべきなのだが、やんちゃな喜与丸から手を離すわけにもいかない。仕方なく鈴音は頭を下げるだけに留めた。

「ここにいたか。……なんだ、志穂。じろじろと」

 立ち止まるなり低い声を出す光繁に、志穂は少し大げさなため息をつく。

「あなたにお願いしても無理でしょうしねえ。どうしたものかしら」

 光繁はますます不機嫌そうに「なんの話だ」と吐き捨てたあとで、ふいに鈴音の名前を呼んだ。視線を上げると、切れ長の目が真っ直ぐ鈴音を見つめていた。

「……小景の話を聞いてやってくれ。今は池のほうにいる」

 鈴音ははっと息を飲んだ。彼女に何かあったのだろうか。腕の中でむずがり始めた喜与丸を、隣にいた志穂が何も言わずに抱き上げる。鈴音は礼を言ってから、小走りでその場をあとにした。

 屋根の下から出た途端、強烈な日差しに思わず目を細めた。じりじりとした熱が全身に降りそそぎ、鈴音の額に玉の汗が浮かぶ。腕で乱暴に額を拭いながら足早に庭園を進んでいくと、やがてきらめく水をたたえた大池にたどり着いた。そのすぐそばに立つ太い木の陰に、小景が膝を抱えて座っていた。

 近づく足音に気づいたのだろう、うつむいていた顔がこちらを向く。

「鈴姉」

「そこ、涼しそうね。隣に座ってもいい?」

 どうして鈴音がここへ来たのか、なんとなく察しがついたようだ。小景は力ない笑みを浮かべてから、小さくうなずいた。

 日陰に入ると暑さがかなり和らいだ。少し湿り気のあるひやりとした地面に腰を降ろして、しばらく無言で景色を眺める。頭上でかすかに枝葉が音を立てる中、ようやく小景が消え入りそうな声でつぶやいた。

「近いうちに、また戦が起こるの。大きな戦が」

 鈴音は思わず小景の顔を見た。青い瞳は力なく伏せられたままだ。

「今度は勝てるかどうかわからない。もしかしたら、光繁さまや時継おじさんが怪我をしてしまうかも。そう思ったら怖くて、どうしようもないの」

 事読みの力は万能ではない。知りたい未来があったとしても、その答えが〈鏡〉に映し出されるとは限らない。ただし、映ったことは必ず起こる。〈御伺い〉で大きな戦になるという結果が出たのなら、絶対に避けることはできないのだ。

 小景は首からさげた玉飾りを強く握り締めながら、今にも泣きそうな声で続けた。

「わたしにもっと、力があればよかったのに。大切な人たちがどうなるかがわからないなら、先が見える力なんて持ってても意味ないよ」

「そんなことない!」

 とっさに声を張り上げていた。小景が弾かれたように顔を上げ、うるんだ目を丸くしている。

「戦が起こるって知らせてくれるだけで、十分にありがたいんだから。光繁さまならきっと、小景が見た結果を役立ててくださるに決まってる。だから、だから……」

 途中でうまく言葉がまとまらなくなってきて、鈴音は歯がゆさに顔をしかめた。どうしたら、落ち込む小景のことをちゃんと励ましてやれるのだろう。

 言い表せない想いを込めて、小さな肩を抱き寄せる。頬が触れるほどに近い距離で、小景が息を吐くようにつぶやいた。

「……わたしの力、緋浦の役に立ってるかな」

「当たり前じゃない。光繁さまも、時継さまも、閃も。もちろんわたしだってそう。皆んなが小景を頼りにしているわ」

 鈴音の答えに、小景は一度まぶたを閉じた。それから口もとに淡い笑みを浮かべる。

「そっか。じゃあわたし、間違ってないんだよね」

「え?」

 聞き返したが答えはなかった。ただふるふると首を横に振って、それきり彼女は口を閉ざした。柔らかな黒髪を優しく撫でてやりながら、鈴音は思う。

 小景はきっと、まだ何かを抱え込んでいる。

 もしかしたら彼女には、もっと大きな出来事が見えているのかもしれない、と。

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