20.趣味よりも大切なこと


 ガンっ! と、梨香さんの拳での壁ドンに桑原たちが震え上がる。


「そうよ、私の趣味は女児アニメよ! グッズだって持っているし、放送版と円盤の作画の修正箇所だって全部言えるわ――!」


 潤んだ双眸を見開いて梨香さんが叫ぶ。

 全員がその告白から目を離すことができず、ありのままの彼女を知っている僕でさえ唖然としていた。


「――恥ずかしいって自覚しているから嗤われても我慢してあげる! でも彼のことをこれ以上傷つけるのは許さないからね!」


 廊下のざわめきがひときわ大きくなり、いつの間にか全員の視線が僕へとそそがれた。


「返事は?」と、訊く梨香さんに桑原は呆然とし、無反応の彼に代わって神崎たちがこくりと頷いた。


 梨香さんは顔を綻ばせると「ではごきげんよう。建学祭を楽しんで下さいね」と微笑みながら告げる。

 なんという変身ぶりか。鬼のような表情が、瞬きする間に会長モードに戻るとは。


「待たせてごめんね」と、ぎゅっと腕をからめられ、ドキッと胸が高鳴ってしまう。

 いや、耳を赤くしている場合じゃないぞと、僕は彼女の腕を振りほどいた。


「壁ドンって、ああするのよ?」

「いや、そうじゃなくて……」

「おい! てめぇら、待ちやがれ!」


 桑原が怒鳴った。恥を雪ごうとしているのか凄まじい気迫だ。

 だが泉が現れたことで態度が一変する。もうすぐ開演だと叱られるなり腰を引いていた。


「悪ぃ。コイツらに絡まれてよ……」

「いいからさっさと会場に来て! 失敗したら予算を減らされるのよ!」

「そうだった、こんなことしている場合じゃねぇ! でも聞いてくれ泉、九条のやつ、女児アニメなんか見ているだってよ!」


 その一言で泉がかすかに顔を引きつらせたのを、僕は見逃さなかった。


「……それがどうかしたの?」

「高校生にもなってそんなのが趣味なんて可笑しいだろ! カルテットなんとかだっけ? あんな下らねぇものを楽しんでいる奴の気がしれねぇぜ!」

「なによーっ、見てもいないくせに侮辱しないで!」

「見なくたってあんなの子ども騙しだってわかるだろ! 適当に色違いのキャラを出して、同じ事を繰り返しているだけなんだろうからなっ!」


 その瞬間、数多の銀線が宙を舞うや桑原の首へ殺到した。気管を潰されて顔が蒼白くなり、驚いた梨香さんが悲鳴を上げて僕に抱きついてきた。


「もう時間がないの、さっさと行くわよ!」


 いつの間にか泉がベースを抱えている。きっとキャラクターへの侮辱が逆鱗に触れたのだろう。あの顔はダイエルについて語っていたときのような末恐ろしいものだった。


「今のなんだったの? 泉さんはどこから楽器を出したの……?」


 床を引きずられる桑原に神崎たちがおろおろと続く。

 この一部始終を目撃していた生徒たちも教室へ戻っていき、廊下は嵐の後のような静けさに包まれる。その場に立ち尽くしているのは僕らだけだった。


「い、急ぎましょうか? 演奏が終わったら閉会ですし」


 僕は茶道部の部室にお邪魔させてもらった。


「どうぞ、お入り下さい」と、梨香さんが扉を引いてくれた。


 本格的な茶室だった。たたき以外は畳張りで、四畳半の小間の中央は炉畳となっている。

 お辞儀の仕方や座り方など、茶室での彼女の所作はとても優美だった。茶筅を動かす際にわずかに前屈みになっているのだが、頬にかかった横髪が揺れるのが妙に気になってしまう。

 だんだんと土壁に匂いに混じって上品な抹茶の香りが漂ってきた。

 差し出された茶碗を手に取り、口をつける前に回す。これぐらいの心得はあるつもりだったが「逆よ」と指摘され慌てて逆回転。中身がこぼれそうになった。


 お茶は絶品だった。

 最初に食べたお菓子の甘さがまろやかな舌触りと渋味を引き立てている。

 けっこうなお点前でと、彼女と同じように腰を曲げるが客人はそういうお辞儀をしないらしい。茶道って難しいよ。


「足は平気? 痺れていたら楽にしてね?」


 梨香さんが腰を浮かし、僕の隣に座りなおした。

 彼女の着物と、彼女自身の匂いに鼻腔をくすぐられ、かすかに汗ばんだ横顔を見ているとなぜか身体がだんだんと熱くなってくる。


「ごめんね。暴走モードにならないように気をつけるって約束したのに。でも、根岸くんのことを傷つけられるなんて我慢できなかったの」


 僕は赤面してしまう。


「でもどうして私の為に怒ってくれたの?」

「それは、大切なものを否定される辛さがわかるからです」

「『好きだから』じゃないんだ?」


 声を落とす梨香さんに、僕は慌てた。


「冗談よ。私も根岸くんと同じ気持ちだったもん」


 梨香さんが意地悪な笑みを浮かべ、更に僕に近づいてきた。


「もっと自分に正直になったら?」

「正直に、ですか?」

「だっていつも私や他の人を優先して、自分がなにかされるとフリーズしちゃうんだもん」


 そんなことはない。

 僕は梨香さんの笑顔が見るのが好きで、その為に動いているのに。



「私は、もっと自分に正直な根岸くんのほうが好きなのに」


 

 梨香さんの言葉に、僕ははっとする。


「根岸くんだって、正直な私が好きだって言ってくれたでしょ? 私、優しい根岸くんのことも好きだけど、もっとわがままな姿も見てみたい」

「僕が、わがままを言ってもいいんですか?」


 とんと、梨香さんが肩に寄りかかる。

 彼女の温もりを感じていると、奥底に蟠っていた歪な記憶(トラウマ)と入れ替わるように温かいものが心に満ちていくような気がした。


「お実母さんの言いつけだって大切な部分はあると思う。でも私は根岸くんの辛そうな姿なんて見たくない。悲しくなるもん……」


 頭が真っ白になった。

 他ならぬ僕が、彼女の笑顔を奪いかけていたのか。


「あっ、ごめん、またいやなことしちゃったのかな?」

「……どうしてですか?」

「だって根岸くん、泣いているよ?」

「えっ……?」


 今まで心をせき止めていたものが消え失せると、なぜか涙が溢れていた。

 拭っても拭っても止まらず、僕は嗚咽しかけていた。


 梨香さんが鞄からハンカチを取り出した。

 よく見るとそれは映画の後で僕にプレゼントしようとしたものだった。


「勝手に使ってごめんね? 今日、ハンカチを忘れちゃってこれしかなかったの。また新しいのを用意するね?」


 僕は首を振るい、彼女の手を握った。


「根岸くん?」

「いいんです……。僕、これがいいです」

「え、本当にいいの?」

「はい。これが欲しいんです」


 ハンカチを受け取り「大切にします」と、僕は微笑んだ。

 自分の気持ちを正直に告げたが、背中を襲うはずの痛みを感じることはなかったのだった。


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