第18話 おぢさんの泉
すっかり日の落ちた町を歩く。
行き交う車はこうこうとヘッドライトを灯し、ご機嫌な音楽を鳴らしながら通り抜けていく。
LED化された街灯はギラギラと眩しく、街路にくっきりとした影を作っていた。
空を見れば、星なんて明るいものがポツポツと頼りなさげに光っているだけ。
星のことはよくわからないから、どれが何の星なのかもわからない。
どこをどう歩いたんだったか、気がつけばバイト先の『喫茶メトセラ』が目に入った。
「いらっしゃい……ああ、なんだキミか」
「店長……」
店長はカウンター内の椅子に腰掛け、文庫本をパラパラとめくっていた。
また海外ものらしい。
「ま、とりあえず掛けるといい。レモネードでもどうだい? ……ひどい顔をしているよ」
「ぼくが?」
「キミはもう少し自分のことも考えに入れておくべきだね。……心配するじゃないか」
「すいません」
ぼくはカウンターに腰を下ろした。
ここのレモネードは美味しいと常連客の間で評判だけど、実態は市販の粉末をただ溶かしているだけに過ぎない。
詐欺みたいなものだ。
大量生産の消耗品。
ぼくは自分の名前が嫌いだった。
何のひねりもない。このレモネードみたいに。
「――ありません。人間の手にはとうてい終えないほどの大きな問題です。われわれは、ただだまって受け取るほかはありません」
「店長?」
「そのあとはこう続く。――わたしは、だまって受け取りませんわ」
「何の話ですか」
「今読んでいる本だよ。ネビル・シュート『渚にて』。全面核戦争によって全世界が放射能に汚染され、滅亡の運命が決まった人々の最後の日々を描いた名著だ。小松左京の『復活の日』にも影響を与えている。読んでみるかい?」
「活字は苦手なんです」
「そうなんだから仕方がない、か。猫は好きかい?」
「わりと」
「じゃあ、ハインラインの――」
「本は嫌いです」
「いけず」
店長は子供みたいに唇を尖らせた。
「いけずって?」
何かに気付いたように店長は顔の前で両手をひらひらと揺すった。顔が少し赤い。
「どうでもいいだろう、そんなことは。だが、キミが今夜この時に店に来たのも、何かの運命かな、と思ってね」
「はあ」
「いやいや、勘違いしないでほしい。別に私はキミの筆卸しをやってやろうなんて気はこれっぽっちも無い。これはべ、別にアンタの事なんか……っていう例のアレではない。普通に本音だ。キミだってもっと若い子の方がいいだろうしね」
「そうとも限りませんけど」
店長の花園みくは普通に美人で、スタイルもモデルみたい。
おっと、目元に小ジワ発見。
「とにかく! これから私の婚約者がここに来る。お土産を持ってね。キミも話に混ぜてもらえるよう、私から頼んでみよう」
「お土産……?」
店長はいそいそとドアに貸し切りの札を出した。
何が何だかわからない。
でも、どことなく店長は嬉しそうだ。
普段はぶっきらぼうで無表情なのに、今夜に限ってはやたらに喋るし、表情もコロコロ変わる。
きっと、その婚約者さんというのが大好きなんだろう。
「遠い昔、人々がまだ科学に夢を抱いていた頃――」
「今度は何の引用ですか」
店長はかぶりを振った。
「私自身の言葉だよ。夢のような未来技術に誰もがみんな希望を抱き、そして現実の前に絶望していった。大衆は確かにそうだっただろうね。でも、それでも夢を捨てずに頑張り続けた人たちがいたんだよ。そう、たとえば――」
ドアベルがカランと鳴った。入ってきた人物に、ぼくは目を丸くする。
「えっ……烏丸……先生……?」
「おう、君か。調子はどうかね」
そのだらしないメタボ体型で頭髪の薄い中年男は鞄を足下に置くと、カウンターのぼくの隣に腰を下ろした。
「まさか……まさか……」
「なに?」
「店長の……婚約者……?」
「うん、ワシだ」
「大学以来の付き合いだって」
「浪人もしたし、卒業に十二年かかってな」
「店長!」
ぼくは店長がいた場所を見た。
そこに立っていたのは、どこからどう見ても恋する乙女だった。なんだこれ。
店長――いや、その乙女は頬をほんのり赤くして、もじもじと身をくねらせた。
なんだこれ。なんなんだよこれ!
「――たとえば、
烏丸医師は、光太郎といういかにも爽やかなイケメンっぽい名前だった。
*
店長はぼくに淹れさせたコーヒーに口を付けた。
「まだまだだね。もう少し練習が必要だ」
「すいません」
「いいよいいよ、私は今夜、機嫌が良いからね」
言われるまでもなく、顔を見るだけでそれはわかった。
それでも全部飲み干してくれ、ぼくは二杯目のコーヒーを落としはじめた。
ドリッパーは暖まっているからこのままでいい。
ポットのお湯を一度豆の山に注ぐと、粉が膨らんでコーヒーの良い匂いがし始める。
言われたとおり円を描くように、少しずつ、少しずつお湯を注いでいく。
さっきとは明らかに違う。
今度はどうだ。
「ま、さっきよりマシかな」
ぼくはほっと胸をなで下ろす。この店長がぼくを褒める事なんて、ほとんど無いからね。
「本題に入ろう。私がそのウィルス的なものに興味を引かれたのは、まだ大学を出たばかりの新人の頃だった」
「待ってください店長、喫茶店の前は何やってたんですか」
「病理学者」
顎が外れそうになる。リケジョ――昔流行った言葉だ――だなんて聞いてない。
「前にも言っただろう」
「言ってません! ぼくは店長のこと、ただのNEETだとばかり!」
「違うもん。経営者だもん」
ほっぺたをぷう、と膨らませちゃって! な~にが「違うもん」だよ! かわいいなあ。
「とにかくだ。ジャーロスチウィルスなんていう、ごくごく珍しい世界的にも希少なサンプルが目の前にあるんだ。興味を引かれるのも当然だろう?」
「それってまさか」
「そう、グルースチ病の原因だ。当時私はH大で病理学をやっていたんだが、たまたまサンプルが手に入ることになった。当初は知らなかったが……斉藤花子くんの血液だよ」
烏丸医師は頭を抱え、薄い頭髪をバリバリと掻いた。
「ワシがいけなかったんだ。ワシが、みくと仲良くなるきっかけを作りたくて、患者を見せたりしたから。だってワシ、女の子と付き合ったことも無かったし。みくは優しすぎたのだ」
うんうん、花園みくちゃんは優しい乙女だよね。
「指数関数的に増え続けるウィルスは、どうやっても増殖を止められない事がわかったんだよ。このままでは患者は確実に死ぬ。それも、中学生の女の子だったんだよ。見ていられなかった。ちょうどその頃、両親を相次いで亡くしてね。色々あって、結局辞めてしまった」
「そうだったんですか……」
両親が残した店とアパートの経営を続ける、店長はその道を選んだんだ。
今にして思えば、斉藤さんが店に来たとき、店長は必ず奥に引っ込んで顔を合わさないようにしていた。
店長に責任はないけど、顔を合わせづらかったんだろう。
笑っちゃうくらいに真面目で、優しい人だ。
しかも男を顔で選ばない。ここ重要。
「でも、変だろう? ウィルスって、そう単純なペースでは増えないものなんだよ。必ず暗黒期というおとなしい時期がある。なのに、ジャーロスチウィルスにはそれがない。どう考えても変だと思うだろう?」
「はあ」
何を言っているのかさっぱりわからない。
竜宮院だったら、きっと理解できただろう。
でも、ぼくには無理だ。今はまだ。
「ウィルスじゃなかったのさ」
「ウィルスじゃ……ない?」
正直を言うと、ぼくには細菌とウィルスの違いがよくわからない。
烏丸医師が助け船を出してくれた。
「細菌はそれ自体一つの生物だ。だが、ウィルスは定義によるが生命とは言いがたい。砕いて言えば、取り付いた細胞を組み替えてウィルスに作り替える存在、とでも言おうか。生命の定義、代謝、自己複製、恒常性を満たさない。まあ、考え方は色々あるが」
「はあ……あの、さらにもう少し砕いてもらえると助かるんですが」
さっぱりわからない。まるで呪文だ。
店長も烏丸医師も、呆れたような顔をして頭を掻いたり、ため息をついたりしている。
烏丸医師は、わかりやすいように慎重に言葉を選びながら説明してくれた。……つもりだろう。
「ナノロボット。聞いたことあるだろ? ナノメートル……一〇億分の一メートルサイズの機械だ。ナノマシンといったほうが通りが良いかな」
「一〇億分の一メートル? まさか」
「そのまさか、だ。まず小さな工作機械を作る。それを使ってまたさらに小さな工作機械を作る。それをどんどん繰り返していけば、最終的にはその大きさに行き着く。簡単だろ?」
理屈としてはわかるけど、そう簡単にいくだろうか。
戦車のプラモデルを作ったことがあるけど、仮にあれが全部鉄でも本物の戦車と同じ強度にはならないと思う。
よくわからないけど、分子そのものを縮小することはできないもの。
「そう上手くいくかな、って顔だな。普通にやったんじゃ確かに無理だ。でも、その無理をやっちゃった連中がいるんだな。ソビエト科学アカデミーの科学者がね」
「ソビエト? 昔のロシアですか?」
「いいや違う。ソビエト連邦には一五の国が加盟していた。中心になっていたのは、そのうちのとある一国だ。冷戦時代に莫大な資金を投入して、彼らはそれをやってのけた。来たるべき第三次世界大戦に勝つためにな」
ぼくはおぼろげな記憶に残る歴史の授業を思い出した。
ベトナム戦争だの、キューバ危機だの。そしてソ連の崩壊のことも。
烏丸医師は続けた。
「ナノロボットは生物ではないから、細菌のような生物兵器を禁じる条約にも触れないだろ。いささか強引な解釈というか、むしろ詭弁だがな」
烏丸医師は喋りすぎたのか、喉が渇いたといってレモネードを頼んだ。
店長はにっこりと笑顔で答え、まるで魔法を掛けるかのようにグラスをかき混ぜ、あまつさえハート型の氷まで浮かべたのだ。
「だが、ソビエトは崩壊した。一九九一年の事だ。大規模な政治的、経済的混乱が起こり、何人もの科学者が西側に亡命した。その時にナノロボットを持ち出したのだ。わかるかね? 日本もまた、西側諸国の一つなのだよ」
「つまり――」
ぼくは拳を握りしめた。
「つまり、その旧ソ連の連中が斉藤さんを病気にしたんですね?」
「そうだ。彼らは日本を含め世界中を渡り歩き、自分たちの知識を少しずつ切り売りしながら、今も世界中を放浪している。一部では放浪者――ドリフターと呼ばれているね。彼らが憎いか?」
「決まってるでしょう!」
思わずぼくはカウンターを叩いていた。
グラスが踊り、氷の溶けた水がこぼれる。
「まあ、わざとやった訳じゃない。詳細は不明だが、五年前の新千歳空港爆破事件は彼らを狙ったテロとの疑いが濃厚だ。幸い死亡者は出なかったが、爆発で破損した容器の近くに、たまたま彼女がいた。おそらく感染はその時に傷口からだろう。犯人は未だ不明で、彼らが直接の原因じゃない」
「それでも許せませんよ」
「だが、彼女を救えるのもまた、彼らの力なのだよ」
救える。烏丸医師は確かにそう言った。
「……どういうことですか?」
「時は進み、決して戻ることはない。だが、止まることは無いとは言えないのだよ。科学の負の側面ばかりに目をやって、絶望する気持ちもわかる。しかし、それを乗り越えるのもまた、科学でしかあり得ない」
誰かが、似たようなことを言っていた。
烏丸医師は、カウンターに置きっぱなしの文庫本を手に取った。
猫の後ろ姿の背表紙で、タイトルは『夏への扉』だ。
「人工冬眠――コールドスリープだよ。彼女を救う方法は、これしかない。かつては単なるSFのアイデアに過ぎなかったが、現実のものになる時が来たのだ」
思わぬところから希望が見えてきた……らしい。
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