第19話 愛に、時間を。

 ICカードを改札にかざし、左側すぐの階段を上ると、列車はすでに四番ホームに待機していた。

 発車まで一〇分。

 ええと三五分乗って、列車を降りたら徒歩で、H大学までは……まあ一時間ってところか。

 海側の席が空いていたので、ぼくはそこに座る。

 ほどなくして大きなトランクを引きずった観光客の団体が来て、席はほとんど埋まってしまった。


「ここ、いいですか?」


「どうぞ……って」


 隣に座ったのは、清楚な白いワンピースに大きな麦わら帽子を被った雲雀ヶ崎るなだった。


「どうして君がこんな所に」


「決まってるでしょう? あの女に宣戦布告するためです。勝ち逃げは認められません」


「勝ち逃げ、ってなあ」


 雲雀ヶ崎は帽子を取って、ぼくの顔をじっと見つめた。


「先輩、自分で言ってたじゃないですか。畑荒らし事件のとき」


「雲雀ヶ崎が犯人だったけどな。どの件だ」


「一度や二度じゃ諦めない、花が咲くまで、実を結ぶまで何度でもやるんだ、って」


 そんなことも、あったっけな。

 ついこの間のことなのに、もうずっと昔のことのように思える。

 でも、あの時言ったことはぼくの本音だ。

 今も考えは変わっていない。

 まったく、先輩の教えを律儀に守る、よくできた後輩だ。


「……好きにしろよ。でも、ぼくの気持ちは変わらないぞ」


「そうさせてもらいます。ちょっと失礼……」


 雲雀ヶ崎は帽子を取ると、窓の横にあるフックに掛けた。

 その時、ノースリーブの袖口から微かに下着が見えてしまう。

 ライトグリーンだ。

 元通り座ると、雲雀ヶ崎はポーチから缶入りのレモネードを取り出し、プルタブを起こした。


「飲みます?」


「いや、いい」


 雲雀ヶ崎は缶に口を付けた。


「先輩はあの女のことを、絶対に心の中で理想化するはずです。ううん、それどころか崇拝しちゃうまでありますよね。それこそ現実の女に興味を持てないくらいに」


「うっ……」


 それは否定できない。

 現時点ですでにその傾向はある。

 斉藤さんだって、屁もこくしウンコもするという現実から、ぼくは目をそらしていたんだ。


「だから、です。決して安泰じゃないですよ、って最後に言ってやりたくて。それに……」


 雲雀ヶ崎はレモネードの缶を指先で弄ぶ。


「何年も……ううん、下手をすれば何十年もあの女を待ち続ける先輩を見るのは、るなだって辛いです」


「…………」


「でも」


「でも?」


 なんか意地悪な笑いだな。こんな表情、初めてだ。


「それでもゲスで最低な先輩は、るなが彼氏を作ると誰にも言わずにひっそりと一人悲しむ。どうです? 違いますか?」


「――」


 ぼくが口を開こうとすると、駅員が笛を鳴らした。

 圧搾空気の音がして、ドアが閉まると、微かな振動とともに列車は動き出した。


「あっ、駅弁買ってない」


「いらんだろ、この距離で。通勤する人もいるんだ」


 おかげで答えずに済んだ。

 はっきり言えば、雲雀ヶ崎の言うとおりなんだ。

 雲雀ヶ崎が他の男と付き合いだしたら、やっぱりぼくは胸が痛くなると思う。

 でも、それはぼくが悪いんだ。

 左側に穏やかな波を浮かべる海を見ながら、列車は順調に進む。

 トンネルをいくつも越え、やがて景色は街になった。

 浦戸とは桁違いの人並みを押しのけ、改札を抜けて西口から外へ出る。

 右に折れてしばらく歩けば、H大学だ。

 そもそも、勝手に入っていいのかな?

 ぼくは少し戸惑ったけど、雲雀ヶ崎はスタスタと躊躇なく入っていく。

 大学じたいはすぐに着くけど、敷地がやたらに広いからかなり歩く。

 大学病院の隣にある四階建ての建物が目的地だけど……正直、かなり迷った。


「臨床研究棟はこっちですよ、先輩」


「えっ、そうだっけ」


「わからないなら聞けばいいじゃないですか。先輩になら、るなは何だって答えますよ。スリーサイズだろうと、体重だろうと――」


 すまない。本当はどちらも知ってるんだ。不正な手段だから言えないけど。


「それこそファーストキスの相手であろうと」


「うわっ」


 誰かが落とした差し歯につまずいて、ぼくは情けなくも転んでしまった。

 ちゃんと手を着けたのはいいけど、けっこう大きく手のひらをすりむいてしまった。

 くそう、かなり痛いし血も出ている。

 そうか、歯学部も近くにあるんだ。


「大丈夫ですか!?」


「いてて……くそう、誰だよ、こんな所に差し歯を落としたのは」


「差し歯に躓いて転んだんですか?」


「そうだよ。他に引っかかるものなんか無いだろ」


 雲雀ヶ崎は口許を押さえながら細かく震えていた。

 そんなにおかしいかよう。

 臨床研究棟の入り口では、城医師が待っていた。


「やあ、よく来たね。とりあえずそこの受付で入館票に記入をして、通行証を受け取ってくれ」


「厳重なんですね」


「これでも先端科学を扱っている研究施設だからね」


 言われたとおり受付で住所氏名を記入し、通行証を受け取る。

 首から提げるICカードだ。


「さ、ついて来たまえ。こっちだ」


 エレベーターで四階に向かう。

 ドアの横の機械に入館証をかざすと、電子音とともにロックが解除された。

 雰囲気としては、ごく普通の病棟といったところで、ナースステーションもある。ただ、患者の姿はほとんど無く、白衣姿のいかにも研究者然とした人たちがせわしなく行き交っていた。


「ここだ」


 城医師に促され、ぼくは扉の取っ手に手を掛けた。


「……どうしたね?」


 ぼくは怖かった。

 斉藤さんはこの中で、どんな思いをしているんだろうか。

 でも、もうここまで来たんだ。思い切って扉を開ける。


「あら、太郎くん」


 中も、とくに変わったところはない。

 ごく普通の個室だ。

 変わったところといえば、壁際にホワイトボードが置かれているくらい。

 部屋の中央に置かれたベッドはリクライニングが起こされ、斉藤さんが穏やかな光の中で本を読んでいた。ただ。


「髪、切ったんだね」


 艶やかな黒髪は耳のあたりで短く切りそろえられていた。

 短くなった髪の穂先を心なげに弄ぶ斉藤さんは、やっぱり少し寂しそうだ。


「似合う?」


「うん。店長よりもきれいだよ」


 ごめんね、店長。

 斉藤さんは泣きそうな、でもそれでいて嬉しそうな、何ともいえない表情でぼくを見上げた。

 黒真珠みたいな瞳も、長いまつげも、すらりと通った鼻も……ここでしっかりと胸に刻みつけておきたい。

 一秒でも長く彼女を見つめていたい。

 ぼくはこの時、それ以外には何も考えられなかった。

 永遠とも一瞬とも思える時間が過ぎて、斉藤さんはかすかに微笑む。


「本気で言ってる? 嘘だったら店長さんに言いつけるからね」


「もちろん本気だよ。嘘は言わない」


 病室の扉が開き、烏丸医師が入ってきた。

 数人の看護師や他の医者も続く。

 普段はヨレヨレなのに今日はしわ一つ無い白衣を着ていて、やはりこれから始まる治療が普通とは違うんだ、ってことを否応なしに教えてくれた。


「みんな揃ってるな。今日は斉藤さんのたっての希望で君たちにも術式を説明してほしい、とのことで、特別に来てもらったわけだが……城君、資料を」


「はい」


 城医師は手元の資料を見ながら説明を始めた。


「まず、第一段階として鼻孔から冷却剤と同時に微量の凍結保護成分を吸入します。体温を一時間に一度の割合で徐々に下げ、二十四時間かけて十二度まで低下させます。通常の治療的低体温はせいぜい三十二度で、国内での臨床例はありませんので、カザフスタン側から受け取ったデータによる補完を行います。この時点で脈拍、呼吸ともに低下し、小動物等で自然に行われる冬眠に近い状態になります。これは偶発的な事故によるものですか、二〇〇六年、六甲山中で遭難した男性が二十四日間、低体温状態で生き延び、後遺症なしに回復した事例があり――」


 昔のSF映画に出てきたコールドスリープ。

 体温を下げることで代謝を下げ、病状の進行を遅らせる技術だ。

 ナノロボットは動力を体温から取っているらしくて、低温では活動が鈍っていき、一八度以下で完全に停まるんだって。

 もちろん、専用の薬や冷蔵庫みたいなベッドを使う。

 その間にナノロボットを壊して、できれば細胞を修復する技術の研究を進めるんだって。

 これも資料を一緒に受け取ったらしくて、時間は掛かるけど目処は付いているらしい。

 科学の進歩はかつて空想だったものを現実に変えた。

 この技術を開発するために、鉄のカーテンの向こうでは何人、何十人の人が犠牲になったのかわからない。

 彼ら彼女らのことを思えば、手放しで喜んじゃいけないと思う。

 それでも、旧ソ連では成功例がたくさんあるんだって。

 ソ連が無くなった今は、昔みたいな無茶はできなくなったらしいけど、それでもちょっとずつ改良が進んでいるみたい。

 斉藤さんはこの技術で未来に向かう。

 十八歳のまま、遙かな時を超えていく。

 ぼくたちを置き去りにして。

 それでもいい。

 生きていてさえくれるなら。

 永遠の別れってわけじゃないんだもの。

 わからないけどね。

 でも、ぼくは信じてる。

 技術的な説明は専門用語が多くてよくわからなかったけど、城先生はこのために世界中を駆け回ってくれた。

 カザフスタン政府も色々と突っ込まれたくなかったのか、装置をブラックボックスにすることを条件に機材を貸してくれたそうだ。

 ええと、つまり機械の蓋に封印シールが貼ってあって、これを剥がすと天文学的な違約金を取られるんだとか。

 斉藤さんのご両親は同じ説明を昨日受けて、すでに処置室で待っている。

 全身を消毒したり防護服を着たり、トイレにも行けないから大変らしい。

 よくわかるよ。

 だから、家族以外が斉藤さんと会えるのは、この部屋が最後なんだ。


「――説明は以上です。では、予定通り正午から術式を行いますので、十五分前までにスタッフの方は集合してください。では、解散」


 スタッフはぞろぞろと出て行き、城医師も烏丸医師も出て行った。

 斉藤さんの横には、ぼくと雲雀ヶ崎だけが残される。


「先輩……少しだけでいいので、二人で話をさせてください」


「うん。終わったら呼んで」


 ぼくは廊下に出ると、エレベーターホールにジュースの自販機があるのを見つけた。

 選ぶのはレモネード。

 斉藤さんはよく窓辺でこれを飲んでたっけ。

 よく冷えた缶に口を付けると、一口ごとに斉藤さんの色々な表情が浮かんできた。

 笑った顔。泣いた顔。怒った顔。恥ずかしそうにしている顔。

 もう、そんな顔を見られるのも当分お預けだ。


「どうぞ、先輩」


 飲み終える頃、雲雀ヶ崎が戻ってきた。


「時間、無くなっちゃいますよ」


「うん」


 ぼくは飲み終えた缶の口から見える暗闇を見つめていた。


「行かないんですか?」


「なんかこう……最後のお別れみたいで……ちょっと」


「絶対後悔します。行ってください」


 背中をいささか乱暴に叩かれ、ぼくは思わずよろめいた。


「何だよ、危ないじゃ――」


 雲雀ヶ崎の伏せた顔に、涙の後があった。

 斉藤さんのために泣いてくれるんだ。

 これじゃあ、行かないわけにはいかないよね。

 ぼくは意を決して病室の扉を開いた。

 壁の時計は十一時三〇分を指している。

 あと十五分。たったの十五分しかないんだ。


「しばらくお別れね、太郎くん」


「……うん」


「わたしは眠るから一瞬みたいなものだけど、きみの事はずいぶん待たせちゃうかな」


「……うん」


 言いたいことはたくさんあったのに、ぼくはうんとしか言えなかった。

 どうして。

 どうしてこんな時に、気の利いた言葉が出てこないんだろう。

 どうしてぼくはこんなに口下手なんだろう。

 どうして時間が、あとほんのわずかしか無いんだろう。

 どうして。

 そうだ。ぼくは決めたんだ。自分の感情に正直になる、って。


「斉藤さん。ぼくも行くよ」


「どこへ?」


「ぼくもコールドスリープをする。一緒に未来に行こう」


 斉藤さんと一緒なら、この時代の何もかもを捨てたって構わない。

 この時のぼくは、本気でそう思っていたんだ。

 それが素直な気持ちだったんだ。

 でも。ぼくだって本当は気付いてる。

 素直な気持ちの、そのさらに奥にあるものを。

 斉藤さんは一瞬だけ目を丸くしたけど、寂しそうな笑みを浮かべた。

 やめてくれ。

 その先を言わないでくれ。


「ダメよ」


「どうして!」


 斉藤さんがその後言う言葉が、ぼくには何となくわかっていた。


「あなたにはこの時代でやることがある。あなたを必要としている人がいる。誰のこと、なんて言わないでよ。ここでとぼけたら絶交だからね」


「…………」


 そんなの、一人しかいない。

 それはぼくだってわかってる。


「ねえ山田くん。雲雀ヶ崎さんがわたしになんて言ったか、気になる?」


「……うん」


「早く目覚めないと、先輩のこと取っちゃいますよ、って。モテるのねあなたは」


「……うん。だから、早く目覚めてよ。待ってるから」


「もう、うぬぼれちゃって」


 斉藤さんの言うとおりだ。

 でも、ちょっと面白かったみたいで、斉藤さんは笑っていた。

 きっと、今度は心から。


「山田くん」


「うん?」


 ぼくの右手を、ひんやりとして細い指が包んだ。

 ぼくはほんの一瞬だけ躊躇したけど、その指に指をからめる。

 斉藤さんは拒まなかった。

 いや、それどころか力をこめてきたんだ。


「わたしが思うにね、太郎くん。あなたはとっても優しい人なの」


「それは……違うよ」


 ぼくのまぶたには雲雀ヶ崎の泣き顔が浮かんだ。

 優しいなんて、どこからどう見てもあり得ない。

 そんなことがあってはならないんだ。


「ううん。優しいあなたはわたしを好きになったというより、病気のわたしを見て放っておけなくなった。優しいあなたは、それを好意と思い込んでいるだけ。でもね」


 斉藤さんはぼくに耳に顔を近づけると、小さな声でこう囁いた。


「わたしは好きよ、あなたのこと。太郎くん」


「本当?」


「もちろん。オトモダチとしてね」


「そんなぁ……」


 ぼくはよっぽどがっかりした顔をしていたんだろう。

 斉藤さんはクスクスと笑い始めた。

 その顔がとても楽しそうで、つられてぼくも笑う。

 病室に笑いがこだまする。

 こんなに笑ったのはいつ以来だろう。

 そして、この次にこんなに笑えるのはいつになることだろう。


「時間です」


 ドアが開き、医師団が入ってきた。

 手を振る斉藤さんに見送られ、ぼくは廊下に追い出される。

 最後に見た斉藤さんは、とびきりの笑顔を向けてくれた。


「さよならは言わないわ。すぐにまた会えるもの。起きたらレモネード、お願いね、約束よ」


「うん。約束だ」


「よろしい。オマケしてポイントプラス一六七七万七二一六ね」


 バネ仕掛けの扉は自動的に閉じ、結局ポイントの基準は最後までわからないままだった。

 というか、一六七七万七二一六ってなんだよ。


「またね、斉藤さん。いつかきっと、必ず」

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