第17話 病気は無慈悲な夜の女王
一週間経っても、いやそれどころか二週間経っても斉藤さんは学校に来なかった。
たぶん一週間、斉藤さんはそう言ったけど、未だに学校に戻っていない。
見舞いに行けばいいのに、どうしてもぼくは病院に行けなかった。
怖かったんだ。
もし、予想以上に病状が進んでいたら。
嫌な予感は黒い霧のように、どんどんと湧き上がってくる。
斉藤さんの病気は、治療法が無い。
現代の医学では、手の施しようがないんだ。
症例も少ないから、どんな事が起こるかまったく予想が付かない。
そう思いつつも腰は重いもので、今日もバイトにかこつけて客の来ない店のテーブルを拭いている。
「じつに――」
不意に店長が口を開いた。
「じつに君はバカだな」
「学が無いのは確かですが」
店長は読んでいた本を閉じた。背表紙は青で、後ろ姿の猫が表紙に描かれている。
「屁理屈を言う……私は別にどうだっていいんだよ。婚約者は成功している部類に入っているし、君に給料を払えばそれ以上に税金を節約できる。君がここに居るのは、私にとっては都合がいい。だが君はどうだ」
「婚約者がいたんですか」
ちょっとショック。ちょっとだけね。
だって、こんなきれいな人、周りが放っておくはずがないもんね。
「バカにするんじゃないよ。大学時代からの付き合いだ。だからさあ、私の事は今はどうでもいいだろう?」
「どうでもいい、ってことはありません。大切な雇い主です。こんな楽なバイトは他にありません」
「ほう? そんな風に思っていたのか。って、ええい、ややこしい。本題に戻すよ。君は今、テーブル拭きなんてしている場合かい? 病院に行かなくていいのかい?」
胃を万力で締め上げられるような感触がする。
「どうして知っているんです?」
「どうして? それこそどうだっていいよ。君の話だ、山田太郎君」
「ぼくは……」
「後悔の無いように生きたいなら――」
店長は本を指で撫でる。
「やるべき事を、やるべき時にやるべきだ。違うかい?」
「…………はい、店長のおっしゃるとおりです」
店長はやっぱりぼくなんかとは比べものにならないほど大人だ。
ぶっきらぼうだけど。
恐怖と不安に押しつぶされそうなぼくの背中を押してくれた。
時計を見ると、まだ面会時間はじゅうぶんにあった。
ぼくはエプロンをたたんで店を出る。
病院の前で深呼吸をすると、思い切って自動ドアの押しボタンに手を伸ばした。
「おや、君は山田君じゃないか?」
不意に声を掛けてきたのは、城医師だった。
ずいぶんとやつれ――いやそれどころか、服は埃まみれ、髭は伸び放題、髪はボサボサで顔色だってかなり悪い。
「ど、どうしたんですか、城先生。その姿は……」
ぼくの頭は混乱していた。城先生と最後に会ったのは、お店に来たときだ。
「いやなに。ちょっとカザフスタンの連中と一悶着あってね。まあ、純粋なアカデミズムの問題で、政治的な問題は一切無い。心配は無いよ」
「もしかして、あれからずっとカザフスタンに?」
「いや。フロリダのメリット、カリフォルニアのホーソン、南米のフランス領ギアナ、スウェーデンのエスレンジ、フランス本土のトゥールーズときてカザフスタンのバイコヌールだ。その後は四川省西昌に寄りつつ種子島に行って、最後に東京でさんざん揉まれてきた。厚労省の石頭どもめ」
「世界一周ですね」
「そうだな。本当は八十日以上かけて船や鉄道で行きたかったけどね。子供の頃ヴェルヌの小説に憧れたものさ。『八十日間世界一周』だの『海底二万リーグ』だの。……まあ、これも仕事だ、やむを得ん」
「何してきたんです?」
「それこそ職務上の機密ってやつだ。じゃあ、私は院長に報告があるんでね、失礼するよ」
そのまま大きなトランクを持って、城医師は職員通用口へと向かっていった。
「ヴェルヌ? どこかで聞いたような。……そうだ、想像できることは実現できる、って言ってた人か。店長と本の趣味が似ているな。店長の婚約者って、もしかして……?」
まだ仮説だ。でも城先生も結婚するって言ってたし、可能性は高いな。
自動ドアをくぐり、エントランスを抜けてエレベーター・ホールへ。
三階のボタンを押す。
病室の場所は変わっていなかった。
その事に、ぼくはひとまず安堵する。
四人部屋だけど、今は他の患者はいないみたいだ。
実質、個室のようなもの。
斉藤さんは窓際のベッドで本を読んでいたけど、ぼくに気付くと顔を上げた。
「あら、これはこれは山田くん。久しぶりじゃない」
「調子はどう?」
「良いとは言わないけど。まあ普通よね、わたしにしてみれば」
「そっか」
実際問題として、見た目だけなら斉藤さんは普通に見えた。
とくに顔色が悪いというわけでもなさそうだ。
ぼくはベッド横の丸椅子に腰を下ろすと、鞄からリンゴとナイフを取り出した。ナイフは店からちょろまかし――借りたものだ。
「食べる?」
「少し」
ぼくはリンゴを剥く。
普通に剥いているつまりなんだけど、斉藤さんは事あるごとに小さな悲鳴を上げたり、身体をビクッと震わせたりしている。
「ああもう、いいから。怖くて見ていられないわ。わたしがやるから貸しなさい」
「でもなあ」
「いいから! あのね。あなたは知らないかも知れないけど、わたしの方がお姉さんなの」
「……知ってたよ」
少しだけ胸が痛む。
一年間休学して、年下の同級生と机を並べる学校生活は、きっとぼくにはわからない寂しさがあったに違いない。
「だったら言う事を聞きなさい。さあ」
渋々とリンゴとナイフを差し出すと、斉藤さんは皮をまるで一本のリボンみたいにきれいに剥ききった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……って、違うよ。ぼくはお見舞いに来たんだもの」
斉藤さんは顔を伏せて、肩を震わせながら笑っていた。
「ほんと。おかしいのね、ふふ」
窓から差し込む夕日は斉藤さんの顔を半分影絵にしていた。やっぱり、きれいだ。
「ところで、こんなところに来てる暇なんて、あるのかしら?」
「どういうこと?」
「忙しいんじゃない? デートで」
斉藤さんが言っているのは、雲雀ヶ崎のことだ。
やっぱり胸が痛い。ぼくは事実をありのままに告げた。
「バカじゃないの?」
「うん。でも、自分自身に嘘はつけないもの。雲雀ヶ崎のこと、ぼくは好きだよ、でも――」
恥ずかしくなって、首の後ろを掻いてしまう。
「斉藤さんのことは、その、もっと好きだもの」
斉藤さんは床のリノリウムを見ながら、せわしなく左に垂らした黒髪を指で梳いた。
「こんな余命幾ばくもない、ポンコツ女に何を言ってるんだか……やっぱりバカよ、あなたは。減点。マイナス二〇ポイント」
「自分でもそう思う。でも、自分の気持ちに嘘をつきたくないからね」
斉藤さんは髪を目玉クリップみたいなやつ――バンスクリップというらしい――でまとめると、姿勢を正してぼくに向き直った。
ひどく真剣な表情をしている。
「今からでも遅くないから、雲雀ヶ崎さんに謝りなさい。そして二人で幸せになるの。……わたしはもう、長くないから」
喉がからからに渇く。
乾いた喉がへばりつき、つばを飲み込む事も、いやそれどころか息をすることもままならない。
それでも、どうにか声を絞り出した。
「どの……くらい?」
自分でもわかるくらい、変な声をしていた。
手のひらはじっとりと汗で湿り、脇にも背中にもベタベタと嫌な汗がしみ出してくる。
永遠みたいな三秒が杉、斉藤さんは何でもないことのように、さらりと言った。
「八ヶ月。プラスマイナス二ヶ月ってところね。わたしには、次の春はないの」
「――――」
「それも絶対安静にしての話。血液中の……なんだっけ、酵素を調べることでかなり正確に予想が付くんだって」
「――――」
「お医者さんはなかなか教えてくれなかったけど、やっぱりある程度目安があった方がいいわよね」
「なんで――」
「うん?」
「なんでそんなに達観してられるんだよっ! 自分の事じゃないか、なのに、なのにどうして! 八ヶ月? 二四〇日じゃないか! 嘘だろ、嘘だと言ってくれよっ!」
自分で言うのもなんだけど、はっきり言って支離滅裂なのはぼくのほうだ。
斉藤さんにこんなことを言っても仕方がないし、そもそも斉藤さんは何一つ悪いことはしていない。何の責任もない。
「あのね、太郎くん」
斉藤さんはぼくの肩に優しく手を置くと、子供を諭すような口調でぼくを覗き込んできた。
この時、斉藤さんはぼくの下の名前を初めて呼んだけど、ぼくはそれどころじゃなかった。
「人間なんて、いつ死ぬかは基本誰にもわからないもの。極端な話、太郎くんだって明日車に轢かれて死んじゃうかもしれないでしょ。でもわたしはわかる。だから、残りの時間を有意義に使える……そう思わない?」
「思わないね!」
確かにそうかもしれない。でも、ぼくはそんなふうに達観はできない。
「どうして?」
「なんて言うんだっけ、そう運命論? そんなものはクソ食らえだ。斉藤さんは死んでいい人じゃない。死んでいい人なんていない」
「理想主義ね。人間の寿命なんて、神様にしか決められないわ」
「でもだからって! ダメだダメだダメだ、斉藤さんは死んじゃいけない!」
髪を梳きながら、斉藤さんは呟くように言った。少しだけ、悲しそうな顔をして。
「そりゃあそうよね。死に意味を見いだし、死に取り憑かれるのはナンセンスよねぇ。でも」
今度は一転、睨み付けるような視線だ。
ぼくは思わずすくみ上がる。
「それでも、今の医学ではわたしを生かすことは難しいのよ。死にたくて死ぬわけじゃない! 当たり前でしょ何言ってんの! バカなの!?」
「…………」
「出てって」
「…………」
「出てってよ!」
ぼくと話すことはない、そんな表情だ。それに、この顔は明らかに心臓に負担が掛かっている。
ここに居ちゃいけない。少なくとも、今は。
「わかったよ……でも……また来る。それならいいよね」
斉藤さんは窓の方を向いたまま、何も言わなかった。
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