第16話 たったひとつの冴えたふりかた
今日は診察の日だ。
病院ってのは、やっぱり苦手だな。
どうしても気が滅入る。
何もすることのない待合室では、どうしても考えることが多くなる。
斉藤さんは不治の病に冒されているという現実を、そんな忘れかけていた現実を、否応なしに思い出させてくれる。
「山田さん。山田太郎さん。お入りください」
「はい」
診察室にいたのは、以前城医師に言われたとおり別の医者だった。
医者なのにけっこうなメタボ体型で、頭頂部がかなり薄い。
まだ四〇歳くらいだと思うけど……。
「こんにちは。今日はいつもの城君が出張で留守でね。君のことは引き継ぎを受けているから、とりあえず横になってくれたまえ」
「……?」
なんだろう。初対面といった感じがしない。
名札には烏丸と書かれているけど、どこかで会っただろうか?
聴診器を当て、カルテに何かを記入している横で、ぼくはそればかり気になっていた。
「あっ、アニメTシャツの人。インベーダーゲームでハイスコア出してた……」
烏丸医師の手が止まる。
「いいじゃん別に。ワシが君に何か迷惑をかけたか? ワシは医者。君は患者。そして君の身体は完全に快復した。ワシがどんな服を着ようと、あるいは裸だろうと、君になんの不都合があるかね? ハインラインの『人形つかい』だって、どシリアスな場面で全裸だからギャグと紙一重なのだぞ」
「はあ」
そんなこと言うならもっとマシな服装をすればいいのに……とはさすがに言わない。
だって、目が怖いんだもの。
最初に診察室に入ったときはおだやかなおじさん、って感じだったのになあ。
「はあ、じゃないだろ。とにかく、何か問題があるかね?」
「ありません」
「よろしい。まあ、今言ったとおり経過は極めて良好だ。もう通院しなくても大丈夫。城君にもそう言っておく」
「ありがとうございます」
待合室に出て、支払いの順番を待つ。
多くの患者や医者、看護師、あるいは作業服姿のスタッフが行き交う。
彼ら彼女らも、人それぞれに自分自身の病魔と闘っている。
それは間違いない。
ぼく自身、今日まではその中の一人だったのだから。
でも、それがどうしたというのだろう?
彼ら全員を犠牲にしても、斉藤さんが助かるのであればぼくは躊躇無くその方法を実行する。
これは、あまり褒められた考え方ではないかもしれない。
いや、非難されてしかるべき邪悪そのものだ。
でも、ぼくの正直な気持ちを言ってしまえば、それなんだ。
どうして。どうして斉藤さんが不治の病に苦しまなければならないんだ!
もしかすると斉藤さんは全然別の、それでいて治る病気で、中二病覚めやらぬ痛い子の斉藤さんは、自分のことを不治の病だと思い込んでいるだけだとしたら。
それが一番いい。
もしもそうなら、腹の底から本気で笑ってやる。
そして将来この事を話すと、枕かクッションに顔を押しつけて、足をジタバタさせて悶える。
ぼくはそれを、腹を抱えて笑いを堪える――。
「やあ」
そんな妄想は、現実の前に打ち破られた。
白い患者服を着た斉藤さんが、ぼくのすぐ後ろで手を挙げたんだ。
ニコニコと。
まるで、仲の良いクラスメイトと道でばったり会ったみたいな顔をして。
「山田くんも来てたんだね。わたし、今日からまた検査入院なの」
「そう……今度はどのくらい?」
「そうねぇ……」
斉藤さんは顎に手を当てて考える素振りをした。
「たぶん、一週間くらいかな」
心の中で、ホッと胸をなで下ろす。
いや、良くはないけど。とりあえず、今すぐにどうこうということは無さそうだ。
「ね、病室教えてあげる。こっち」
「う、うん」
斉藤さんはぼくの手を取って歩き始めた。
この時、ぼくは斉藤さんの細くて少し冷たい手に触れたんだ。
儚い、という言葉がぴったりの、まるでガラス細工みたいなこわれ物。
ぼくなんかが触れていいものだろうか、ぼくの手はスコップや鍬でマメができているし、薬品で肌も荒れているのに。
エレベーターをに乗って三階へ。
ちなみに三階の上は五階だ。四階は無い。
ナースステーションを抜け、一番奥の病室へ。
四人部屋の窓際のベッドが斉藤さんらしい。
とりあえず、ぼくは本当に胸をなで下ろした。
ナースステーションからの距離は、近いほど重篤な患者だからね。
一番奥ってことは、本当にただの検査入院みたいだ。
斉藤さんはベッドに腰を下ろし、ぼくに横の丸椅子を勧める。
言われるままに、ぼくは腰を下ろした。
「ねえ、山田くん」
「うん」
「部活、どう? 楽しんでる?」
「どう、って言われても。天気が相手だからね。今年はちょっと雨が少ないみたいだから、水やりはちょっと大変かな。基本、丈夫なものばっかり選んでるけど」
斉藤さんはかぶりを振った。
「そうじゃなくて……聞き方が悪かったわ。ほら、あの一年生の子。あの子とはどうなの?」
「ああ、雲雀ヶ崎るな。よく頑張ってくれてるよ。華奢なのに重たい肥料や農薬を頑張って運ぶし、ぼくが居ない間も花壇を世話してくれた。よっぽど草や花が好きなんだろうな」
「好きなのは、草や花だけかしら?」
斉藤さんはニヤニヤといたずらっぽい笑みを浮かべると、とても嬉しそうな目でぼくを見てきた。
「どういうこと?」
「少し前、彼女に廊下で呼び止められたの。なんて言われたと思う?」
「さあ……」
斉藤さんは唇をキリッと一文字に結ぶと、ぼくを怖い顔で睨み付けた。
ものすごく怖い顔で、正直震え上がりそうだ。
「山田先輩と、どういったご関係なんですかっ! ……って。あれはもう、今でも震えるくらい怖い顔だったわ。声も震えて、顔も真っ青で、濡れた子犬みたいに震えていたのに、目だけが真っ赤に燃えてるみたいだったわね。……なんて答えたと思う?」
そんな話はこれっぽっちも聞いてない。
何それ、ちょっと勘違いしちゃうよ?
「な、なんて答えたの!?」
斉藤さんは打って変わってとても楽しそうな笑顔になった。
でも、ぼくの心臓はものすごい勢いで頑張っちゃってる。
「オトモダチ、よ」
「……そっか」
少しの安心と、少しの寂しさ。
でも、とりあえず嫌われている訳じゃないみたいだ。
それがわかっただけでも、今はじゅうぶんだ。
「雲雀ヶ崎さんと、ベンチに座って仲良くお話してたでしょ」
「見てたの?」
切れ長の、笑ったような目を両手の人差し指で差す。
いや、この目は間違いなく笑っているんだ。
「ええ、この目でしかと。危なかったわ、刺されて別の理由で入院してたかも」
「そんなことは絶対ないよ」
雲雀ヶ崎は耕した土から出てきたミミズすらも殺さずに脇に置くような、優しい性格だ。
「わかってる。そんな子じゃないよね。うん。ちょっとイジワル言ってみただけ」
「でもぼくは――」
「待って。後にしましょ」
何か医療器具を載せた台車を押して、看護師さんが入ってくる。
なんてタイミングだろう。
言いたい事があったのに、斉藤さんは言わせてくれなかった。
一方で、少しホッとしているぼくもいる。
こんなんじゃ、ダメなのに。
「男性の方は、外に出てください。この後、午前中いっぱいは面会謝絶となります」
「あ、いえ。もう行きます。じゃあまたね、斉藤さん」
「ええ。また」
斉藤さんに見送られ、廊下に出る。
看護師さんも付いてきて、ドアを閉めるみたいだ。
「いい子じゃない。大事にしなさいよ」
「えっ――」
斉藤さんに言い返す間もなく扉は閉じ、鍵の掛かる音がした。
「どういう意味だよ、それ……」
*
そもそも、雲雀ヶ崎はどうして斉藤さんを問い詰めたのか。
鈍いぼくでも、やっぱり理由は一つしか思い浮かばない。
でも……でも、答えを聞く勇気は、ぼくにはない。
ひどい男だ。最低最悪だ。
要するに今がぬるま湯で、できればずっとこのままでいたい。
そんなぼくのワガママなんだよな。これは決して褒められた感情じゃない。
考えた。悩んだ。たぶん、いや間違いなく今までの人生で一番。
学校へ行き、授業を受け、畑を耕し、終わったらバイトをする。
じっくり考えたいのに、世の中ってのはどうしてぼくを放っておいてくれないんだろうな。
注文を間違えて店長に怒られた。
けど、店長には悪いけどそんなものは大した問題じゃない。
雲雀ヶ崎の視線に、斉藤さんの影響が無いはずが無い。
以前とは明らかに違った視線を向けてくるし、ぼくの身体に触れる回数だって増えていた。
その視線の中に、不安と焦りの色が増えているのがはっきりとわかる。
知ってるんだ。ぼくと斉藤さんのことを。
そして、ぼくの気持ちまでも。
寝ても覚めても、いやむしろ何日も眠れず、考えに考え、ひたすらひたすらひたすら悩み抜いた末、理屈より感情に従うべきだと結論した。
だってそうだろう。
理屈で選んだなら、それははっきり言って打算だ。
そんなものに何の価値もない。
いや、価値がないどころかそんなものは嘘だ。
最低最悪の嘘だ。雲雀ヶ崎にも失礼だし、斉藤さんにも失礼だ。
それに何より、ぼく自身を騙す事なんてできやしない。
体重は五キロ減ったし、一本だけ白髪を見つけた。
まあ、それすらも大した問題じゃない。どうせぼくの都合だ。
とにかく、決めた。
だからその日、下駄箱の手紙という古典的な――それだけに絶大な破壊力を持つ――方法でぼくを呼び出した雲雀ヶ崎に、ノーを突きつける事ができた。
雲雀ヶ崎は泣いていた。
でも、ぼくに慰める資格はない。
すまない。申し訳ない。許されるのであれば、この場で腹を切ってでも詫びたい。
でも、今はまだその時じゃない。
ぼくだって辛い。
でも、雲雀ヶ崎はその何倍も何十倍も辛いはずだ。
嘘はつけない。
今は雲雀ヶ崎に何を言っても嘘になる。
だから、ぼくは何も言えないし、言わない。そんな資格はない。
「何を言っても嘘になる、ですか?」
「えっ」
「あたし、ずっと……中学の頃からずっと見てましたから。たった一人で、誰かが褒めてくれるわけでもないのに、ひたすら畑を耕す姿を見ていました。誰も気にしてなかったけど、先輩がとっても優しい人だってことはわかってたんです。るなだけが知っていました」
「…………」
「ずっと見てたんです。だから、山田先輩の考えていること、全部わかっちゃいます」
「雲雀ヶ崎……」
「だから、顔を上げてください。男の人に土下座させるなんて、なんかこっちが悪い気分になっちゃいます」
ぼくはようやく顔を上げた。
雲雀ヶ崎はとても悲しそうな顔をしていて、見ていられない。
でも、目をそらしてはいけない。
「でも、悪いのはぼくだよ。やっぱり」
「はい。でも、最悪からは二番目です」
「二番?」
「他に好きな人がいるのに付き合ってもらうのが、一番最悪ですから。だから先輩」
雲雀ヶ崎は制服のポケットからハンカチを取り出すと、ぼくに差し出した。
「涙、拭いてください。唇もそれ以上噛んじゃだめです。手のひらだって、傷が四つもあったらバイ菌が入っちゃいますよ。もうおおきいんだから、泣いちゃだめ。……ね、先輩」
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