夏・5話

 八月最後の日曜日だったのを覚えている。


 彼は自分の頭が丁度5cmほど上に浮いているように感じていた。一日に、流れるプール、ウォータースライダー、ジャグジー、露天風呂までを詰め込んだ12才の体にとってそれは当然の反応だといえるだろう。彼は浴衣のフトコロに入れたカギの重さをもてあそびながら、程よくクーラーの効いた旅館を歩いてゆく。スリッパにつっこんだ素足がジュウタンを踏むふわふわとした感触も、彼の頭をふんわりと浮かせる手伝いをしていた。


 妹はもう部屋で寝てしまっていて、両親も疲れたといって二度目の温泉に入るつもりは無いようだった。だからこの時間になると男湯と女湯が入れ替わって露天風呂に入れるようになると聞いた彼は、父親からカギを借りると一人で外の廊下へと踏み出したのだ。

 そうやって本日二度目の露天風呂にゆっくり浸かっていると、ホテルの従業員さんがもうおしまいだと知らせにきた。なので仕方なく浴衣に着替えてラムネを買った彼は、ウチではない匂いとしか言いようがない空気に包まれて、旅館をふわふわゆらゆらと歩いていたのだった。


 旅行の土産を横着してここで買ってしまおうと思ったら、お店はもう閉まっていた。本日は終了しました、という札の掛かった薄暗い店内と商品にかぶせられたビニールカバーがなんとなく物悲しい。もうすぐ夏休みも終わるしなぁ、と考えそうになって彼はぶんぶんと頭を振った。浴衣からカギをとりだして、やけに大きく四角いプラスチックの中の部屋番号をじいっと見つめる。この5220に帰ってしまったら、夏が終わってしまうのだ。そう、この二泊三日の旅行ももう明日帰るだけ。明日にはまた渋滞とインターチェンジのマズいご飯と妹の不機嫌な顔が待っていて、次にきっちりと戸締まりをした家の少しほこりくさい空気が彼を出迎え、そして、学校が始まる。別に、学校がそんなに嫌いって訳じゃない。ただ、夏休みが終わってしまうのが悲しいだけだ。そう、小学生最後、の夏休みが。


 彼はそんな気持ちで部屋へと運んでくれるエレベータを横目にみながら通り過ぎた。もうちょっとだけ。あとすこしだけ時間が欲しかった。こうして彼のふらふらとした散策は幕を開けた。


 一階は特に異常なし、だった。露天風呂への入り口、閉め切った土産物のお店、つねにぴしっとしたスーツの人がいるロビーのカウンタ。それだけだ。従業員さんに愛想良く挨拶を返しながら、彼はエレベータもエスカレータも通らずに非常用と書かれた階段を上って二階へと昇る。


 そこは一階と比べると随分狭いフロアのようだ。彼は、一階と同様に突き当たった廊下から右回りに探検を始める。宴会用の大部屋、百円で動くマッサージ椅子の列と大きなテレビの部屋、CLOSEDの札が掛かったなんだか分からない小さな部屋。そうして歩く彼の耳に、聞き慣れた機械音の喧噪が届いた。彼はうれしそうに顔を上げると、その方向に向かって早足で歩き出した。


 やけにゆっくりと開くボタン式の自動ドアをくぐると、中に入った途端にぶわっと襲いかかる音の洪水。彼は、この瞬間が好きだった。どうやらホテルにくっついているゲームセンターにしてはなかなか大きい方のようだ。全部で20台くらいだろうか、まん丸いブラウン管が光るいつのだか分からない格ゲーから、彼がよく遊ぶ音ゲーのいっこ前のバージョンまで結構バランスよくそろっている。そして彼は早速お財布から百円玉を取り出して、ゲーム機のボタンをたたいた。


 そして、すぐに彼は首を傾げた。ゲーム台に入れたお金を示すCREDIT(S)の横の表示が、横に引かれた線一本になっていたからだ。彼はこんな表示を見たことが無かった。いつもならお金を入れていない時は当然0、コインを投入すると初めて1と表示されるはずなのに。彼は疑問を感じつつも、そのままボタンを押して操作を続けた。

 と、ゲームが始まった。

 ウェルカム、という陽気な声に画面を所狭しと飛び跳ねるキャラクタたち。彼は少し慌てながらゲームの設定を進めていく。前の人がコインを入れっぱなしにしていたお陰でタダで遊べたことはこれまでに何度かあったけれど、今回は何か違うらしい。CREDIT(S)の横に並んだマークは、やっぱり、マイナスのままだった。


 彼は1プレイを終え、こっそりもう1プレイ試してみてから(やっぱり遊ぶことが出来た)店員さんを探しはじめた。正直言って惜しいけれど、やっぱり故障してるのを放っておいて遊ぶ訳にはいかない。


 そうやってゲームセンターを見て回るうちに、彼は二つのことを発見した。


 ひとつ、どうやらいまここのゲームは全て、ボタンを押せばいくらでも遊べる状態だということ。 

 そしてふたつ、いまゲームセンターには、だれも人がいない、ということ。

 彼もさすがにおかしいのではないかと思いはじめた。確かにご飯もお風呂も終わった微妙な時間とはいえ、一人もいないというのはどうもおかしい。仮にお客さんがいないことを許すにしても、ホテルの人が一人もいないというのは異常だった。

 しかし、そう気付いた彼の顔には―――満面の笑みが浮かんでいた。


 一体、遊び放題のゲームセンターに閉じ込められること以上に面白いことがこの世にあるだろうか。彼は、そう自問する。

 いや、ない。彼はそう自答した。


 実際のところ、彼は自動ドアが開くかどうか調べるのを慎重に避けていたのだ。扉が開いてしまったら、お伽噺みたいに魔法が解けてしまう気がしたから。

 

 そうと決まれば一体何のゲームから遊ぼうかと、彼は弾む足取りでゲームセンターの奥へと進んでいった。




 肩を叩かれたのは、人生で初めて反射神経を試すゲームのエンディングロールを見、いつもクリア出来ないシューティングゲームを二周して、パズルゲームでうんうんうなっている最中のことだった。


「ねぇ、あたしホッケーやりたいんだけど」


 そのとき、彼の心臓は間違いなく2mは飛び跳ねたに違いない。びっくりして振り向いた彼は、背後にゲームオーバーという声を聞きながら、一人の女の子の姿を認めた。

 年は、彼と同じくらいにみえた。きれいに梳かれた栗色の髪、ピンクの半袖シャツにきらきら光るスニーカー、片手には小さなバケツ。慌てふためく彼を見つめる眼鏡の奥は、いたずらっぽそうに光っていた。


「あれさすがに一人じゃできないからさ。あたしユリっていうんだ。君は?」


 自分の提案が断られることなど想像もしていない、というような口ぶりだった。

 ユリと名乗った女の子は、訊いておきながら答えも待たずに歩き出して、どんどんゲームセンターの奥へと進んでいく。彼もその楽しそうな足取りに誘われるようについていった。


 ゲームセンターは、お世辞にも会話に適しているとは言えない。

 だから彼は、ユリと話すこともなく、その横顔を時折り盗み見ながら、隣りに座って一緒のゲームで遊んだ。


「それ、なんなの」


 やっと彼が口を開いたのは、アイスの自販機の前にあるプラスチックのベンチに腰掛けてからだった。ちょっと休憩、とお互い好きなアイスを買って(やっぱり無料で出てきた)、二人で隣り合ってアイスをなめている沈黙で十分居心地がいいのに、なんとなく気づまりで、話さなければいけない気がして、どうでもいい質問をしてしまう。なにもかも、彼には初めての経験だった。

 「それ」とはユリが大事そうに抱えている、安っぽい青色のバケツのことで、ちょうどザリガニ釣りに持っていくのにぴったりな大きさをしている。


「これ?ゲーセンのコイン入れだよ。次はこれやろうか」


 そう言って彼女はベンチから立ち上がるとアイスの棒をゴミ箱へと放り込んだ。その軌跡をみながら、彼はあさましくゆっくりと食べていたブドウ味を大きく齧りとってゴミ箱へと後を追わせた。


 向かったのは、彼がゲームセンターでもいままで踏み入れたことの無い、賭け事のゲームが並んでいるコーナーだった。くるくると回る電子画面のスロットの横ではけばけばしい色合いの道化師がトランプのカードを配っていて、その向かいには水着の女の子が微笑むパチンコが置いてある。競馬のゲームだろうか、小さなプラスチック製の馬がちょこちょこと走っているゲームもあった。

 そしてユリは、そんな中でも一際おおきいゲーム台の前に座った。それはとても複雑そうな機構を持った装置で、まるでマンガの中の宝箱みたいにコインを満載している。どうやら上下二段あるうちの手前の段にタイミングよく自分のコインを落として、ゆっくりと動く後ろの段に押し出してもらうゲームらしい。


「最初、やってみる?」


 そう言われて、彼は機械に突き刺さった短剣のような投入口におそるおそる一枚のコインを滑りいれた。金属の筒を小気味よく転がっていくコインは、しかし奥の段の方へ落ちてしまい、ゆっくりと動く台を少し豪華にしただけに終わった。


「下手だなぁ。貸してみなさい」


そういってユリは彼を押しのけてゲーム台前の椅子に座ると、いきなりぽんぽんぽん、と何枚かのコインを連続で入れた。

 コインたちは(彼のものと違って)ちょうどよいタイミングで手前の段の奥の方へ落ちると、ゆっくりと往復する奥の段によって十枚ほどのコインが押し出され、払い出し口へと落ちてきた。


「わ、上手い」


ユリはふふん、という顔をしてその黄金色の群れをバケツに空けた。


「これ、あげる」


ユリはそういって一枚のコインをピンとはじいてよこした。彼はそれを慌てて掴み取る。


「それ以外は貸しよ。減らしたらベンショーしてもらうからね」


 そうしてコインゲームを楽しんだ後、エアホッケーにバスケのフリーシュート、人生で初めてのダーツなど、その全てで完璧な敗北を喫した彼は、一息つこうとユリに言うと、破けて中の綿が飛び出した革張りの長椅子に座り込んだ。

 ユリはちょっと待って、と言ってから自販機の前へ立つと、さも当然のようにお金も入れずにボタンを押し、コーラの缶を二つ手に持って戻ってくる。


「はい、ノドかわいたでしょ」

「あ、ありがと」


 そう言ってプルタブを開けた途端、コーラがすごい勢いで吹き出してきた。横目で見るとユリは目の端に涙を浮かべて笑い転げている。

 彼は吹き出るコーラを片手で必死に受け止めながら、彼女に恨めしそうな視線を送ろうとした。


 が、無理だった。彼も、一緒に笑い転げた。

 彼女の上の名前はなんなのか、いくつなのか、どこからきたのか、このゲームセンターはおかしくないか。そんな、話すべきことは幾らでもあったけど、彼らはほとんど会話もせずに、ただ笑い合っていた。




「ほら、そろそろ起きなさい。朝ごはん食べれなくなっちゃうわよ」


 彼はゆっくりと目を覚ました。彼にしては珍しく、目を覚ますのがもったいないような何かがあった気がしたから。


「お父さんと弥子ちゃんは先に行っちゃったわ。全く、ねぼすけは誰に似たのかしらねえ」

「ふあーあ、おはよ。朝ごはん……?」

「バイキングは9時までってあれだけ言ったでしょ。昨日は一体なにしていたの」

「昨日はあの後お風呂にいって、それで……それでどうしたんだっけ?」

「しらないわよ、私も早く寝ちゃったから。それより浴衣でいいから早く着替えちゃいなさい」

「はーい」


 バイキング形式の朝ごはんの後、彼は自室のベッドに膝から上だけ横になって、夏休み明けの教室まであと幾つのトビラがあるだろうか、なんてことを考えていた。


 それはきっと、完璧な凪のような手持ち無沙汰と、母親がしきりに勧めてきたヨーグルトとフルーツで満杯のお腹と、よく効いたクーラーにふやかされた頭が生んだ感傷だと分かってはいたけれど、同時にこれはもしかしてすごい真理を見つけたんじゃないか、とも思う。

 そう、トビラは開いたら閉まる。閉まったら開く。だからトビラなのだ。そして、彼の夏休みのトビラは、どんどん閉まっていく。


「このまま、ここに、閉じ込められたらな」


 その独り言が口からこぼれた丁度そのとき、ガチャン、と音を立ててカギが開いた。ただいまー、と朝風呂に入っていたお父さんたちが返ってくる。


「それじゃママとパパは支度してるから、弥子と一緒にロビーでお土産でもみてたら? 野球のお友だちに配る分も忘れないでね」

「分かったー。ヤコ、行くぞ」

「うん」


 そうして彼と妹は廊下を曲がって5F、と大きくエレベータの前にたどり着く。いまは二基とも屋上階へ向かって上昇しているようで、トビラが開くまではもう少しかかりそうだ。

 表示パネルから横にそれた彼の視線は、エレベーター横に据えられた自販機へ止まった。


「なんか飲みたいものあるか?」

「え、買ってくれるの!」

「ママにはナイショだぞ」

「さっすがにーちゃん。じゃあコーラお願い」

「ヤコはいっつもそれだな。ぼくもコーラにしよっと」

「あれ、にーちゃん炭酸ニガテじゃなかったっけ」

「……たまに飲みたくなるんだよ」


 そして彼は自販機のコーラのボタンを押した。なぜか、お金を入れる前に。

 もちろん自販機は、いかにも自販機らしく、うんともすんとも言わない。

 妹が不思議な顔で彼の方を見ている。彼も自分自身が不思議だった。なんでこんなことをしたんだろう。


「えっと、120円、だな」


 彼はそんな分かり切ったことを言ってごまかしながら、財布をポケットから取り出してマジックテープを開き、小銭入れに指を伸ばす。10円、100円、10円・・・じゃない。なんだろ、このコイン?

 10円玉くらいの大きさの、やけにツルツルした硬貨が財布の奥に入っていた。取り出してよく見てみると、それは国が発行している硬貨とは違って、真ん中にロゴのようなものが安っぽく輝いている。


 へんなの。


 そう思った彼は、なぜか、それを大事そうに左手の掌の中に握りしめると、きちんとお金を払って二人分のコーラ缶を買った。

 エレベータの扉は、まだ開かない。

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幻によろしく / One Summer's Day 山川由行 @yymkwa

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