冬・3話

「会川さん、とおっしゃるんですね。会川さん、私はね、真面目に生きてきました。親が私に教えたことは二つです。真面目にやれ。人様に迷惑はかけるな。


 確かに、一位をとったことは一度もないです。ですが、私はいつも上位一割でした。他の奴らが遊んでいるときに勉強し、同級生が恋人と過ごしている時間に復習し、同僚が怠ける言い訳を考えている間に試験を受けてきました。


 要するに、名門大学、一流企業、上流の邸宅とそれに付随する豪勢なあれやこれや。それが私の勝ち取ったもので、それが私の全てです。


 見合いで妻を娶りましたが、どちらが悪かったのか子はおりません。タバコも、酒も、パチンコも……麻雀も風俗も麻薬も、とにかくそういったものには一切手を出さずに今まで過ごしてきました。ゴルフと野球は嗜みはしますが、仕事一筋、というやつで、道楽も趣味もありません。その御陰で、母親が病床に臥せったときも、先日妻が突然倒れたときも、死に目にすら会えませんでした。


 長くなりましたが、私は先日嘱託の任期を終えました。私の前には膨大な金と、年の割には健康な体と、そして死ぬまでの時間があります。


 さて。

 それで、私は一体、何をすればいいのでしょう?」


 和泉いずみと名乗ったその老人は、形の良い指を組み合わせ、後悔や慚愧というよりは真摯に神に問う調子で彼に語りかけた。

 糊の利いたシャツと、櫛目のよく通ったロマンスグレーに、瀟洒な革靴。この雨模様なのに染み一つすらない。

 何かに自身の主体性を明け渡し、その結果裕福になった人たち。

―――彼らこそが、会川にとって最上の客であり、同時にもっとも厄介な客でもあった。


「それでは、まず手始めに、をしてみましょうか。何しろここは夏屋、ですからね。一応のご確認なんですが、紹介はどなたから?」

瀬良せら、といえば伝わると。また夏屋には全て正直に打ち明けるように、どうせ無駄だから、とも」

「承知いたしました。

 ではまず、簡単にこの店について紹介させていただきます」


 いつものように夏の写真を渡さなかったのは、彼は今のままでは幻の夏を一切受け入れないからだ。確固たる現実を二本の足で歩き続けてきた彼のような人たちは、不確かな幻日を彷徨う会川と相性が悪い。

 だからまず、彼らの流儀に則て理性的に説明をする必要がある。


「簡単に言うと、私の仕事は、あなたの想像を、あなたに植え付けることです。

 年を得るとたまにありませんか、あれは私の本当の過去だったんだろうか、それともただの想像だろうかって思うことが。

 私は、それを刷り込ませることができるんですね、あなたの想像を、昔しっかりと経験した、あなたの過去だ、と。

 私はこれを、幻を<貼る>と呼んでます。

 ここで覚えておいてほしいんですが、植え付けるのはあくまでも『あなたの想像』であって、私はそこに関知することは出来ません。まぁ経験してもらえば分かると思いますが、なので都合良く騙されるんじゃないかとか、洗脳されるんじゃないかといった心配は不要です。すこし慣れれば、実らなかった初恋を成就させるのも、不仲だった両親との楽しい家族旅行も、活劇の様な青春も、全てがあなたの過去、になります」


 現在いまを幻で遠ざけるのではなく、過ぎ去った時間を編纂する。それが、幻と折り合いをつけるために会川が選んだ方法であり、職業だった。


 言ってしまえば、過去という概念自体が幻だ。現実は現在いまという極小の面積を持つ端点のみに存在し、そのすえかた現世うつしよに生きる存在では触知し得ない。つまり人間は、膨大な記憶の中から<現実>というタグのついた情景を時系列順に並べ、その継時的な連なりを、ちょうど写真の連続を動画というように、過去と定義しているに過ぎない。


 そんな、ただビデオを回し続けた結果のような動画の山を、編集し、台本を書き、潤色する。そして、どうにか映画と言えるような作品へと仕立て上げる。それが夏屋の仕事だ。


「ただし、ひとつ注意なのですが、私はお客様の身に危険が及ばない限りの範囲で仕事させてもらっております。これは十割私の独断と偏見で判断しているのですが、極端な話、あなたの昨日の行いをまるまる<貼り>かえて、どこか遠い国に行っていたことにしたとしましょう。するとどうなるか、は御想像の通りです。

 周りと話が合わない。会社で支障を来す。白い目で見られる。もしかしたら、医者にかかることをお勧めされるかもしれません。そうなるのはあなたも嫌でしょうし、私も商売柄避けたいところです。なので、<貼る>内容については出来れば現在や未来に関することは避けていただきたい。なので、例えば遠い過去のあの夏、をおすすめしている次第です。」

「本当に、そんなことができるんですか」


 勿論、彼のような人種はこれだけの説明で信じるようなことはしない。


「だからこその夏屋です。話は変わりますが、お客様は自由意思、というものを信じますか?」

「自由意思……ですか? はい、まあ、人並みには」

「では、少し衝撃的なお話になるかもしれませんがお聞きください。私は昔からこの幻というのが見える体質でして、自分の現実をいくらでも都合の良いように変えられるんですよ。便利だと思いますでしょう。でもこれも色々と大変でね。いまはこんなですが、昔は公務員とか、とにかくあまり目立たない仕事に就こうと思っていたんですよ。それで大学にいたときに、埋め草で取った心理学の教授が面白いことを言ってましてね」


 どんなに狭い隙間でもいい。水がほんの僅かな罅割ひびわれすら見逃さずに浸み込むように、理性が少しでも<>を認めさえすれば、会川はそこへ入り込める。


「いま、目の前のコーヒーカップを持ち上げるとしましょう。……はい、持ち上げました。いま、私の脳みそは『カップを持ち上げよう』と思ったはずで、私の筋肉は『カップを持ち上げる』という動きをしたはずです。ここまでは問題ないですよね?」

「……はあ」

「そこで、この二つの動きをちゃんとした機械を使って測ったとします。さて、脳と腕、どちらの動きが先でしょうか?」

「……そりゃ、脳の方でしょう。何をするにしろ、まず脳が命令するものだと思いますが」

「人間誰しもそう思いますよね。脳が指令を出して、筋肉がそれに従って動いた、と。でも、実は逆なんだそうです」

「逆?」

「ええ。つまり、私たちは『カップを持ち上げて』から、『カップを持ち上げよう』と思うんです」

「……それは、何かの冗談ですか?」

「いえ、からかっている訳ではありません。まったくの真実です。調べていただければ、ちゃんと論文も書かれている」


 正確にいうと、ごく短い時間のみ自由意思は存在する、というのが最新の学説らしい。が、会川はそこまでは説明しない。

 とにかく、今まで信じていた現実が歪み、それだったら、もしかして、と思ってもらえればそれで良かった。


「その教授は、人間の脳を映画監督になぞらえていました。これまでそう信じられていたように、身体という複雑怪奇なシステムの司令官、ではなく、五感から送られてくる信号を手際よく編集して<現実>という作品を作り続けている、とても勤勉で有能な監督だ、と」


 和泉は口を挟むことなく、眉に皺を寄せたまま聞いている。


「ふつう、ある映画がどんなに好きでも、その監督と会って話す機会なんてないじゃないですが。あのシーンは最高でしたが、音楽はいかがなものでしょう、なんて。

 でも、私はそれができるんですよ。何の因果か、その映画監督と生まれついての親友なんです。しかも類は友を呼ぶってやつで、私はあなたの<現実>の監督とも握手ひとつで仲良くなることができる。そして彼と気の置けない関係になったら、ここはこうしたらどうだ、なんて指図するわけです。あのエピソードはやっぱりハッピーエンドにしましょうよ、なんてね。どうです、簡単でしょう」


 会川は目の前の老人の目に、理解と、疑惑と、そして縋るような色を認めた。そんなことはある訳がない。しかし、もしあるのだとしたら―――。


 これで彼が夏を受け入れる確率はやっと半々くらいになっただろう。会川は立ち上がり、いつも通りに夏の写真を束ねてそれを差し出す。


「それでは、この中から気に入ったものを一枚、選んでみてください」

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