夏・1話

 彼女は夕日に照らされた校舎の屋上で、細い月を眺めていた。昼間にも月が浮かんでいると習ったのは、三年生の頃だっただろうか。


―――薄ぼんやりとマンションの上に浮かんだあの形は、切ったあとの爪に似てる。


 手を目の前に持ってくると大分爪が伸びていた。それもそうだ。もう、ピアノやめて半年が経っている。大泣きまでして買ってもらったアップライトの恨めしげな視線にももう慣れて、母親の小言も絶えて久しい。だいたいあの人は、どうせ私の娘なんだからと見限っているところがある。一人っ子というのは、兄弟の顔色を伺わなくてよい分そういうところに鋭いものだ。


 そりゃ、私は綾乃ちゃんみたいにカワイくはないけどさ。彼女はプールに浸した足でばしゃばしゃと水を跳ね上げながら考える。


 もう少し、なんというか、必死になってくれてもよくない?


 といっても、もし母親が英会話やらバレエやらを押し付けてきたらそれはそれで鬱陶しいだろうな、と考えるあたりコドモゴコロってやつは複雑だ。


 水面で千々になっていた夕陽が一つへ戻っていくのとは反対に、彼女の頭のなかは色々な考えで乱れていった。全く手をつけていない自由研究のこと、来年統合される小学校のこと(柳小はチアンが悪いってウワサだ)、「保健体育」のこと、ドタキャンされた海水浴のこと、その他カタチのはっきりしない、いろいろとしか言えないようなこと。


 はぁ、とため息をついてパタリと後ろに倒れ込んで目をつむった。プールの暖まったタイルが背中に心地いい。


 顔に、温い水が掛かった。


「っなに!」

「あはは、ユダンしちゃって。あたしが戻ったのくらい気づきなよ」

「考え事、してたのよ!」


 水色の薄いワンピースを着て、きゃらきゃらと楽しそうに笑っているのは綾乃ちゃんだった。どこからどうみても図書室と百点満点の答案用紙がよく似合う女の子で、実際に普段はおとなしい優等生のふりをしているが、何を隠そうこの綾乃ちゃんこそが今日の不法侵入を企み、彼女をそそのかしてつれてきた主犯である。


「お祭り、どうだった?」

「いつもとおんなじだよ。射的、くじ、りんご飴、七夕飾り。もう飽きちゃうよね」

「とか言って、ずいぶん楽しんできたみたいじゃない」


 彼女は綾乃ちゃんが手にぶら下げた透明なビニール袋を指差した。そこには当惑顔の赤い金魚が、袋の水の狭さに気付きたくないかの様にゆっくりと泳いでいる。


 今日は夏祭りの日だった。この町は市の中でも祭りが回ってくるのが早い方で、夏休みの前にお祭りをすませてしまう。


 それで綾乃ちゃんは、先生方が見回りにいっている今日なら学校に侵入できると考え、結果、まんまと成功させたのだ。実際学校に忍び込むのは驚くほど簡単だった。金曜日の放課後、帰る前にこっそりとあけておいた窓の鍵。思えばあの窓の前にたったときが一番ドキドキしていた。窓の鍵は用務員さんが閉めてしまったのではないだろうか。いまにも先生に、コラぁと怒鳴られないだろうか、今の私たちを誰かがこっそりと見ていないだろうか―――しかしそんな心配とは裏腹に窓はあっさりと開き、まるで少女たちを招待するかのように迎え入れた。


「あと二週間、か」


 彼女と同じようにプールに腰掛けた綾乃ちゃんは、空を見上げてぽつりと呟いた。聞き返さなくてもそれが何を言っているのか分かってしまう。そう、この校舎はあと二週間の命なのだ。いま彼女たちのいる屋上プールも、校門からすぐ右にある飼育室も、まだ一度も行ったことのない体育館の別棟も。べつに、夏休みになった途端にすぐに壊されるってわけではない。けれど、夏休み明けに彼女たちが通うことになるのは柳小の新校舎だった。


「なんか、大変だよねぇ」


 彼女がそう答えると、綾乃ちゃんは黙って彼女のそばで横になった。彼女と同じ様に、ぱしゃ、ぱしゃ、とやる気のない音を出して水をかく。


「大変、だねぇ」


 間延びした声に乗ったたいへん、の響きは、ちっとも大変そうなんかじゃなかった。

 なんとなく、いまの時間がずっと続けば良い。そう思った。




「ねぇ、あれ……。なんかヤバそうじゃない?」


 綾乃ちゃんの声で、彼女は半分眠りかけていた頭を起こして彼女が指差す方に目を向ける。見ると、目に沁みる白さの入道雲が空の半分くらいを占領していた。いつの間に、と彼女は不思議に思ったが、考えてみればどれくらいこうやって寝転がっていたのか覚えていない。


 みるみる間にそのぶ厚い雲は空の残りを覆っていく。が、彼女の頭は、プールの匂い、夕暮れの微睡み、左手に感じる日に温もった水たまりの暖かさで、そんな現実との間に一枚紗が架かっていて。


「入道雲って、おいしそうだよねぇ」


 彼女は右の掌に出来たタイルの跡を、慎重にもとの凹凸に重ね合わせながらそう言った。


「……まー、ふかふかはしてそうだね。ホットケーキみたいにさ」


 そんな彼女の様子がうつったのか、綾乃ちゃんもやっぱりのんびりと答えた。屋上から眺める夏の雲は地面から眺めるそれとは違って、なんだか親しげに見えたのだ。


 そうして空の成り行きを見守っていた彼女たちがいよいよ大変だと気付いたときには、事態はもう退きならないことになっていた。周りが随分と暗くなったなぁなんて考えていた彼女の頭にぽつりとが一滴落ちてきた時には、プールの水面をみればもう幾つもの波紋が広がっていて、それから一分のうちに雨の勢いは蛇口をくるくる回すように強くなり、最後には蛇口そのものが吹っ飛んでしまったような土砂降りになった。


 彼女と綾乃ちゃんは、顔を見合わせ頷き合うと、同時にプールの中へと飛び込んだ。ひんやりとしたプールの水に比べ、顔に降り注ぐ雨はぬるく、気持ちがよかった。

 あの明るい色のプラスチックの輪っかの連なりで仕切られていないプールは、校庭のグラウンドくらいに広く思えた。なんで雨が降ると水泳は中止になるんだろう、と彼女は思う。こんなに気持ちがいいのに。みんな、この楽しさを知らないなんてもったいない。


 そう、楽しかった。雷が鳴りだすまでは確かに楽しかったんだ。

 

 更に強くなった豪雨の地面を引っ叩くような音に重なって、ゴロゴロ、という紛れもない響きが聞こえた。

 すると、すっと熱が冷めるように楽しさやわくわくした気持ちはどこかへ消えていって、彼女の身にはただ雨に打たれている寂しさだけが残った。そう、彼女は昔から雷とピストルの音が苦手な子だった。そうして彼女はもどかしい速度で水をかき分け、プールからあがろうと必死に手足を動かす。


 と。


 真っ白なフラッシュ。

 直後、世界がひっくり返ったような音がした。

 

 そのとき彼女は、ほんとうに、死んじゃうと思った。


 まず神様に何でもしますからと祈って、次にパパとママに何度もごめんなさいをして、最後には冷蔵庫のシュークリーム食べておけば良かったなんてことまで考えた。


 体は咄嗟に水の中へと滑り込んでいて、彼女は、んだ水の塩素の匂いを直接肺で感じた。彼女は仰向けになって空気を吐き出す。おとといの授業でやった潜水の手順そのままに、彼女の体はゆっくりと沈んでいく。そうやって銀色に立ち上る気泡に紛れ、空はやっぱりぴかりぴかりと光っていたけれど、水に隔てられた雷は随分遠くにみえた。


 空気を吐き終えた彼女はプールの底へゆっくりとたどり着いた。背中につるつるとした感触を感じる。そのゴーグル越しに見える真っ青な視界は大雨によって十重二十重とえはたえぼかされていたけれど、そのはしっこが少し闇色に滲んできたような気がして、彼女はやっぱり死んじゃうのかも、と長閑に思った。


 けれど体というのは正直なもので、彼女の足は酸素を求める肺の号令に従ってプールの底を蹴っ飛ばし、もがく腕はすいすいと彼女の体を水面へと運んでいく。すると、まだ静かな雨と雷の音も聞こえてきた。

 しかし、体が水の幕を破るまであとひと息、その最後の一掻きのところで、さっきのぼんやりとした暗がりが彼女の視界を覆いだした。いままで体を動かしていたがむしゃらな力がそうっと抜けてゆく。そうしてまず最初に視界が沈み、次に体も沈む感じがした。けれどそれはなんだか酷く居心地がよくて、彼女は次の生まれ変わるならクラゲがいいなぁなんて考えた。


―――ところで。


 ぐい、っと右腕が引っ張られる。顔が水を割る。耳に戻ってくる凄まじい轟き。しかし、甘い空気を好きなだけ吸って、吐いてと出来ることに比べれば、もうそんなのはどうでもよいことだった。




 通り雨は、すべての通り雨がそうであるように、何の未練もなく降りやんだ。


「ギリシャの神話ではさ、一番偉い神様は雷を担当してるんだって」


 しばらくの後、綾乃ちゃんはしみじみとそんなことを呟いた。死んじゃうと思ったんだから、と泣きはらした目がまだ赤い。


「昔の人も、きっといまの私たちと同じ気持ちだったんだろうね」


 彼女は笑いながら、はぁ、と大きく息を吐いた。あんな経験のあとだと、ただ呼吸ができるということがずいぶんゼイタクに思える。


「これで虹でも見えたら、最高なんだけど」

「そこまでうまくいかないでしょ」


 夕立の後の涼しい風がすうっと抜けていって、プールサイドで寝っ転がっていた彼女はぶるっと震えた。

 フェンスに寄りかかってぼんやりしていた綾乃ちゃんの足音が、すぐ近くで聞こえる。


「何してんの」

「うち、金魚鉢があるの。ガラスのでっかいやつ」


 綾乃ちゃんはお祭りの匂いのするカバンから金魚の入ったビニール袋を取り出すと、彼女のすぐそばに腰かけた。


「どう思う?金魚に生まれ変わったら、金魚鉢に住みたい?」

「ちょっとヤだな」

「だよねえ」


 そう言うと彼女は立ち上がり、金魚袋の赤い紐を引いてプールへと向けた。


「ほれ君たち、でっかい水槽だぞー。私にすくわれて幸せだったな」

 

 ぱしゃり、と金魚を含んだ水がプールへと落ちていった。狭い袋から解放された金魚は、今度は水の広さに戸惑ったかの様に暫くぼんやりと丸のかたちをを描いていたが、一匹が、もしかしたら、と試す様にすいっとまっすぐに泳ぎだした。それが成功したらしいと知ると、他の金魚たちも、思い思いの方向に泳ぎ始める。


 薄暮はくぼの群青を吸ったプールの水面に、幾つかの赤い影がすうっとかれてゆく。


 重たい雲は過ぎ去って、きれいな三日月が顔を出していた。

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