冬・2話

 翌日はなかなか順調な客入りだった。冷たい雨が降る中、三人の男と一人の女が訪れ、不味くも旨くもないコーヒーを啜った後、会川と握手をして、明るい表情で帰って行く。


 そして午前四時前、会川が誰もいない店内で閉店間際に買った総菜パンを温めていたところに、もう一人客がやってきた。


 山宮吉乃やまみやよしのは、いつも静かにやってくる。


 どういう理屈かは分からないが、山宮が入ってくるとき風も摩擦もドアベルもほとんど音を立てない。だから山宮は、会川が気付いた時には臙脂の独り掛けソファと丸テーブルの指定席に座って、分厚い古本を読むか、大学ノートに何やら書き込むかしている。


「コーヒーでいいですか」

「やぁ大将。いいも何も、ここはそれ以外なにもないじゃない」

「本日限定で、総菜パンがいくつかあります」

「それ大将の晩……じゃない、朝ご飯じゃないの。折角だから一つ貰おうかな」

「メロンパン一つ、160円になります」

「へえ、お安い。さては半額で買ったな」


 山宮は、この店を夏屋ではなく喫茶店として利用している珍しい―――というより只一人の―――客だった。本人曰く、この時間帯に空いていて、座り心地の良い椅子があり、コーヒーが飲めて、煙草が吸え、且つ人の少ない店は、とても貴重だという。


 深夜と早朝の合間に単行本と万年筆を抱えて都会を逍遥しょうようする山宮が、なにを生業にしている人種なのか会川には分からない。けれど、会川はその客の存在を少しありがたく思っていた。


 夏屋にやってくる客は、会川の前で全ての欲望を曝け出す。墓場まで持っていくと誓った心の底のんだ傷口、決して奇麗には治らない仄暗ほのぐら瘡蓋かさぶた、まだ思い出が滲む生々しい瘢痕きずあと。しかし会川がそれを視るには、何度かの握手で十分だった。


 それを知りながら、日常の人付き合いが続けられるだろうか。


 きずに絆創膏を貼るように、過去へ綺麗な想像を<貼る>。それを商売とする以上覚悟してきたことではあったが、やはり連日続くと負担も大きい。そんな中、彼に心を見せびらかさない山宮という客は、会川にとって貴重な存在だった。


 会川が客の居ない時に読んでいる本も、ほとんどは山宮からの寄付だ。山宮はカフェにもともとあった棚を勝手に占領し、やっぱり喫茶は本くらい無いとといって夏を題材にした小説を見つけては放り込んでいる。

 当人の山宮は、マグカップのコーヒーを啜り細長い煙草を灰にしながら、やはり古本と首っ引きで何かしらをノートに書き付けている。ちなみにこの店のコーヒーはお代わり自由ということにしてあるが、二杯目に口を付けた客は今のところ山宮以外存在しない。


 そして四、五杯飲み干す分だけの時間が経った後。


「大将、ところでさ、私って何をしている人間に見える?」

「書生、ですかね」


 今日日きょうび書生って、と山宮はカラカラと笑った。


「そうだなぁ、売れない小説家、って言う風には見えない?」

「世の中には、ある夜ベッドの中で横になったまま決心するだけで名乗れる職業というものがいくつかあります」

「手厳しいね」


 そう言って山宮は大学ノートの一頁を丁寧に折って切り取り、会川の方へと差し出した。


「……なんですか、これ」

「私の美文名文をなんですか、とは失礼な。いやさ、私もさ、ただコーヒーだけを飲んでいるだけではね、営業的に申し訳ないなと思ってね。ほら、大将はお客さんにいつも名刺配ってるじゃない。それの後ろに印刷してみなよ」


 確かにその紙には、会川の仕事を小説様にまとめた短文が書き付けてあった。


「それで物笑いの種になれ、と?」

「どこまでも失礼だねぇ。私が大将を見込んでやってるっていうのに」


 内心、会川は多少の衝撃を受けていた。意識してはいなかったが、心の半分くらいでは山宮のことを、この<夏屋>を一切知らない、ただの風変わりで地に足の着いていない奇妙で胡乱な客だと思っていた。


「ヒイラギ様―――というか、大将のおばあちゃんにお世話になった人って案外少なくないんだよ。だからさ、くれぐれもバナナフィッシュには気をつけてね」


 ごちそうさま。そう言い残して、山宮は本と手帳を麻ひもで縛るとやはり静かに帰って行った。

 会川が『名文』の書かれた紙の裏に気付くのは、もう少し先のことになる。

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