10

 ――月光に照らされた巨石は鎮座している。

 目の前で鬼と人が生き死にを賭していても、どれほどの血が流れようとも、少女の涙すら、石は無言で見つめる。

 みなと同様に視えていないのか、否。

 それは“死”そのものの守り人なのだった。しっとりとした空気も流離いの微風も、その前では為すすべなく彷徨う。


 ずっと泣いているせいで、リウカの呼吸は辛そうだった。しかし透き通るような肌も、目元も鼻頭も、涙に濡れているが赤くなってはいない。

 ハナにはリウカが感情のまま泣いているのではなく、泣くという行為をしているというように見えた。まるで泣き疲れて終わりのわからなくなった幼子が、見かねた母親に手を引かれるのを待っているかのように。


 しかしその母親は、リウカがいくら頬を擦り寄せても地面に転がったままだ。

 ハナは自分の左胸に手を当てる。心音が速い。

 リウカのそばに膝をつくといやでもそれが視界に入る。ハナは一度目を閉じ、ゆっくり息を吸い込んで、吐いた。

 再び目を開けてもそれは同じところで、虚ろな眼球を剥いている。

 恐る恐る手を伸ばすと寄っていた蟻や蝿が逃げた。指先に触れた皮膚は乾燥していて、冷たい。

 そっと瞼を閉じさせると、それは眠る女の顔になった。


 ハナはほっとして、傍らの少女を見る。涙は時折瞬きをするとこぼれ落ちる程度に止んでいて、ハナを映す大きな目は潤んでいるせいかますます透き通ってみえた。

 鼻を啜るリウカの頭をそっと撫でて、ハナは右手の簪を握りしめる。


 ハナは簪の先を、髪の間に縫うようにして差し込んだ。左手で梳きながら広がった髪をまとめ、頭蓋骨に沿わせるように簪を動かしながら髪を纏わせ、くるりと返して再び深く差し込む。最後に前髪を分けて、リウカの表情が月明かりに照らされた。

 鏡を持ってくるべきだったかとハナは思ったが、リウカが瞠目しているので、その必要はないと思い直した。

 髪をまとめただけなのに、少女は少し大人びたように輝いて見えた。ここで恐ろしいことが起こる前、成長した娘に会えたようでしあわせだとハナに微笑んだ母鬼の顔を思い出し、鼻の奥がつんとした。


 リウカは初めてハナを見た。

 変わらず感動のない眼差しを掬い上げるように、ハナはリウカの手を握って、寄り添いながら巨石に背を預けて座る。

 母親の首を正面に眺めてもリウカはもう泣かなかった。ハナもまた自身の左胸に穏やかな鼓動を感じながら、ゆっくりと、目の前に横たわる、そして隣に座るふたりの鬼に語りかけた。


「『乳飲み子を抱えたため花街を追われた遊女が森の一画に住み着きました。女は我が子を育てるため、人の赤子を襲っては食い殺し、やがて鬼となりました』」


 背中にじんわりと伝わる石の冷たさが感覚を清冽にさせる。

 右手にある娘の手のぬくもりと思っているものが自分自身の体温だと知る。

 娘はハナのほうに頭を預けて、母親の顔をじっと見ていた。ハナも視線を戻し、続けた。


「『あるとき阿闍梨あじゃりという大変高名な知識がこの森を通りがかりました……襲いかかる鬼女に阿闍梨は静かに言いました。“我が子を見なさい。この石の上ですでに息絶えたあなたの子を。この子は業罰によって死にました。我が子かわいさに他人の子を奪うあなたの業を、あなたの子が引き受けたのです。我が子の死を顧みることもなく、また他人に施すこともなく、貪り続けることはあなたの欲と知りなさい”。自身の罪を悔いた女は帰依しました。阿闍梨は赤子の死んだこの巨石を犠牲になった子どもたちの墓として祀りました。それ以来、この場所へと通ずる道は阿闍梨坂と呼ばれるようになったのです』」


 無表情のまま、娘の目尻から一筋涙が零れた。

 こうして石に近づいてはじめて、表面に小さく刻まれた文字の存在に気づく。娘の頭のすぐ上の位置にそれを見つけたハナは、震える息を深く深く吐いた。


 少年の言ったように、この説話が鬼の生存本能を指したものだとすれば、それが業であるというのは、鬼が生きていてはいけないものという前提があることにほかならない。

 人間にとって鬼が脅威であることは違いないが、大切な誰かを守りたいという心すら、一突きにして滅されなければならないのだろうか。


 娘の髪に挿した簪が目に入り、ハナは繋いだ右手に力を込めた。顔を上げると、夜空にかか様の顔が滲んだ。


「……鬼子母神……かか様は、ただ我が子に生きてほしかった。でもそれとおなじくらい、我が子もただ、かか様に生きてほしかったのです。自分を喪っても生存本能いきることを忘れないでほしかった。だから、静かに、ひとりで……誰に視えなくても、かか様のそばに寄り添っていたのだと、わたしは思います」


 娘は目を閉じていた。声を上げず、歯を食いしばり、ぼろぼろと涙を流していた。

 そんな娘の顔を覗き込むハナの頬もまた、月明かりにきらきらと光っていた。

 ハナを見つめる娘の瞳は涙に透けていた。


「わたしにはなにもできません。鬼にいのちをあげることも。死んでしまったいのちを生き返らせることも。わたしはあなたのかか様の助けになることはできなかった。だけどあなたのかか様は、ずっと助けられていたのですよ」


 そう言って、ハナは娘を抱きしめた。

 巨石に小さく小さく刻まれたその三文字が目に入る。


 ――宇迦は穀物の神、人間にとって穀物は主食、つまりいのちをつなぐもの。

 そこに阿闍梨からとった一字を冠したこの名は、伝説の残るこの地で生きる母鬼にとって生きることを導く存在そのものであっただろう。

 そして本人も、そう願ったのだ。


 “梨宇迦りうか”。


「あなたがずっとそばにいてくれたから、かか様は生きていられた。あなたがさいごまでかか様を守ったの」


 ハナの声をきいて、娘は母親を見た。

 その唇がかすかに動き、星屑のようなつぶやきがハナの耳に残った。

 天高く突き抜ける風の音はまるで巨石が哭いたようで、紙垂だけがそよいでいた。


 紫の簪が、眠る鬼の首のまえにぽとりと落ちた。



 ハナの様子を黙って見つめていた篝がぴくりと眉を動かす。


「気配が消えました」


 蘭は緊張感から呼吸を抑えていたのか、羽織が肩からずり落ちんばかりの勢いで盛大に息を吐き出した。眉間に皺が寄ったままの軍服男性も、フンと鼻を鳴らしてわずかに口元を緩める。篝の表情の変化はわからない。


 さらさらと木々が揺れ、湿度のやわらいだ風が小気味よく頬を撫でる。

 ハナは腕の中の感触を忘れないように、もう一度抱きしめた。

 ここにあるのはハナ自身の体温、ハナ自身の心臓の音だ。生きている、ハナはまた泣きそうになった。

 なかなか立ち上がらないハナを見て、蘭は駆け寄ろうとする篝を止めた。


「おハナだけに視えてた理由、わかる気がするわ」


 蘭ははるか遠くのものを見つめるように目を細めた。巨石の前で跪くハナの姿はまるで祈りを捧げているようだ。

 篝もこくりと頷いた。


 和やかな空気の中、少年だけが肩を落として俯いていた。

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