9
地面に胡座をかいたままの少年の衣服は今や首元から臍の下まで赤く染まっている。
咳き込みながら笑う彼の、その口元に存在を主張するのは、血もしとどな二本の犬歯だ。
「娘なんだろう? 母親の遺体を傷つければ怒って姿を見せるかも」
ハナは絶句した。篝が僅かに眉を顰め、蘭の顔からも表情が失せる。
途切れることのないリウカの泣き声が耳の奥で渦を巻き、ハナは目眩がしそうだった。
毒々しい言葉が、胸元を染める血のように少年の口をついて溢れる。
「母親が狩りをする場面そしてハンターに殺される場面を目の前で見たんだろう。つまりそのヴァンパイアは捕食と憎悪の対象を覚えたというわけだ。今ここで殺さなければすぐに人を襲うだろうね。なにより
蘭はゆっくりと瞬きをし、そして少年の赤い目をじっと見た。
「ボウヤはどっちの味方なのかしら?」
「私はどちらでもないよ」
少年の眉尻が僅かに下がり、視線が人から外れる。
軍服の男性が真新しい幅広の白布を取り出し、少年の首に素早く輪をかけると後方へと強く引っ張った。少年が唸って顔を歪める。
「口を利くなと言っただろう」
男性は手に力を込めたままハナたちに向き直り、少年は圧迫された首を苦しそうに掴む。乾いた咳と呼吸と血が飛び散った。その様子はさながら市中を引き回される罪人のようだった。
男性は厳しい表情のままやや胸を張って言った。
「敵を殺す、我が“レイヴン”でもその基本方針は同じ。しかし我々はときに生きたまま捕えます。奴らの肉体を開いてその生態を研究することは殲滅への非常に重要なプロセスですから。体を透明化できるなどという特殊な力を持つヴァンパイアがいるとしたら、なおさら利用価値がある」
少年はまたひとつ血咳をこぼした。
ハナは彼の体が元から包帯だらけだったことを思い出す。伏せた少年の目にある赤色は喉元から流れ出る痛みでもなく、沸き立つ怒りでもなく、ただ諦めに褪せている。
そんな目で少年が笑っていることがハナには許せなかった――いまこの時も空気を震わせる少女の叫びを気にも留めない、この場の全員の悪意なき鈍感さが、どうしようもなく許せなかった。
熱が足元から体を急激に駆け上っていくのがわかる。ハナは男性と、彼に注目するふたりの従者をきっと睨んだ。
「……あなたがたは人の心がないのですか。蘭さんも、篝くんも! 泣いているのよ、ちいさな女の子が、たったひとりで!」
「
男性の表情は冷静そのものだ。
顔が火照り、熱が涙腺を刺激している。泣くものか、泣くものか。
リウカの泣き声を背に受けてハナはさらに息を吸い込んだが、蘭が前に出て制止した。蘭は背筋を伸ばして男性と向き合う。
「
「……失礼」
男性はふっと息を吐いて、白布を掴む手をもう一度強く引っ張る。少年は痛がって男性を睨んだが、喉の止血はできたようだった。
ハナの方を見た蘭は、まるで兄が幼い妹にやるように身を屈めて、両手で頬を包みこんだ。
泣くものか、そう心で念じながらも、ハナは潤んだ目で訴えることしかできなかった。
そんなハナを見透かしたように蘭は眦を下げる。
「鬼のせいで親を失って一人ぼっちで泣いてる人の子だってたくさんいるの。アンタもそうでしょう、おハナ。そんな子を増やさないための御役が、アタシたち
優しく芯のあるその声は、出会ってからの四年、いつでもハナの傍にあった。
――一般人を囮に使うわけにはいかない、それが織田家がハナを嫁に迎えた理由だった。
あえてハナを無防備に晒し、その血に寄ってきた鬼を主人や蘭が迎え撃つ。織田の屋敷は二次被害を出さないための餌場であり狩場、ハナは鬼を誘い出し確実に殺すための手段なのだ。
だからといって蘭も、篝も、主人も、ハナに鬼を殺す術を教えたことは一度もない。
十二歳で婚約したハナに、蘭は人を襲う鬼とそれを狩る者の存在、織田家のなんたるかを教えた。
それだけではなく、人目を避け家に引き籠もっていたハナを外へ連れだした――なにが来てもへっちゃらよ、アタシ鬼より強いんだから。いつかきいたのと同じ台詞を言って蘭は笑った。
“おまえさんにだって守れるんだぜ”――それはハナに勇気をくれた。
多くの死を生み出してきた自分は、それでもこの自分のまま生きていいのだと、この自分だからこそ出来ることがあるのだと、許された気がしてハナは泣いた。
――そんな記憶にリウカの泣き声が
ハナと違って拠りどころのない少女に寄り添っているのは形ある簪ではなく、死者の抜け殻だ。
堪えきれず涙と、ことばが零れた。
「助けてと言われたの、わたし、それなのに、あの子の目の前でかか様を死なせてしまった。このままなにもせず見ているだけなんていやなの」
言いながらハナはリウカを見つめる。
その年頃ならば現実を理解できず取り乱してもおかしくないはずなのに、かかさま、と恋しく呼ぶことすらしない。
それはまるで死という事象を受け入れている者の涙だ。リウカの目にはずっと母親しか映っていなかったというのに。
そう、リウカは今も、母のためだけにそこにいるのだ。
鬼子母神の伝説を思い出す。
ああ、そうか、と、理解した瞬間、穏やかな夜風が頬を拭った。
「……死なせてしまった、なんて、ただの人間がずいぶん高尚な物言いだな」
再び口を開いた少年の声には明確な感情が籠もっていて、ハナはなぜだか安心した。
「“クロウ”でもない貴女になにができるというんだ? そんなに食われたいのか」
くろう、その名称は、織田家や蘭たちのように鬼と戦う力を持つ特別な人間のことを指すという。
少年に敵意を向けられるほど落ち着きを取り戻していく自分の心が不思議だった。ハナはまっすぐ彼の目を見る。
「わたしはあの子を助けたい」
「助ける? どうやって? 無理だね! 人間にできることは血を捧げることだけだ。ヴァンパイアと人間は殺し合う運命だ、共鳴も共存もできやしない! その親無しのヴァンパイアが生きているなら殺すべきだ、今ここで!」
「いいえ、生きてない!」
ハナの語気の強さに気圧されたようで、少年は口を
ハナは巨石を見つめ、静かに言った。
「これはお墓だもの……そうでしょ、蘭さん」
蘭はハナをじっと見つめ、それから柔らかく微笑んで小さく何度も頷いた。
ハナが帯に挿していた紫の簪をそっと抜き取り、ハナの手に乗せる。ハナの視界には根負けしたような蘭の柔らかい微笑みがはっきりと映る。
ハナは簪をしっかりと握りしめ、深く頷いた。蘭は手を叩き、みなを眺める。
「モンちゃん、ボウヤもすこし黙ってて。おハナに任せましょう」
少しの沈黙の後、篝が苦無を納めたのを見てハナは駆け出した。
入れ違いに蘭のもとへ来た篝は納得がいかないといった視線を蘭に投げる。蘭はふうと息をついて答えた。
「アタシたち
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