8


 夏場というのに重ねた着物に前帯、大輪の牡丹咲く朱色の打掛をゆるく羽織った蘭の姿は、さながら花魁のようだ。幾重ものおくみの下からのぞく脚は黒の靴下ストッキング越しに筋肉が程よく引き締まっているのが分かり、“はいひーる”と呼ばれる踵の高い蛮靴を難なく履きこなしている。

 そんな格好で通常の扇子の何倍もの重さのある鉄扇を投擲武器にできる腕力や体幹、その正確性は、この丸森蘭という人物がひとりでハナの護衛を任されている理由のひとつだ。


 蘭は血で汚れた地面にへたり込むハナと少年を見るや、仰天して扇子を放り投げた。


「ちょっとアンタ! おハナになにしてんのよっ!」


 蘭はぐったりした少年を力任せに引き剥がし、ハナに向き直る。引きずった着物の裾が、まだ乾いていない少年の血をひそかに吸った。


「おハナちゃん、なにかされた? なにもされてない? どこも怪我してない? えっ、やだっ、なに、うそっ! 怪我してるじゃないっ!」


 ハナの左手首を掲げて半狂乱になる蘭に、血まみれの喉元を押さえた少年が咳き込みながら言う。


「彼女は噛まれていないよ。ヴァンパイアの血も混ざってない」


 蘭は首を傾けて少年を睥睨する。


「これ、あんたがやったの?」


 低く抑揚のない声をきいて、蘭の手が帯の中に隠した武器へ伸びる前に、ハナはしがみついた。


「この方はわたしを助けてくれたのよ。大怪我なの、お医者を早く、それと」


 リウカを、と続けようとした時。


「メイヤード!」


 林の方から硬い声質が飛んできた。ハナがきいたことのない男性の声。


 現れたのは壮年の異人だ。

 異国のものである肩章付きの濃紺色の軍服に白手袋をつけ、銀灰色の長髪をきっちり後方で一つにまとめている。眉間に皺の寄った険しい表情、鴉より鋭い目つきで彼は少年を睨みつけた。


「貴様、なんだその体たらくは!」

「大声出さないでくれ兵長、骨に響く」


 革靴ブーツの足音を立てながら歩いてくる男性に、少年はうんざりしたようにそっぽを向いた。


 歩きながら男性はその開けた空間を広く視野に入れていたが、鋭いままの眼差しでじっと注視したのは中央の巨石だけだった。

 首無しの死体と血痕、転がる首と佇む少女のいずれも無視、あるいは気にも留めず、少年の前に屈み込む。


 蘭は男性を見知っているようで、あっと声を上げた。


「このボウヤが例のコ?」

「ええ。まったく、少し目を離せばすぐフラフラと……」

「手錠でも縄でもつけたらいいのに。私は構わないよ」


 男性に遠慮のない力加減で体の傷を確認され、少年は少しばかり痛そうに目元を歪めたが、その顔にはハナが出会ったときと同じような皮肉っぽい笑みが戻っている。


「生意気な口を叩くな。ふん、この程度ならば死なんだろう。見苦しいことだ」


 少年の喉を覗き込んだ男性は乱暴に顎を離し、血で汚れた自身の白い指先を見て苦虫を噛み潰したような顔をした。


「お互い迷子のお守りは大変ねぇ。おハナ、痛くない?」


 男性を横目に、蘭は綿紗で手早くハナの腕を保護する。ハナは心臓がざわざわと波打つのを感じ、つとめてつらつとした声で言った。


「勝手に離れてごめんなさい、わたしのことはいいの、それよりあの子を……」


 ハナの指差すほうに顔を向けた蘭は、先の男性と同じような思慮を含んだまなざしでじっと巨石を見つめた。


「あの石がどうかした?」

「石じゃなくて、女の子……」

「ええっ?」


 蘭は笑い声を漏らした。まるでとても的外れなことを言われたとでもいう表情に、ハナは愕然とする。


 少女の汚れた裸足がとぼとぼと血跡をたどって、石の前でぴたりと止まる。

 鬼の首には虚ろに開いた目と口に蝿が寄っていた。

 項垂れる少女の表情は、ぼさぼさの髪に隠れていて見えない。


 小さな小さなその姿は、さいごに引き取られた親戚の家でも死人を出して、忌中の門前に叩き出された自分のようだった。

 言いようのない焦燥がハナの声帯を震わせる。


「蘭さん、あの子が視えないの……?」


 蘭はハナの頬を両手で包み込み、その顔をじっと覗き込む。手のひらの温度もまなざしも、あまりにも優しい包容力に、ハナはまた泣いてしまいそうになる自分を奮い立たせた。

 蘭は微笑みながらも眉根を寄せる。


「やっぱり鬼になにかされたのかしら。すぐ屋敷に戻るわよ。ああ、あの異人さんたちもついてくるけど気にしないで、まこちゃんの仕事仲間だから。あとで説明するわね」


 ハナの両肩をさすり、蘭は立ち上がって森のほうを見遣った。二、三度手を打ちながら木々に向かって呼びかける。


「モンちゃん! 居るんでしょ?」

「はい丸森さま」


 がさりと揺れる木々の中から黒い塊が素早く地面に転がり出たかと思うと、それは音もなくハナと蘭の前に跪いていた。

 刀を背負い、目元以外の露出のない忍び装束に身を包んだ小柄な人間――蘭と同じく、織田の主に仕える者だ。

 蘭は仁王立ちで顎を上げ、周囲を見回した。


「念のためこのあたりを警戒しておいて。鬼がまだ潜んでいるかもしれない」

「承知しました。じきに“猿飛”が到着します、どうぞ屋敷へお戻りを。薬師の手配も済んでおります」


 中性的な声音に涼し気な目元。素顔を知らないハナはこの忍びが男性なのか女性なのか把握していない。小柄な体躯に似合わない冷静沈着な口調や視線は、感情を自ら排する術を習得している者のそれだ。


「さすがモンちゃん、仕事が早いわね」


 蘭の口調からは信頼関係が伺える。

 しかしふたりがいつもと変わらない様子であればあるほど、ハナは違和感を募らせていた。

 忘れていた暑さがじわりと額ににじむ。


 風は止んでいるはずなのに、さわり、と巨石の紙垂が揺れた。

 リウカがゆっくりと地面に膝をつき、拝むような体勢で、母親の首に触れた。

 ハナは慌てて蘭たちを振り返る。


かがりくん、視て!女の子が……」


 忍び――篝は警戒するようにハナの視線の先を追ったが、すぐに首を傾げ、怪訝そうに目を細めた。ハナは動揺したまま少年にも喚いた。


「あ、あなたにも視えませんか? 女の子、リウカさんです! そこで、かか様のお顔に縋って……」


 少年はきょとんとした表情を浮かべ、すぐに呆れたように破顔した。


「貴女はここの伝説を知らない? 鬼子母神の子は死んでるはずだ」

「そんな……」


 伝説とこの鬼の母娘は関係がないはず、しかしハナは少年が死ということばを笑いながら発したことに耐えられず、ぐっと奥歯を噛んだ。


 丸めたリウカの背中が小刻みに震え、うう、と小さな唸り声がきこえる。巨石は少女を保護するように聳え立っていた。


 ハナは必死で数刻前のことを思い出していた。

 そう、今日は祭りの日だ。

 おろしたての浴衣、夏の夜、燈の提灯、お囃子、浮かれる人びと、日常のなかの非日常――鬼、祀られた巨石、鬼子母神、“ヴァンパイア”、伸びた爪、凶悪な牙、饐えた鉄の匂い、血の赤いろ、食う、殺す、血、血。


 ――ここは今、紛れもない非日常の空間だ。

 死の空気をまるで当然のように吸っているこの場の全員は狂人か、否、これが彼らの日常なのだ。

 鬼と対峙する能力をもたないハナだけが取り残されるのは当然で、だから今、“日常”のなかのを視ているのはハナだけなのだった。


 蘭は石の方へ駆けようとするハナを引き止めてひょいと抱えた。


「は、はなして蘭さん」


 力いっぱい押してももがいても、重ね着した蘭の厚い胸板や両腕はびくともしない。

 ハナの取り乱しように蘭は表情を曇らせ、今だ険しい目つきで巨石のほうを見つめる篝に耳打ちする。


「ね、これ、鬼の影響かしら」

「いえ丸森さま、おそらくハナさまは正しいです」


 返事をしながらも、篝の目はただ一点だけを視ていた。その視線がリウカに重なっているとハナは確信し、つかの間胸を撫で下ろす。

 蘭は観念したような笑いを漏らし、篝と同じ方向に目を向けた。


「モンちゃんが言うならそうなんでしょうね。ほんとに女の子がいるの?」

「視えません、ですが気配は確かに感じます。鬼がそこに居る……ボクが処理しておきますので、皆さまはお戻りください」


 篝は言いながら背負った刀の柄に手をかけ、瞬時に苦無に持ち替えた。姿勢を落として構えるが、左手は腰袋にかかったままだ。

 ハナは篝が本当に視えていないことに気づく――そして篝が、迷いなく攻撃という体勢に入っていることも。


 リウカの唸り声は引き攣った呼吸とともに掠れ、やがてしゃくり上げる。

 母親の顔にそっと触れながら折った上半身を起こし、リウカは声を上げて泣きはじめた。


 空気さえも涙を纏って漂い、共鳴するかのように、風のない夜の広場に木々のさざめきが木霊する。

 月が眩しく輝き星座まではっきりと見える、残酷なまでに美しい夏の空を仰いで、リウカは大声を上げて泣いた。ぼろぼろと大粒の涙を流して泣いた。ただ泣いた。

 娘の涙を浴びた首は、しかしその目が閉じることもなく、その口が娘の名を呼ぶための息を吸うこともない。

 別れの寂寞、喪失の慟哭、そんな小奇麗な言葉でめかし込むことなどできない、もっともっと純粋で悲痛なその嗚咽を打ち消したくて、ハナは叫んだ。


「篝くんやめて! 子どもなの!」


 前のめりになるハナを抱える蘭の腕に力が入る。篝はハナを顧みることなく、冷淡な声音のまま言った。


「子どもだろうと視えなかろうと、鬼を殺すことが我々の使命です」

「その子は違うの、お願い、やめてっ!」


 蘭を無理やり押し退けて地面に降り立つ。左手首を咄嗟に掴まれて、巻かれた綿紗に新しい血が滲んだ。

 ひりと走ったはずの痛みを感じる余裕はハナにはない。浴衣や髪が乱れていることも、涙でひどい顔になっていることも気づかなかった。


「離れてください、ハナさま」

「おハナ、ここはモンちゃんがなんとかしてくれるわ、任せましょ」

「いや、やめてっ!」


 暴れるハナを蘭が押さえ宥める。

 篝は眉一つ動かさず巨石ににじり寄る。視えない上にハナたちも近くにいるため、警戒しながらも出かたを決めあぐねているのだ。


 諜報活動の多い忍びでありながら、篝が目標を確実に仕留められるほどの実力をもっていることをハナも知っている――だからもしここでなにか不幸が起こるとすれば、それは鬼を寄せるわたしのせいなのだ。

 そう思いながら目をつぶる自分をハナは卑怯だと思った。


 篝の草鞋が、じり、ともどかしい音を立てた時だった。



「死体をほふればいい」



 弾んでいるようにもきこえたそのことばがハナには信じられなかった。

 愕然と声の主を振り返る。


 少年は相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。

 ずっと押さえていた喉元から手を離す。

 切り裂かれ噛まれた傷跡は肉が剥き出しになり、まだ乾かない血がこぽりと垂れた。

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