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 その瞬間、ハナの腕は全力で女を突き放していた。


 布の裂ける音がふたりの間に距離をつくる。ハナは両足に力を入れてよろけるのを阻止し、後ずさった。

 腕を持ち上げると、浴衣は左腕の裾から袂までが切り裂かれておりぶらんと垂れた。掠り傷はさほど深くないのだがさっぱり切れ、ぷっくりとした血泡が線になっている。

 まるで鎌鼬が塗り薬を忘れて去ったかのよう、鼻緒の痛みが蘇ったのは幸いだとさえハナは思った。


 女は手を顔の前に掲げ、恍惚とした笑みを浮かべて立っていた。浴衣ごとハナの腕を掻いたその爪の先には、こびりついた垢と炭泥の上に真新しい血液が付着している。

 女は喉を鳴らして舌を出し、血を舐め取った。ハナは気づく、垢でも泥でもない、あれは血が乾いたものだ。この女が人を掻いたのは初めてではない。


 女は尖った顎先を上げ、まるで香りと風味を味わうかのように、うっとりと目を閉じている。鼻で息をするごとに女の背筋はまっすぐになり、藁のような髪にも生気のない顔にも血が通ったようだった。

 傍らの少女は母を見上げ、満足げに頷いた。


「ああ、ああ! 生き返る! やはり生きた血にかぎる!」


 それは天への咆哮のようだった。

 空気に乗った声が傷口に触れてしまわないよう、ハナは思わず浴衣で腕を押さえる。


 満面の笑みをこちらに向けた女の、口元にのぞいたを見て、ハナは血流がすべからく凍結したかのような軋みを全身に感じた。


「極上の美味だ、まだ生娘だね。これならあたしの寿命も……ああ、リウカ、こんな上物じょうものをようく連れてきてくれたね」


 そう言って女は娘の肩を抱きゆすった。声色も笑みも、ハナにみせたものとはまったく異なる柔らかいものだ。


 女の言葉の意味を咀嚼することはできなかった。視覚がハナの意識のすべてを占めていた。女の濁った目はぎょろりと瞳孔が開いている、そして言葉とともに、乾いた唇の下からにぃっと現れでたもの……。


 リウカと呼ばれた少女もまた、ハナが見たことのない笑顔を母に返す。

 その屈託のない表情にハナはふたたび戦慄した。


 ――やや黄ばんだ歯列には、母を慕う少女には似つかわしくない、母と同じ、野生の牙と見紛う二本の鋭い犬歯がのぞいていたのだ。



 逃げなければ。

 ハナの脳は、否、本能がはっきりと訴えた。

 これらは、ひとおにだ。



 ――鬼。生きた人間の血肉を啜って生きるもの。


 地域によって多少呼び方は違うものの、大まかな定義はそれだ。

 倭の国に古来より棲む妖怪などの自然的怪異とは違い、人間的特徴があるため、鬼を人とみなすか怪異とみなすかでも意見が分かれる存在である。そのため鬼子母神伝説のように神仏法話の題材として語られることも多い。

 人びとにとって鬼とは異質であり、脅威なのだ。


 そして彼らの存在に専ら詳しいのは蘭であり、ハナの主人であり、織田家である。


 お団子髪に刺した紫の簪を抜き取って、短刀のように構える。本能とは裏腹の行動にハナ自身が驚いていた。

 ハナが十二で婚約し十六で嫁ぐまでの四年間、花嫁修行を監督してくれたのは蘭だ。しかしそれまで親族をたらい回しにされ、下女として暮らしていた期間の長かったハナに、家事の指導は必要なかった。

 つまり織田の家に嫁ぐ女のとは、こういった場面での基本的な護身術のことだ。


 それはあくまで相手を一時的に退けるためのもの。子連れの母鬼を怯ませるだけの覇気が自分にはない。

 それでも自分は織田の一員だ。

 無意識の行動はハナに自覚を呼び起こさせた。

 腕の傷がじくじくと痛む。しかし血泡は寄せ集まって傷口を固めている。

 ハナは唾を飲みこみ、奥歯を食いしばって鬼を見つめた。


 鬼はゆっくりこちらに近づいてくる。

 どうすればいい、どうすればいい。ハナの頭は真っ白だった。

 鬼女は弱々しかった先刻までが嘘のような足取りで歩きながらリウカを振り返り、優しく語りかける。


「いいかい、母さんのをいちからようく見ておくんだよ。これが最後になるかもしれない……獲物はまず喉を潰す。手首と脚の腱を切る。ほんのちょっぴり血を混ぜてやるでのもいいけれど、雑味が加わるからね。すると抵抗しなくなるから、ゆっくり食事ができる。手足をもぐのは止めときな、人間はすぐに死ぬからねえ。いいかい、加減はとっても重要だよ。できるだけ混ざりものを少なく、新鮮で、美味しいうちにいただくのが、女の美肌の秘訣さ」

 

 饒舌な鬼女の言葉はハナの耳には入ってこなかった。

 衣紋から入り込む空気が、背筋を伝う汗の不快感を増長させる。全身の震えは血が凍ってしまったからか、それとも恐怖で沸騰しているからか。


 あのとき蘭と離れなければ。迂闊についてこなければ、少女の手を振り払っていれば。

 真っ白な頭にはそんなことばかりが浮かんでくる。ハナはせめて目を逸らさなかった。


 鬼女の講釈を、リウカはほっとしたようで、しかしどこか翳りのあるまなざしで聴いている。

 母に褒められたとき、あんなに嬉しそうにしていたのに。

 そう、無表情の少女は、出会ったときからずっと、どこか空虚なのだ。

 手を離せるわけがない。

 かかをたすけて、彼女は確かにそう言ったのだ。


 今ここで動くことが助けになるのか、動かないことが助けなのか。

 リウカの求めているものはなんなのだろう?

 真っ白な頭の中に染みのようにぽつりぽつりと滴るこれは、母を想う娘の涙だろうか?

 それとも、自分の傷ついた腕から流れる血だろうか?


 数歩先に迫っていたはずの鬼女の姿がふと消える。

 ハナは慌てて瞬きをしたが、視界を大きな手のひらが塞いだ。柏のように固い感触が顔面を鷲掴みにし、鼻も喉も塞がれて咄嗟に声を上げることも息を吸うこともできない。

 これは鬼の手、そんな当たり前のことを思ったときには、指のわずかな隙間から口を大きく開けて牙を剥く鬼の顔が見えたて、ハナは直感した。


 くわれる。



 ――直後。

 ハナの目は、橙いろに燃えさかる火の玉が女の頭部を襲うのを捉えた。


 鬼女はぎゃっと叫んで乱暴にハナを投げ捨て、身を翻して炎を振り払う。

 ハナは尻餅をつき、投げ出された簪が離れたところにいるリウカの足元に転がっていった。

 火の玉は地面にぶつかってなおぼうっと燃え上がったが、すぐにぱちぱちと柔らかい音を立てる。

 それは火の玉ではなく、少女の置いた祭り提灯の燃えかすだった。



「ずいぶんと食い意地が張ってるんだな」



 それは変声期を迎えたばかりのような声だった。


 現れた人物は、ハナと同じくらいの年の頃だろうか、蛮服――“しゃつ”に“すらっくす”を着た小柄な体は、まだ成熟に余地があるように見受けられた。

 寝癖のままのような無造作に散らばる黒髪。肌の色は白く、鼻の高さも眉毛の位置も異人のものだ。

 頬や首などところどころ白い綿紗ガーゼが巻かれており、異質な雰囲気を纏っている。

 なによりその双眸は、炎よりも血よりも鮮やかな真紅だ。


「食べるならまず私からどうだい?」


 その少年はにこりと微笑む。

 その白い歯列の左右に、尖った八重歯が覗いていた。

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