3

 ――石の向こう側から現れたのは女だった。

 少女と同じぼろを着て、しかしその姿は少女よりもはるかに病的だ。あばらの浮いた胸もとを隠そうともせず、蚤や虱の跳ねる白髪交じりの髪をざんばらに垂らして、骨と筋の浮き出た足は震えていた。


 女は項垂れたまま、巨石に背中を滑らせながらこちら側にやってくる。少し歩いたところで崩折れた。


「だいじょうぶですかっ!」


 ハナは反射的に駆け寄り、足元に提灯を置いて女を抱き起こす。

 小柄なハナでも難なく支えられるほど軽く、たったこれだけの移動でも肩で息をしていた。少女も不安そうに母親を見つめる。


「怪我は……どこか痛むところはありますか? いつから患っていらっしゃるのですか?」


 言いながらハナは目視で女のからだに外傷がないことを確認する。

 女は震える手でハナの浴衣に触れた。青白い腕、伸び放題の爪は垢が溜まって黒ずんでいる。額と頬骨の出た蒼白の肌、半開きの唇は乾いて割れ、鉄分の生臭い吐息が漏れていた。


「きれいな色……あたらしい着物べべだね……あたしのために膝をついて、あんたはいいだねえ……」


 くぐもってはいるが、外見よりもずいぶん若く、うっとりとした余韻さえ感じるその声に、ハナは唾を飲みこむ余裕ができた。

 少女の年のころからしても、病か栄養失調かで老け込んでいるように見えるだけで、恐らく声の印象のほうが実年齢に近いのだろう。

 襦袢を羽織ってくるべきだった、ハナは唇を噛んだ。


 少女が母の脇に潜り込むようにしてからだを支えたので、ハナはゆっくりと女を横たえようとした。


「お医者を呼んできます、ここで待っていて……」


 その時少女がハナの腕を強く掴んだ。

 先刻までとは比べ物にならないその握力に驚く間もなく、頬にべつの手のひらが触れる感触。はっと女を見遣ると、窪んだ眼窩にある白濁したふたつの眼、愛おしそうなまなざしがハナを捉えていた。


「まるで、この子のおおきくなった姿を見ているようだねえ。ああ、アタシはしあわせだ……あんたに出会えて……」


 女の声はだんだんと細く震え、瞼が重くなっていく。頬をそっと撫でる手は錫の器のように冷えていた。

 あいた手を握りながら母をじっと見上げる少女、そのそばにある燈の字の入った提灯が視界に入り、ハナは今が夏であることを思い出す。

 女を今一度つよく抱きしめ、痩せさらばえたその肩を無我夢中でさすった。


「お嬢さまはこれからおおきくなります、お母さまに見守られて、もっとずっとすてきな女の子になります! だから死んじゃだめ、目を閉じないで!」


 涙を浮かべながらハナは呼びかけたが、女の呼吸は次第にちいさくなる。満足げな笑みだ。

 こんな顔をして死んでいく人間をハナは見たことがなかった、だからこれでいいのかもしれないと、体の奥で熱いものが訴えた。

 女は微かに呟いた。


「ああ……ほんとうに……」


 次の瞬間、女はひときわおおきく鼻で息を吸い込んだ。

 肺が膨らみ腹が凹んでぼろ越しにくっきりと肋骨が浮き出る。

 頬に打たれたような熱を感じてハナはおそるおそる女の手を剥がす――血潮と呼ぶべき拍動を宿した枝木のような指、いやに先端の尖った爪がそこにあった。


 そのとき、ハナははっきりと潤う女の声をきいた。



「ほんとうに、なんて豊潤な香りだろうね、おまえは」



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