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***


 十六の誕生日を迎えたハナがここに嫁いできてはじめての祭りということで、織田おだ家従者の丸森まるもりらんは数日前からたいへんな気合の入りようだった。

 主人は祭りの前日から屋敷をあける予定のため、ハナは祭りには出かけないつもりだった。


「だめよォ、おハナちゃん! 今年の夏は今しかない、今年の祭りは今しかないのよっ! 楽しまなくっちゃあ!」


 キセルを放り投げんばかりの勢いで迫る蘭に、ハナはおずおずと言う。


「でも旦那さまがお務めなのに、わたしだけ遊びにでかけるなんて」


 蘭はまあまあまあと地声から二音ほど高い声を上げた。

 高いといってもハナの地声とそう変わらない。長い髪を頭頂部で大きなお団子にするだけのハナに比べ、毎朝きっちりまげ結いに整えている蘭だが、着ている着物も生まれも男性である。


 蘭は優しげな垂れ目を最大限引き締めた。


「いい? おハナちゃん。旅先で十二歳の女の子を見初めて16歳になるまで結婚を待った三十八のおっさんのことを、ばんことばで“ろりこん”というの。だからおハナ、あんたは自由に生きていいのよ! まこちゃんなんて仕事のあるうちに働かせておけばいいの! ふだん飲むか寝るか碁でも打つかの三択なんだから」


 蛮ことばのくだりはよくわからなかったが、蘭が主人を気安くあだ名で呼ぶことにハナはこの上ない安心を感じた。妻よりも夫と打ち解けあっているこの従者に嫉妬心が出ないのはハナの性格であり、また蘭の性格も影響していた。


 紅を引いて潤った唇が柔らかな弧を描き、蘭は上品にウインクをする。


「それにアタシ、あんたの兼お友だちですもの。おハナが寂しくないようにって、あるじの命令はぜったいよ?」


 ――嫁いだといっても織田の本家はよそにあり、武家でも商家でもない屋敷には下女や丁稚もいない。

 そのわけとはすなわち織田家が代々幕領より賜ってきた御役ゆえであり、従者である蘭が主人よりも長い日常の時間をハナとともにしている理由である。


 こうして強く祭りに誘うほんとうの理由も、ハナにはわかっていた。

 そしてこの年の差婚の目的もまた……そう自分に言い聞かせるたび、ハナは心のなかで葛藤するのだった。



 浴衣は手持ちがあるからと財布の紐を固く結んでいたものの、蘭御用達の着物屋にてハナの乙女心はあっけなく開花した。次いで履物屋、簪屋、さらには蛮ものの化粧道具屋も覗いているうちに、祭り当日の今日を迎えていたというわけである。


 霞地に朝顔柄という淡い色使いの絞りを選んだハナに対し、蘭は牡丹の咲く真っ赤な打掛。煌びやかな着物に蛮ものの靴を組み合わせた女性の装い――蛮ことばで“ふぁっしょなぶる”な着こなしを披露し、まろやかな顔面も相まって、蘭は雑踏のなかでとくに目立っていた。

 祭りの雰囲気、なにより、まるで人気芸者の囲みのように注目に応える蘭が輝いてみえて、ハナは雑踏を眺めているだけで楽しかった。


 そうして蘭と少し離れた隙に、強く手を引かれたのである。


 

 新しいことや華やかなものが好きな蘭だが、じつは近辺の花街出身である。世間知らずで噂話にも疎いハナにくにの紹介も兼ねて、この界隈に伝わる昔ばなしもたびたび教えてくれるのだ。


 ――乳飲み子を抱えたため花街を追われた遊女が森の一画に住み着いた。

 女は我が子を育てるため、人の赤子を襲っては食い殺し、やがて鬼となった。

 あるとき阿闍梨あじゃりという大変高名な知識がこの森を通りがかり、襲ってくる鬼女を諭し導いたという。

 悔い改めた女は安産と育児の神、鬼子母神きしもじんとなった――


 森の石碑にはそんな伝説があるのだという。



***

  


 ……随分奥まで進んだ。

 町は明かりと熱気でときを感じさせなかったが、喧騒から離れるごとに森は夜の支配が強くなる。薄雲から月がたまに顔を出すものの、慌てて左手に掴んできた提灯の明かりだけが頼りになってきた。


 手を引く少女――祭りにいたということは町の子どもなのだろうが、その母親がこんな森の中にいるとは考えにくい。いやそれとも、森で怪我などして動けなくなっているのだろうか?


 楽しかったひとときを忘れてしまいそうになり、ハナは思い切って話しかけてみる。


「ねえ、あなたのかか様はどこにいるの?」

「ここ」


 空気が震えたか震えないか分からないほどの細い声を返し、少女は足を止めた。


 そこは森の中に突如開けた場所だった。中央に大きな石が鎮座し、紙垂しでのついた注連縄しめなわが一周している。碑や祠はないが、その巨石は明らかにまつられていた。


 ハナは胸のざわつきを感じた。ここだけ明らかに空気が異なる。

 独特の、火の粉とも霧とも、煙とも灰ともちがう、言うなれば宵の泉から湧いたとばりに覆われた空。風もないのに、樹々の枝葉はそれぞれ祝詞のりと呪詛じゅそを交互に囁き、空気は闇を歓迎しようと意気込み士気にさざ波立っているような。

 そう、まるで……。


 汗ばんだ右手を握る少女の左手に力がこもった。離れなければ、そう咄嗟に浮かんだ危機感とは裏腹に、ハナは小さな手を握り返していた。その白くか細い手は提灯の、ゆらゆらゆれる火にすら溶けてしまいそうだった。


 少女は薄い肺いっぱいに息を吸い込み、石の向こうに透き通る声を飛ばした。



「かか、ごはん」


 


 

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