5
鬼女は
「なんだい、おまえは?」
「貴女が“鬼子母神”?」
「はあ?」
鬼女が頓狂な声を上げた。
ハナと鬼を隔てるように立った少年は、足元に燻る炎の塊を革靴で乱雑に蹴って退ける。
そのときハナは少年と一瞬だけ目が合った。
体内を流れる命の濁脈を濃縮させたかのような、それでいて死人の静寂にも似た澄泉のような、まじり気のない赫。
そのまなざしはどこかリウカに似ているとハナは思った。
少年はすぐに背を向けた。転がった黒い煙は、巨石の近くに変わらず佇んでいるリウカの足元にたどり着いていた。
少年はリウカのほうに一瞥もくれず、鬼女に対峙する。
「さっき資料館で文献を読んだんだ。我が子かわいさに人の子を食って鬼になった女の伝説。でもそれは子どもの命のためじゃなく自分が生きるためだ。子孫を残した“ヴァンパイア”は短命になりこどもの成長を長くは見られない。その呪いを解くため誰もが試行錯誤してきた。昔から子どもの血は処女と同じくらい万能薬だというからね。鬼子母神とは人間の母性がもたらす悲劇の説話のように語られているが本当はヴァンパイアの生存本能のことを言ってるんだ」
成熟とは程遠い瑞々しい声と、感情の起伏をどこかに置き忘れたかのような口調。そのちぐはぐさに、黙って聴いていた鬼女は失笑する。
「筆下ろしも済んでないような異人さんがずいぶん知ったふうな口を利くんだねえ」
嘲りを隠さないその口調に、少年もまた乾いた笑いを漏らし、ハナを顎でくいと指す。
「年端もいかない
両者の間に流れる張り詰めた空気に圧され、ハナは立ち上がることができずにいた。
少年の言葉を口の中で反芻する。この倭の国で
鬼女は鋭い眼光のままふんと鼻を鳴らし、背筋を伸ばして前髪を掻き上げた。
いつの間にか雲は晴れ、少し欠けた月がやつれた顔面を照らす。それはまるで
皮の剥けた唇だけは依然として嘲笑に歪んでいる。
「伝説がどうの人間だの鬼だの、御託はどうだっていいんだよ。食事の時間なんだ、そこを退きな、坊や」
「彼女を食うのか?」
「そんなにいい匂いのする人間、食わなくたって美味だと分かる。だからあんたも寄ってきたんだろう?横取りしようったってそうはいかないよ」
「貴女と一緒にしないでほしいな。私は食欲の奴隷じゃない」
背を向けて立つ少年の表情を窺い知ることはできないが、ハナは彼の言葉尻に苦いような辛いような棘を感じた。
鬼女は大仰に背を反らして笑い声を上げる。地面にへたり込むハナから見えるその姿は、覇者のようにも、亡者のようにもみえた。
「安い売り言葉はよしておくれよ。食欲だって? これは本能さ。あんたも言ったじゃないか、生存本能だと。あたしの全身が乾いているんだよ、早く新鮮な血が欲しい! その娘の血が!」
空気が慄くようなその声に、ハナのこめかみから顎を汗が伝う。投げ出した手が震えている。
ハナは真正面から逸らせない視線を必死で逸らそうとして、視界の隅に細く立ち上る煤煙を捉えた。
少年はなおもどこか無機質な声音で鬼女に言う。
「ずいぶんと焦ってるんだな。貴女もヴァンパイアの呪いを受けたから……もうすぐ寿命が尽きてしまうから。死にたくないんだろう?」
鬼女はため息交じりに首を左右に振る。
「ああそうさ。あたしには無駄話をしている時間なんてないんだ、早く退くんだよ」
少年の革靴は仁王立ちのまま動かない。
「なぜ抗う? なぜ生きる? なぜ運命を受け入れないんだ?」
ハナは巨石と、その近くにいる少女を探した。
「坊やにはわからないよ、生きることが、いのちの営みが、どれだけ尊いことか……」
ゆらめく煙が立ち尽くすリウカの姿を霞ませて、石と同化させる。なんの感情も感動もない、残酷なまでに真っ直ぐなまなざしが、煙を透かしてハナの視線と交わった。
「ああそうだ、わからないね。だって私は筆下ろしもまだだから」
少年の声がはっきりと冷笑を含んだ。
その時。
鬼女が一瞬で少年の眼の前に迫り、その下顎骨を包帯の巻かれた細い首ごと片手で掴み上げる。
少年の喉から上擦った呼吸が漏れ、ハナははっとして視線を戻した。
目の前の革靴の踵が浮き、もがいている。小柄な少年とはいえ、女が片手、しかも筋肉のほとんどついていない細腕で持ち上げられるものだろうか。
ハナの位置からは少年と女が重なってどちらの表情も見ることができない。
開けた夏の空は澄み、月と星が見下ろしていた。
「いい加減にしておくれよ、坊や」
行動に反して鬼女は静かに語りかける。まるで母親がおいたをした子どもを躾けるように。
じわりと湿ったような風が吹き抜け、巨石を守る白い紙垂を揺らした。
「あたしはその娘を食う、なぜ? 生きるために人間の血が必要だからだよ。なぜ生きる? リウカのためだ、あたしのかけがえのない娘! 父親は呪いでとっくに死んだ、だから娘がひとりで生きる術を身につけるまであたしは死ねないんだよ」
女の声は次第に熱を帯びる。
おそろしいはずの言霊はしかし、夏風に呼応した森のさざめきに攫われてハナの鼓膜をまるで鼓動のように揺らした。
ぬるい夏の空気に頬を撫でられ、ハナがふと気づくと、傍らにリウカが立っていた。
糸屑の絡まったような髪の隙間からのぞく目は硝子玉のようにハナが映っている。乾燥した薄い唇は結ばれ、差し出された小さな両手にも母親のような鋭い爪などなく、煤に汚れた紫の簪が乗っていた。
手のひらから玉飾りがこぼれ、ゆらゆらと揺れている。
ハナがそれを受け取ると、リウカはもとの巨石の傍へと駆けていく。遠慮がちに注連縄に触れ、そして視線を前に向けたリウカは変わらずの無表情だったが、その目が映すものは母だけだった。
リウカの姿がゆらゆらと滲み、再び巨石と同化するように見えたハナは目を擦って、自分が涙していることに気づいた。
鬼女の指に力が加わるごとに少年はさらに呻く。鬼女は叫ぶように言葉を重ねた。
「どんな姿になっても、まともに狩りができなくなったって、この心臓が動く限りあたしは生きている。生きていくために心臓を動かし続けなきゃならないんだ、そのための血だ! あたしの子が、次の世を生きていくために! なにを受け入れるだって? 甘ったれるんじゃあないよ! わかったらさっさとお
女の声はもはやハナの耳を容易く抜けて、まるで汁に溶ける味噌のように心に広がっていく。
今にも少年が縊り殺されんとする目の前の光景とはあまりにもちぐはぐで、ハナは混乱していた。
四方の彼方から舞い来たる夜風は広場の中央にある巨石に収束していくように
――リウカ。ハナは咄嗟に少女の手を握らねばと思った。
小さな左手を探そうとして、すでに握りしめた簪に、ハナは仄かな熱を感じた。
少年は苦しそうにしながらも、女に負けじと声を張る。
「だったらそのリウカ嬢とやらはどこにいるんだ? 憎悪と空腹に支配された貴女がその岩の上で八つ裂きにした子どものことかい?」
その声が先の冷静さも諦観も失っているのは喉を締められているからではないとハナは思った。
そして巨石に寄り添う少女を見遣る――リウカは確かにそこにいるのに。
女の語気は強いままだ。
「伝説なんかどうでもいいと言っただろう、あたしには関係ない、あたしたちには関係ない!」
「いいや関係あるね、鬼子母神とはヴァンパイアだ、母親! 貴女のことだろう、ヴァンパイアのくせに人間みたいな情にしがみついてる貴女だ!」
ハナは簪を握りしめた。
この応酬の内容が人間である自分には理解できない、でもなぜだろう。
鬼女の叱声がこんなにもやさしく沁みるのに、少年の悲鳴はひどく冷たくて、痛いのだ。
斬れない御石を斬りつけるかのごとき声が虚しく響いた。
「なにが尊いって? 殺さなければ生きられないくせに!」
――その瞬間、ぼきり、という太く奇妙な音が響いた。
ハナは眼の前の光景が理解できなかった。
背中を向けていて見えないはずの少年の顔がこちらを向いている。
見開かれた赤い目と目が合って、視界の下部に少年の捻れた首の皮膚がちらりと映って、先の音は骨が折れた音だと認識したハナはそこではじめて引き攣った悲鳴を上げた。
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