6
少年の瞼は一向に閉じない。間をおいて四肢がだらりと垂れ、手首に負荷のかかった鬼女は僅かに顔を顰めて、ハナにやったのよりも乱暴に少年を捨てた。
地面にうつ伏せた体を眺めて、ハナは恐怖という感情がいやにゆっくりと引いていくのを感じた。
鬼女は巨石の陰から顔を出したリウカに声をかける。
「ちょうどいい練習台だ、リウカ、こいつを締めちまいな」
無感動なひとみでじっと見つめる娘に鬼女は手招きをする。歩み寄るリウカを抱きとめ、目を細めた。
鬼女が裸足の先で少年の横腹を転がす。仰向けになった体を覗き込んで鬼女とリウカはともにしゃがみ込んだ。
ハナは目線の先にある良く似たふたつの顔をぼうっと見つめた。
ハナの脳が、今目の前で起きた出来事をどこか他人事のようにあっさりと処理したのは、自分に関わる“死”に慣れてしまったからだ。
そしてリウカが今目の前の出来事になんの疑問ももたないのは、その肩を両手でしっかりと抱く鬼女がいるから。
二人がこれからしようとしていることはとてもおそろしいこと、頭では冷静に理解しているのに、ハナの視界はぼんやりと滲んだままだ。
ハナにとってその姿は、鬼である前に母と子だった――かかさま、ハナの乾いた口腔内で声にならない言葉が逆流する。
震える手で握ったままの簪を、へたり込んだ自分の太腿によじ登らせた。
森の木々も、月も星も、巨石もまた紙垂をわずかに揺らすこともなく黙している。
子にものを教える母の声だけが響いた。
「前に教えたね、鬼も人間もからだの作りは同じ。柔い人間と違ってあたしたちは細胞が強いんだけれど、たった一箇所だけ、壊れると死んでしまう弱点があるんだ」
母鬼の声に
「そう、そこだよ。ちゃあんとわかっているんだね、リウカはえらいねぇ」
頭を撫でられ、ようやくリウカに屈託のない笑みが戻る。
ハナは唇を噛みしめる。リウカが歯を見せて笑うたび、眩しさとは別の涙がハナの視界を歪めた。
なぜ、なぜ、母を慕うひとりの幼い子どもであるのに、少女は鬼なのだろう。
なぜ自分は動けないのだろう、なぜ少女を恐れるのだろう。
――ハナが幼い頃、両親は鬼に殺された。
父親は家族を守ろうとしたその刀で袈裟斬りにされ絶命した。
ハナを庇った母の首に噛みついて鬼は言った――なんじゃ、娘と違って母親は臭いのう。
母はハナを突き飛ばして叫んだ、叔父さんの家まで走りなさい。
そして自ら鬼にしがみつき、髪に差した紫の簪を抜き取って力の限り鬼に突き立てた。
走るハナが背中で聴いた母の絶叫は恐怖や苦痛ではなく咆哮だった。
叔父の家に着いたハナは返り血と涙に濡れた顔で訴えた、“かかをたすけて”。
それからハナは幾度となく鬼に襲われ、そのたびにハナを庇って、あるいは巻き添えで人が死んだ。
やがて鬼子と呼ばれ、親類縁者に引き取り手のなくなったハナは神職の家に預けられた。
ハナはいつか神様に呼ばれることだけを願って巫女の見習いにつとめた。
そうして十二の春、祭りの神楽奉芸で、織田という男に見初められたのだ。
ハナは男から、これまでの不幸は自身が鬼を寄せる血を持つが故だと知らされた。
嫁に来いと言われたハナはもうだれも死なせたくないと嘆いた。
――なァに死なんよ、
そう言って男はからからと笑った。
彼の家系は、幕領直属組織の中でも秘密裏に鬼退治を専門とする御役を担っていたのだった。
泣きじゃくるハナの頭を撫でて、男は目尻に細かな皺を寄せた。
――のぅ、おハナ。おまえさんにだって守れるんだぜ。
主人の声を思い出し、ハナは母の形見を太腿に突き立てた。浴衣越しに先端が肉に食い込み、鈍い痛みが目の縁の涙を弾く。
襲われながらも鬼の厚い胸板をなんども穿ち、ついには心臓を突いた母の細い簪が、途中で折れなかったのはなぜだろう。
今ここでわたしが助ける、そのためだ。
決意した瞬間、腿の痛みが足の先端まで駆け抜け、ハナは反射的に立ち上がった。
はっきりとした視界の中心に、少年にむかって拳を振り上げるリウカの姿を認めたハナは叫んだ。
「やめて!」
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