第4話 綺麗な思い出

        3年前


 ある夏の日。


 ――――――あの、落としましたよ。


 図書室から出ようとしたとき。


 凛とした、綺麗な声だった。


 覚えているのは、ひどい暑さだったこと。

 窓からは大きな入道雲が見えたこと。

 人気の少ない廊下だったから、その声が不思議なくらい透き通って聞こえたこと。


 ―――――そして、俺が落としたハンカチを差し出す腕が、今にも折れてしまいそうなくらい細かったこと。


 とっさにズボンの右ポケットに手を突っ込んで、ないことを確認した。


 ――――――ありが、と…………


 お礼を言う段になって初めて、君の顔を見た。


 可愛らしく垂れた瞳。淡い紅色に染まった頬。桜桃のように綺麗な赤色をした唇。


 そんな、人形のような顔立ちの中で最も目を引いたのは、その黒髪だった。


 当時、国語の授業で習った言葉でこういうものがあった。


 "緑の黒髪"


 曰く、女性の美しい黒髪を誉めて言う言葉らしい。


 そんな言葉が、すっと頭の中から出てきたことを、今でも覚えている。


 ――――――どうかしましたか?


 君は、小さく首を傾げた。


 い、いや―――――えっと、ありがとうございました。


 出会いは、たったそれだけのことだった。


 要するに、一目惚れだったんだと思う。


 それまで色恋に関しては全くの無関心だったのに、こんなにも簡単に落ちてしまうのかと、自分でも驚いた。


 気付けば、君のことを考える日々。


 クラスが違ったから毎日のように顔をあわせる機会はなかった。でも、だからこそ、廊下ですれ違ったときは、それだけで胸が踊った。


 やがて、夏休みが始まった。


 会わない期間が長くなっても、やっぱり気持ちは変わらなかった。


 でも、君は俺のことなんてとっくに忘れているのだろう。君にとって、あの図書室での出来事は、何でもないことだったのだろう。


 そんな風にも思っていた。


 だから、なおさら嬉しかったんだ。


 君が、もう一度、話しかけてきてくれたことが。





         現在  

 

 廊下を下っていく背中を見つめながら、嬉しい気持ちを抑えられずにいた。


 私がうざいことをしてるのは、私が一番分かってる。朝陽くんからすれば、私はただのクラスメート。大して関心もない人からしつこく話しかけられたら私だって面倒だと思う。


 それでも、私から何も接触しないでモヤモヤするよりはよっぽどいい。


 今は無理でも、いつかは振り向いてくれるかもしれないから。


 頑張るしかない。


「はーるかっ」


「わっ!」


 1人で物思いに耽っていると、突然、耳元から声がした。


「びっくりした~」


 後ろに立っていたのは、やっぱり花だった。


「ねえ、今の誰?」


 そう尋ねてくる花は、意地の悪い笑顔を浮かべていた。


 嫌な予感が全身を襲う。


 花はドSだ。人をいじったりからかったりすることにかけては右に出るものはいないだろう。


 誰かに朝陽くんのことを相談したいなとは思っていたけど、その相手として花だけはふさわしくないことは確かだ。


「ん? 何が?」


 だから、全力でとぼけることにした。


「遥がさっきまで話してた人だよ~。おんなじクラスの子? 仲良いの?」


 やばい。目が完全にイっている。獲物を見つけたライオンのようだ。


「あー、上村くんのこと? 先生に伝言頼まれてたからそれを伝えただけだよ」


 いたって平常心で答えながら名字呼びに変える私の対応力よ。


 さも何でもないことのように答えながら、教室に置きっぱなしの鞄を取りに戻るために走ってきた道を引き返す。


 花にだけは知られてはいけない。


 使命感に似たようなものを感じながら、『これで納得して!』と心のなかで願うが、

 

「え~? でもさ、その割には仲良さそうじゃなかった?」


 そう簡単には引き下がらない。


 くっ。さすが花だ。しつこい。私の朝陽くんへのアピールくらいしつこい。

 

「ていうか同じ名字なんだ」


「まあ、上村なんて珍しい名前じゃないしね」


「結構イケメンだったよね? ちょっと暗そうだけど」


「そ、そうかな? 別に普通じゃない?」


 まずい、イケメンというワードに動揺してしまった。


 やっぱり、他の人の目から見てもイケメンなんだ……………。


 このままだと花のペースに呑み込まれそうだ。そうなる前に私から話題を変えよう。


「それよりさ、これから映画見るんでしょ? 早く行こうよ」


「そうだね。下の名前は何て言うの?」


 全然私の話聞いてないー! 息を吸うようにスルーしたよ!


「んー、なんだったっけなあ」


 適当に答えながらも、冷や汗をかきはじめる。


 逃してくれそうな気配がない。


「クラスメートの名前くらい覚えなよ~」


「全員の名前覚えてる人なんてそんなにいないでしょ」


 教室のドアを開けると、涼しい空気が身体中を包み込む。


「涼しい~」


 花が気持ち良さそうに言う。


「私は覚えてるよ?」


「それは花が友達多いからでしょ」 


「あー、まあそれもあるかもね」


 ………………あれ?


「それに、まだ1学期が終わったばっかりだしね。3学期ぐらいになったら私だって覚えてるよ」


「それじゃ遅すぎるでしょ~。もうすぐクラス替えじゃん」


「あ、確かに」


 クスクスと笑みをこぼしながら、徐々に話題が逸れていることに気付いた。


 ここで畳み掛けるしかない。


「そういえばさ、映画って何時から?」


 お願い! 今度は私の話に乗って!


「えーっと、確か2時からのがあったけど、もう間に合いそうにないねえ」

 

「じゃあその次の時間にする?」


「うん、そうだね。それまで私の買い物に付き合ってよ」


「はいはい」


 私は小さく安堵のため息をついた。


 どうやら逃げきったみたいだ。もう朝陽くんの話を掘り返すことはないだろう。


 今後、朝陽くんに話しかけるときは周りに花がいないか確認しなければ。


「暑い~」


 教室を出ると、花がさっきと同じような口調で反対のことを言う。


 快適な涼しいところと肌を刺すような暑さのところを行き来すると、肌もびっくりしちゃうだろうな。


「遥はいいなあ~。寒がりで」


「冬はめっちゃ辛いけどね」


「暑いより寒い方がましじゃない?」


「そう?」


「ほら、寒かったら着込めばいいじゃん。でも暑くても裸にはなれないし」


 そんな風に他愛もない話をしながら歩いていると、下駄箱にたどり着いた。


 そこから自分のスニーカーを取ろうとした時、いつものことだけど、朝陽くんの上履きも見える。


 これから1ヶ月以上、会えないんだ。


 そう思って、少しでも関係を繋ぎ止めたくて、ラインを交換したんだけど……………


 実際、どう連絡すればいいのだろう。


「どうしたの?」


 花に声をかけられて、自分がスニーカーのかかとに手をかけたまま固まっていたことに気付いた。


「え? あ、いや。何でもないよ」


 笑って誤魔化しながら、急き立てられているわけでもないのに、そそくさと靴を履き変える。


 校舎を出ると、蝉の鳴き声がよりいっそう聞こえてくる。


「蝉うるせえ~」


 花は、思ったことは何でも言う。


「でも夏って感じがしない?」


「あー、分からんでもない」


 私は結構好きだ。


「私にとっての夏はスイカバーかなあ」


「そこは花火とかじゃないんだ」


「花火なんて毎年見るわけじゃないしねえ。そういえばさ~、朝陽って言うんだ。あの男の子」


「まあね~」


 考えてみたら、わたしも花火を間近で見た記憶はほとんどない。今年は見に行きたいなぁ。



 ………………………………………………ん?


 今、さらっと流したけど、文脈がすごく変だったような……………。


「花………………今何て言った?」


 私は取り繕うことができずに、いつの間にか歩くのをやめていた。

 

 ゆっくりと、花の方に視線を向ける。


 そこには、悪魔がいた。


 私は法廷に立つ被告人になったような気持ちで、その悪魔を呆然と見つめることしかできない。


 そして、私の聞き間違いだったことを願う。


 だけど――――――


 

「全部見てたよ?」




 その願いも空しく終わった。


 愉悦を顔に浮かべる花。それとは対照的に、死刑判決を下されて地獄のような顔をする私。


 全部………………最初から、最後まで………。


 朝陽くんとの会話を思い出す。


『ライン…………交換、しよ?』

『クラスのグループラインから追加しといてくれ』

『いいの?』

『いいよ』

『ありがとう!』


 あれを全部、見られた…………………………。


「よかったね。ライン交換できて🖤」


 その後しばらくは、恥ずかしさとショックのあまり立ち直ることができなかった。

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