ラウンジに戻る。みんなが一斉に顔を上げる。

 土屋が怒ったように言う。

「あまり一人で出歩くなよ」

 わたしはそれを無視して言った。

「犯人がわかった」

 土屋が黙る。竹井が言う。両手を抱えて椅子に座っている。

「もし犯人がわかったとして、警察がくるまで言わないほうがいいんじゃないか?」

 翔子が竹井をとめる。

「聞こう。倫子のために」

 わたしは言った。

「ちがうよ、翔子。真実を明かしても悲しみは癒えない。わたしはただ真実だから言うんだ」

「いいから言えよ。いまさら言わないのはナシだろ」

 木村が声をあげる。そもそもわたしが真相を発見したとは思っていないみたいだった。

 わたしはみんなを見渡した。座っているみんなを見下ろして言う。

「今日、わたしは一人の親友を失った。この親友を生き返らせるためなら、わたしは自分の命を犠牲にできる。だから、わたしはこの親友を殺害した犯人がだれか証明する。わたしのすべてを賭けて」

 わたしはスペアキーを取りだした。キータグを持ち、鍵をぶら下げる。キータグには「W-10」というシールが貼られている。

 みんなの視線がスペアキーに集まる。わたしは言った。

「きっかけはこの鍵だった。自分の部屋の鍵と見比べてみて。違いがあるでしょ」

 みんなはそれぞれ客室のキーを取りだし、わたしの手元のキーと見比べた。でも違いには気づかないみたいだった。だれもそのことを言い出せないみたいだったけど、翔子がはっきりと「違いなんてない」と言った。

 わたしは鍵の本体を手のひらに載せた。

「タグの向きが反対なんだよ。鍵には凹凸、つまり表裏がある。タグは鍵にリングでつながれてる。このタグの向きが逆になってた」

 そのせいで栗須の部屋のドアを開錠するとき、やけに手間取った。

 土屋が言う。

「つまり、タグは取り外しされて、また付けなおされたってことか。それが部屋が密室だったことに関係してるのか?」

 わたしはうなずいた。

「スペアキーを持ち出して、なにかの拍子にそれが気づかれたらヤバいでしょ。すぐにだれが持ち出したんだって話になる。場合によっては、栗須を殺害してる最中にそのことに気づかれるかもしれない。安全なのは、スペアキーのタグを外して、自分の客室のキーをつけて代わりに戻しておくこと。こうすればスペアキーを持ち出したことがバレない。

 栗須は崖崩れが起きる以前に殺された。それからラウンジにはみんないて、だれも事務室にいけなかった。栗須がみんなと別れてから、崖崩れが起きるまでは、翔子がずっとラウンジにいた。翔子はだれも事務室にいってないって証言してる。つまり、スペアキーの交換がおこなわれたのは、それ以前ってことになる」

「待ってよ」翔子が眉を寄せる。「スペアキーが交換されてたなら、その鍵は合わないはずでしょ? でも、実際に栗須の部屋の鍵は開いたじゃない」

「でも、タグの交換はされた。再交換できる機会があったのは一人しかいない。つまりわたしだけ」

 みんな、しばらくわたしが言っていることの意味がわからないみたいだった。土屋がおずおずと「それは自白ってことか?」と言う。

 それを聞き、木村が弾かれたように叫ぶ。

「ざッけんなよ!」

 わたしは無言で木村を見つめた。それで木村はまた黙った。

 マスターキーを出し、みんなに見せる。

「これはマスターキー。みんなは知らなかったと思うけど、これでこの建物の全室の鍵を開けることができる。だから、そもそもわたしはスペアキーを手に入れる必要がない」

 みんなの顔つきが変わる。ただ竹井だけは落ち着いていた。前にこの合宿所にきたときに、マスターキーのことを知っていたはずだ。

「スペアキーのタグの交換は実際にはおこなわれなかった。実際におこなわれたのは、タグを外して、そのことがわかるように向きを逆にして付けなおす交換もどきだった」

「犯人はなんのためにそんなことをしたんだ?」

 土屋が不審そうに言う。

「崖崩れが起きなかったときのことを考えてみて。まず、栗須の死体が発見されるのは明日の朝だった。もちろん深夜はラウンジが無人だろうから、いつスペアキーのタグの交換がおこなわれたかも問題にならない。そうすると、スペアキーのタグの交換が発見されたときに、一人だけ得をする人物が出てくる。つまり、わたし。この交換もどきは、わたしが自分を容疑から外すための〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉だった」

 翔子が眉を寄せる。

「やることが回りくどすぎる。〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉なんか残しても、犯人は容疑者を自分たちに絞るだけでしょ」

「あるんだよ」わたしは言った。「なぜなら、この〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉は、結果的に、わたし自身を犯人だと告発することになるから」

 みんなの理解が追いつくのを待つ。推理の展開は理解できても、どうしてこの二重の〈偽の手がかり〉が、わたしを犯人だと示すのかはわからないみたいだった。翔子がみんなを代表するように「なんで?」と言う。

 わたしはあらためて「W-10」のキータグを見せた。

「これが栗須の部屋の鍵だとわかる? 栗須の部屋だけじゃない。東棟の十室から西棟の十室まで、どの部屋にも部屋番号はついてない。この鍵の部屋番号もあくまで便宜上のもの。だから、キーボックスでスペアキーだけが残っているキーのなかで、〈W-10〉が栗須の部屋の鍵だとわかるのはわたしだけだった」

 木村が裏返った声をあげる。

「いや、そんなんだれでもわかるだろ!」

「きみの部屋の鍵は〈E-5〉だったね。正面の土屋の部屋の鍵についてる部屋番号は?」

 なにか言いかけ、木村は硬直した。わたしは言った。

「そう。〈E-6〉か〈E-10〉か判断できない。わたしがマスターキーを持っているのに、客室のキーまで取ったから、〈E-1〉〈E-5〉〈E-6〉〈E-10〉〈W-1〉〈W-10〉のキーが取られてた。おまけに、栗須は推理小説を発表するまでずっと事務室にいた。ほかの宿泊客が泊まっている部屋を知る機会はあっても、使っているキーのタグを見る機会なんかない。ほかのすべての宿泊客の部屋を知って、栗須の部屋のキーが〈W-1〉か〈W-10〉かまで特定したとしても、それ以上は決定できない。殺人事件の偽装工作で、二分の一の確率に賭けるはずがない。

 〈W-1〉のキーを持っている翔子だけは、栗須の部屋のキーを〈W-10〉だと特定することができた。でも、この〈偽の手がかり〉はわたしを犯人から除外するためのもの。わざわざ自分を犯人だと示す〈偽の手がかり〉を残すはずがない。

 つまり、犯人は犯人がわたしだという〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉を残したわたしだということになる」

 わたしは言葉を区切り、みんなを見回した。

「でも、わたしは犯人じゃない」

「どういうことだ?」

 土屋が聞く。わたしは言った。

「だから、これは〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉だってこと。そして、この三重の〈偽の手がかり〉を残せたのは、わたしとほかに一人しかいない。

 わたしがキーを渡したのは、栗須、翔子、竹井、土屋、木村の順番だった。つまり、翔子はキーボックスからなくなっているキーを見れば、その時点で栗須の部屋を知ることができた。

 翔子はずっとラウンジにいたって証言した。これはみんなが事務室にいかなかったアリバイを証明してるけど、同時に、自分がずっとラウンジにいたアリバイも証明してる。そしてアリバイを用意しながら、翔子はわたしが犯人だと示す〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉を作った」

 翔子はなにも言わなかった。ただ床の一点を見つめている。みんなは呆然と翔子を見ていた。

 わたしは言葉を続けた。

「でも、そうじゃない。翔子は犯人じゃない」

 翔子はハッとして顔を上げた。

「議論を崖崩れが起きたときまで戻す。崖崩れが起きて、みんながラウンジに集まったとき、翔子はそれまでだれもこなかったって言った。もしそうなら、スペアキーのタグが再交換されていることは、そもそも物理的に翔子が犯人だと示すことになる。だから、そんな証言をするはずがない。翔子は犯人じゃない。その証言も信用できる」

「どうしてそれが、〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉じゃないって言えるんだ?」

 土屋がわたしを睨みあげる。

「崖崩れが起きたのは偶然で、予想できない。だから、そのことを踏まえて、あらかじめ翔子が犯人だって〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉を作ることはできない。だから、その〈偽の手がかり〉という四重の〈偽の手がかり〉も成り立たない。わたしはあらかじめスペアキーのタグを再交換して、マスターキーを使うこともできた。けど、翔子はわたしにアリバイがないことを知らなかった。だから、その四重の〈偽の手がかり〉も、翔子には作ることができなかった」

 翔子はわたしに、自分の部屋に入らなかったか詰問した。あれは、わたしがどこで何をしていたか知らなかったということだ。

 翔子は強ばらせていた肩を解いた。それで、わたしはいままで翔子が緊張していたことを知った。翔子は自分が犯人だと思われることより、わたしが翔子を犯人だと思うことのほうがつらかったかもしれない。

 翔子に謝りたかった。けど、その代わりにわたしは推理を続けた。

「つまり、犯人は翔子が犯人だって〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉を残したことになる。そして、それができたのはわたししかいない。でも、わたしは犯人じゃない」

 土屋と木村、竹井はおたがいを疑いの目で見ていた。すでに三人が犯人でありえないことは言ってある。三人はわたしの推理がどう展開するのかわからないみたいだった。でも、もう疑問を挟もうとはしなかった。

 わたしは言った。

「だから、ここで論理が逆転する。スペアキーのタグの再交換は、栗須が部屋に入る前、あらかじめされていた。でも、それはアリバイ工作とは関係なかった。犯人はただ、二度も事務室と行き来しなくていいように、スペアキーのタグの再交換だけをした。実際に交換されていたのは、栗須の部屋にあった第一のキーのキータグのほうだった」

 翔子がハッと顔を上げる。わたしは続けた。

「栗須の死体を見つけたとき、わたしはとり乱した。だれでも栗須の部屋にあった第一のキーのキータグを交換することはできた。そもそも、その時点では部屋が密室かはだれも問題にしていなかった。ある程度は計画のうちだったとしても、崖崩れと翔子の証言を合わせて、犯人はわたしが犯人だって〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉を残すことに決めた。

 犯人の条件は二つある。第一に、この合宿所の部屋番号の割り当てを知っていること。第二に、栗須が部屋に入る前に、栗須の部屋番号を知っていたこと。

 第一の条件から、土屋と木村は除外できる。以前、この合宿所にきていなければキータグの部屋番号の割り当てなんか知るはずがない。土屋は帰宅部だし、木村は男子サッカー部の合宿をサボったらしい。竹井は男子テニス部の合宿でこの合宿所にきていた。マスターキーの存在も知ってた」

 竹井は苦笑して片手を上げた。

「待って、待ってくれよ。おれが栗須さんを殺すはずがないだろ。そもそも話したこともないって」

 わたしが推理を続けようとすると、竹井は早口で言った。声が高ぶっている。

「なにかの機会に土屋や木村が部屋番号の割り当てを知ることだってありえるだろ!」

 わたしは推理を続けた。

「わたしがキーを渡したのは、栗須、翔子、竹井、土屋、木村の順番だった。翔子の部屋さえ知れば、キーボックスからなくなっているキーから、竹井は栗須の部屋を特定することができた。それに、竹井は翔子が栗須の部屋を知っていることもわかった。竹井と入れ替わりに事務室に入った土屋、そのあとにきた木村は、翔子が栗須の部屋を知っているかわかることはなかった。翔子が最初にキーを受け取ったなら、ほかのすべての宿泊客、最後にキーを受け取ったなら、すくなくとも竹井の部屋を知っていないといけない。そんな賭けをするはずがない。

 竹井は翔子が犯人だって〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、わたしがそれを残したっていう四重の〈偽の手がかり〉を残すことができた」

「いや、待てって。なあ」

 竹井は媚びるような半笑いで左右を見た。みんなが竹井を見ていた。だれもなにも言わなかった。わたしは言った。

「でも、そうじゃない。竹井は犯人じゃない」

 みんなが一斉に竹井からわたしに視線を移す。

「わたしは竹井の前で、翔子に〈いちばん右〉って言って〈W-1〉のキーを渡した。これはわたしたちのあいだでは西棟のことだって通じるけど、知らないひとには、向かって右手にある東棟のこととしか思えない。わたしたちはコンクールで舞台に立って、そのときの上下でそう言った。舞台下手、観客席から見て左側が右側。舞台上手、観客席から見て右側が左側。つまり、ほかのひとと左右が反転していたんだ。

 竹井は翔子が泊まっているのは〈E-10〉の部屋だと思ってた。そして、竹井は自分がそう誤解していることを、わたしに話していた。それに翔子にも」

 竹井はわたしが〈E-10〉の部屋から出たとき、わたしが翔子の部屋から出たような反応をした。そして、おそらく竹井は翔子にそれを話した。翔子がわたしに自分の部屋に入らなかったか詰問したのは、そのためだったのだろう。

 わたしは続けた。

「これは〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉じゃない。その時点で、竹井は崖崩れが起きることを知らなかった。だから、その五重の〈偽の手がかり〉を残すことができなかっただけじゃない。そうすることは、崖崩れが起きなくて、たんに一夜を明かしたあと、自分が〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉を残した犯人だと思わせることになった。だから、そんな演技をするはずがない。竹井は犯人じゃない」

 みんなは表情に困惑を浮かべた。

 翔子がポツリと言う。

「なら、犯人は?」

「条件に当てはまるのは一人だけ。部屋番号の割り当てを知っていて、栗須が部屋に入る前に、栗須の部屋番号を知っている。つまりわたし。わたしが自分が犯人だと示す〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉の〈偽の手がかり〉、その〈偽の手がかり〉を残した」

 みんながわたしを見上げる。わたしは言った。

「はじめに言った。わたしはわたしのすべてを賭けて、栗須を殺した犯人を証明するって。わたしは全力を尽くして、犯人がわたししかありえないことを証明した。わたしはこの下らない推理劇の探偵役をつとめた。だから言うことができる。わたしは犯人じゃない」

 みんなは黙っていた。わたしが言ったことの意味を考えているみたいだった。外から強い雨音が聞こえていた。沈黙を破ったのは、やっぱり翔子だった。

「つまり、どういうこと?」

「手伝ってほしい。危険かもしれない。たぶん、警察がくるのを待ったほうがいいんだと思う。でも、わたしは自分で引導を渡したい」

 翔子は怪訝な顔をしていたけど、はっきり「わかった」と言った。

 男子たちも顔を見合わせ、立ち上がる。

 どこから近づけばいいかわからない。でも、できればいきなり鉢合わせすることは避けたい。

 事務室から大型の懐中電灯を取ってくる。栗須の部屋に向かう。犯人も犯罪現場にはなるべく近づきたくないはずだ。わたしのあとからみんながついてくる。

 部屋に入る。栗須の死体に、わたしは心のなかで謝罪した。椅子を浴室に運ぶ。浴室の天井には天井裏に通じるパネルがある。現実での密室殺人なんてこんなものだ。椅子の上に立ち、パネルを押し上げる。みんなは床でわたしを見守っている。

 天井裏はコンクリートが打ちっぱなしの広い空間だった。ただし高さはなく、鉄骨の柱体があるから見通しは悪い。有機樹脂のパイプが底面から通っている。うすく埃が積もっている。湿った臭いがしている。

 わたしは懐中電灯の光跡をめぐらせた。埃にだれかが這った痕跡がある。懐中電灯の円形の光跡が、底面に当たって長く伸びた。

 片隅に雑然と着古した衣服が積みあげてある。菓子パンの包装や、缶詰の空き缶といった食料品の大量のゴミが固まっている。さらに光跡をずらすと、埃で汚れた人間を照らした。暗闇のなかで、懐中電灯の光に輝き、二つの濡れた目が見返している。

 吹奏楽部の去年の部長だった。


 わたしは部長に「朝になれば警察がきます。警官に天井裏から引きずり出されるのはみっともないですよ」と勧告した。

 椅子から床に下りる。みんなは心配そうにわたしを待っていた。

 しばらくして、天井の点検口からズボンの足が突き出された。椅子に着地する。床に下りる。シャワーを使う時間はなかったから、全身が埃と乾いた血で汚れていた。

 みんなは突然あらわれた部外者に困惑していた。年齢が近いことだけがパニックを起こさない理由だった。ただ部長を知る翔子だけが呆然としていた。

 部長を囲むようにしてラウンジに移動する。

 ラウンジにつくと、部長は疲労の限界に達したようにソファに座りこんだ。

「えッ、だれ?」

 木村が気持ち悪そうに言う。

「去年、わたしたちが二年生だったときの吹奏楽部の部長」

 わたしは簡単に答えた。合宿所に侵入した部外者なら、無数に想定することができた。ただ犯人はわたしを犯人に仕立てる工作をしていた。考えられる侵入者のなかで、わたしに関係があるのは部長くらいだった。

「なんでそんなやつが栗須を殺すんだよ」

「わからない…」

 力なく答える。本当にわからなかった。わたしにわかったのは犯人だけだった。以前この合宿所を利用し、マスターキーを借りたひとなら、その複製を作っておいて、気づかれずに合宿所に侵入できる。そうしたひとなら、キータグの部屋番号の割り当ても知っているはずだ。そもそも、栗須の部屋が密室になったのは偶然だ。犯人は単純に天井裏から出入りし、たまたま密室になった。そう考えるのが自然だった。

 翔子が部長を問いただす。

 部長が語ったことは、以下のとおりだった。

 部長は大学受験に失敗し、浪人した。先月、家族との折り合いが悪くなり、家出した。この合宿所のマスターキーの合い鍵は、去年、思いつきで作っていた。そのときは実際に使用するとは思わなかった。合宿所は風雨がしのげ、水道を使うことができるため、家出に都合がよかった。だが、合宿所の宿泊客は同年輩で、彼らが楽しそうにしていることに、鬱屈が募っていた。それが、ついに顔見知りのわたしたちが訪れたことで爆発した。

 まったく理解できない動機だった。けど、それはほとんどの殺人事件でそうだ。被害者の家族や友人にとって、殺人事件はいつも唐突に起こる。そこに理由なんてない。

 犯人が逮捕されれば、裁判で動機とされるものを証言するけど、それは被害者の家族や友人にとっては不条理なものでしかない。

 部長は自分のつらさを語っているようだったけど、どこか嬉しそうだった。自分のことを語るのが好きなひとだったな、とわたしは思い出した。

「なんでこんなことをしたかわかる?」

 部長はわたしに言った。

「去年、地区大会の前、わたしが部員の前で演説したことがあった。〈たかが高校の県大会にアツくなるのは無意味かもしれない。ただの青春ゴッコかもしれない。けど、青春ゴッコなら青春ゴッコでいいじゃない〉って言った。そうしたら、あんたがなんて言ったかおぼえてる?」

 わたしは無言で首を振った。そんなことがあったことすらおぼえていなかった。

「あんたは〈なら、青春ゴッコじゃなくて、青春ゴッコゴッコですね〉って言った。わたしの青春のすべてが否定された気がした。そんなとき、あんたたちがこの合宿所にきた。わたしがこんなに苦しんでるのに、そんなことを知らずにあんたたちは楽しそうにしてた。だから復讐したの。あんたはミステリが好きだったから、あんたを殺すんじゃなくて、あんたみたいな頭のおかしい人間がしそうなことをして。あんたみたいな頭のおかしい人間に、どうしてわたしが否定されなきゃいけないの!」

「頭がおかしいのはあなたのほうでしょう!」

 翔子が鋭く叫ぶ。部長に怒っているらしい。翔子は肩を震わせると、抑えた声で言った。

「そんなことで否定される青春なら、はじめから価値はなかったんですよ」

 部長はなにも答えなかった。わたしは静かに聞いた。

「どうして栗須を狙ったんですか」

 部長は質問の意味がわからないみたいだった。不思議そうに答える。

「小柄で殺しやすそうだったから…」

 こんな下らない人間に、下らない理由で栗須が殺された。やるせなかった。安っぽい大衆小説か、高尚な純文学の登場人物のように感情的になりたかった。

 けど、その代わりにわたしは推理小説の名探偵のように言った。

「部長。あなたは物語の主役じゃありません。もちろんわたしも違います。なぜなら、この世界は物語として作られていないからです。あなたが自分を物語の主役だと思いたいなら、だれとも関わるべきじゃありませんでした。

 すくなくとも、殺人なんて注目されることはすべきじゃありませんでした。あなたにはいまから長い取調べ、長い裁判、長い服役、そして、出所後の長い人生が待っています。もしあなたが自分を物語の主役だと考えつづけるのなら、あなたは現実に耐えきれないでしょうね」

 部長はガックリと肩を落とした。わたしはすべてが終わったことを知った。

 それから朝まで、だれもなにも話さなかった。部長をふくめ、広いラウンジでおたがいに距離を空けたまま黙っていた。

 明け方、土屋がスマホにテレビを映した。ニュースが放送されている。スマホをテーブルに立てかける。テロップが出ている。「埼玉県秩父市で崖崩れ 死者1名」と表示されている。ニュースキャスターが話す。

〈埼玉県などによると、昨晩からの大雨の影響で、埼玉県秩父市秩父山地で崖崩れが発生しました。道路が寸断され、一軒のコテージが孤立しました。コテージには合宿中の高校生六人が宿泊しており、少なくとも一名の死者が出たということです。埼玉県警は災害警備本部を設置し、被災者の迅速な救出を目指すという声明を発表しています〉

 あれほど強かった雨は、朝にはウソのようにやんでいた。

 スマホに着信がある。沼田からだった。通話に出る。

〈沼田です。その後、変化はありましたか。天候が回復したので、航空隊のヘリが向かいました。山岳救助隊の隊員が吊り上げますので、コテージの前庭に出て待機していてください〉

「そのことですが、生存者は五人じゃなく、六人になりました。合宿所に一人隠れてて… いえ、合宿の参加者じゃありません」沼田が緊張して質問する。「はい。犯人です。もう殺害を自供しました」

 沼田は逮捕のための警官を派遣することを約束して、通話を切った。

 みんなに通話の内容を話す。部長をふくめ、全員で前庭に出る。

 空は雲ひとつない快晴だった。雨が大気中の汚れを全部流したらしく、澄んだ青空が広がっている。地平線の縁だけわずかに白んでいる。

 やがて、ヘリコプターのプロペラ音が聞こえてきた。一機のヘリコプターが頭上を直進してくる。直上で滞空する。機体が朝日に輝き、曲面が銀色に輝いている。機体には「埼玉県警」と印字されている。やがてスライド式のドアが開き、搭乗員が降下の準備をはじめた。


 秩父警察署の警察官の話によると、部長は十九歳で少年法の適用を受けるから、一度、さいたま家庭裁判所秩父支部の審判で逆送されてから、さいたま地方裁判所で裁判をするそうだ。そのときにはわたしも証人として出廷するだろうと言われた。

 朝霞東高校は始業式の日、全校集会をおこなった。そのまま一週間の休校が決まった。

 栗須の葬儀は数日して、司法解剖が終わって死体が戻ってからおこなわれた。会場は市営の斎場だった。たくさんの報道機関が斎場の前に集まっていた。

 わたしたち三年G組の生徒は全員参列した。木村も、竹井も、土屋も、神田も、西条も、翔子も、橋津も、三崎も、全員がいた。栗須だけがいなかった。

 栗須のママは泣きじゃくっていた。当然だ。一人だけの娘がいきなり理不尽に殺されたんだから。栗須のママは怒り、悲しみ… それで終わりだ。どうにもできない。世界にはどうにもできないことがある。いまのわたしはそのことがわかっていた。

 休校明けの日、わたしは早めに登校した。自習室の前の休憩スペースにいく。図書室も自習室も開いていない。だからその場所は無人だった。いつも栗須が座っていた席の正面に座り、空席を見た。

 どのくらい時間が経っただろう。「ここにいたの」という声が聞こえた。

 翔子がいた。

「教室に鞄があったから、どこにいったのかと思った」

 わたしがなにも言わずにいると、翔子は言った。

「校門の前にテレビ局かなんかのバンがきてたよ。非日常って感じ」

「ちがうよ」わたしは無感動に言った。「どんなことがあっても日常は続く。だからこれも日常なんだ」

 翔子は「倫子…」とつぶやいた。心配そうな顔をしている。

 やり場のない怒りがこみあげる。わたしはイライラして言った。

「前に栗須と話したことがある。推理小説が殺人を娯楽としてあつかうのは不謹慎なんじゃないかって。そのときは『ABC殺人事件』の〈たかが三人死んだだけだ。毎週、交通事故で百四十人が死んでるじゃないか〉ってセリフで答えた。けど、交通事故の被害者にも家族がいるんだ」

「いまはその気持ちがわかる?」

「わからないよ」目から涙があふれる。「家族や知り合いを亡くしたひとの気持ちは、そのひとにしかわからないんだ」

 喉が熱くなる。うめきがこみ上げて、涙がとまらなくなる。わたしは涙声を漏らした。

 わたしが落ち着くと、翔子は持っていた鞄からなにかの盤面を出した。レコード盤みたいだった。「これ」と言って、わたしに渡す。

 翔子は廊下に戻ろうとした。去り際にふり返る。

「勝手だけど、死なないでね。この世界に生きる価値なんかなくて、なにかに慰めを求めてるのはあなただけじゃない。あなたは推理小説かもしれないけど、わたしは友達とのおしゃべりだから」

 背中が見えなくなる。レコード盤を見る。曲は『浪漫の騎士』だった。

 スカートのポケットに入れていたノートを出す。栗須の書いた原稿を挟んでいた。涙をこらえて読んだ。それは栗須が生きた証しだった。「信頼できない語り手」なんていない。だって、どんな小説もだれかに読ませるために書かれている。

 栗須はこの世界をありのままに認めることが大事だと言っていた。でもそれはまちがっている。だって、そこには愛がない。ひとを動かすのは愛の欠如じゃなく、愛だ。無はなにもしないからだ。

 けど、そのことを伝えたい相手はもういなかった。涙はもう枯れていた。やがて太陽が高くなり、窓から白い日が差した。強い光がわたしの横顔を照らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならホームズ ピケティ太郎 @piketytaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ