***


『無題』


 実業界で有名なピーター・ウッドが殺害された。

 死体はウッドのカントリーハウスの書斎で発見された。

 カントリーハウスは左右に翼棟のある立派なものだった。赤いレンガの壁に、白い窓枠が整然と並ぶ。切妻型の屋根が覆っている。

 書斎は左右の壁を本棚が埋め、正面に大きな窓がある。窓に向かうように、広い執務机が置かれている。死体は椅子に座ったまま、机につっ伏していた。額に深い打撲傷があり、それが死因だった。

 ウッドはオクスフォード大学を卒業し、何年か大企業で働いたあと、共同経営者のカスター・スコットとともに独立した。

 スコットはオックスフォード大学の同窓生だ。事業の都合で、会社はロンドンから離れたこの土地に設立された。

 スコットの生家があるのもこの土地だった。スコットが幼いときに、両親は離婚していた。スコットの母親は、周囲からの反対を退け、スコットと弟のポラックスの二人とも育てた。

 スコットはあまり会社に顔を出さない。実務の大半はウッドがおこなっていた。

 ウッドは地元有力者の娘と結婚し、この土地にカントリーハウスを建てた。10年ほど前のことだった。


 私は新聞記者で、取材のためにここに出張していた。取材はすぐ済み、帰社まで余裕があった。取材のあいだ、私はロバート・オブライエンという探偵と知りあった。

 オブライエンは私と同じホテルに宿泊していた。この日、私とオブライエンは、朝からホテルのバーで雑談していた。

 話題は競走馬の脚質だった。逃げが基本だと言う私に、オブライエンは差しの方が重要だと語った。

「大事なのは末脚だ。レースはゴールに着くまでわからない」

 そう言い、オブライエンはスコッチのグラスを傾けた。

 ウェイターがきて、オブライエンに電話だと言った。オブライエンは席を立ち、しばらくして戻ってきた。

「実業家のウッドが殺されたそうだ。一緒にくるか」

 ウッドの名前はロンドンでも知られている。私は腕時計を見た。昼前だった。この時間では、上司のケーン部長はまだ出社していない。私は社に報告する前に、オブライエンと現場にいくことに決めた。


 ウッドのカントリーハウスの前で、私とオブライエンは車を降りた。道路に警察のものらしい自動車が停まっている。

 オブライエンは見張りの警官に名乗り、屋敷に入った。私はオブライエンに続いた。

 屋敷の中では、数人の刑事が捜査していた。オブライエンは責任者らしい男に言った。

「ゴードン警部。ウッド夫人は?」

「署に連行した。あの女が犯人で間違いない」

 ゴードンは中年で太っていた。深酒して寝ていたらしく、酒臭く、髪が乱れている。

「1時間ほど前に、ウッド夫人から電話があった。ここの警察は信用できないから、私に捜査してほしいとね。もうウッド夫人を犯人だと特定したのか?」

 オブライエンの言葉に、ゴードンは頬を引きつらせた。

「確かだ。動かせない証拠がある。現場を見ろ」

 ゴードンは私たちを書斎に案内した。ウッドの死体が椅子に座り、机に倒れている。

 机の上で手紙が開かれている。死体の頭から流れた血で汚れている。

 絨毯に血のついた彫像が転がっている。

 オブライエンは床に膝をつき、彫像を見た。

「これが凶器か?」

「そうだ。メイドの話では、もともと書斎にあったものらしい。犯行は計画されたものではないな。状況だけなら、物盗りの仕業のようにも見える」

「しかし、そうではない」

「死因は頭部への一撃だ。だが、調べるとウッドは前から殴られていた。この大きな机を挟んで殴ることはできん。つまり、犯人はウッドと顔見知りで、話しているときにカッとなって殺した。それから、顔見知りの犯行だとわからないように偽装したというわけだ」

「だが、それだけではウッド夫人が犯人だとは言えない」

「死体の状態からして、殺されたのは7時から10時のあいだだ。ところで、この書斎にいくには大広間を通るしかない。ウッド夫人は9時から死体が発見された11時まで、ずっと大広間にいた、そして、誰も書斎にいっていないと証言している。だが、ウッドは10時前に書斎から会社に電話をかけている。もちろん、他の場所から侵入した痕跡がないかは調べた。だが、そんなものは見つからなかった」

「密室殺人ということになるな」

 オブライエンは言った。

「それより、ウッド夫人が嘘をついていると考えた方が早い。ウッドが電話をかけたことを知らなかったんだろう。そのせいで証言にボロが出てしまったんだ」

「死体を発見したのは?」

「メイドだ。屋敷の使用人は全員、地元の人間だ。ウッドがロンドンから連れてきたものはいない。身元は確かだ。ウッドとの個人的な関係もない。ちなみに、ウッド夫妻に子供はいない」

「電話を受けたのは?」

「共同経営者のスコットだ。事業が忙しい時期で、先月からここにきていたそうだ。母親もウッドと顔見知りだったらしく、連れてきている」

「スコットに話を聞きたい。ウッド夫人に嘘をつく理由がない」

「いいだろう。ウッドが殺されたという連絡を受けて、妻とこの屋敷にきている。応接間で待たせてある」


 私とオブライエンは応接間に移動した。応接間は広く、暖炉がある。スコットと母親はソファに腰かけていた。スコットは痩せ気味で、黒髪が額に張りついていた。スコット夫人は顎が太く、女傑という風情だった。

 オブライエンはスコットたちに名乗った。

「探偵のオブライエンです。ウッド夫人に依頼され、ウッド氏を殺害した犯人を捜査しています」

「警察はウッド夫人が犯人だと言っているが」

 スコットは言った。

「それはまだわかりません。あなたは会社でウッド氏から電話を受けたのですね?」

「そうだ。短い通話で、帳簿を持ってきてくれということだった」

「失礼ですが、そのことを証明できますか?」

 スコットがオブライエンを睨む。

 ゴードンが声をかける。

「部下を電話局にやって確認させた。たしかに通話記録が残っている」

 それを聞き、オブライエンは考えこんだ。

 スコット夫人が声をあげる。

「ああ、かわいそうなウッドさん。息子ともとても仲が良くて。まだ若いのに亡くなってしまって」

 スコットが咳払いし、母親の大げさな嘆きをとめた。

 アイルランド人らしい刑事がゴードンのもとに駆けよる。

「警部。きてください」

 ゴードンは書斎にいった。私とオブライエンもついていく。

 刑事は血で汚れた手紙を示した。

「封筒の消印は昨日の23日です。それで、手紙を読んだのですが……」

 ゴードンは手紙を取りあげた。読み、オブライエンに手渡す。

 オブライエンは手紙に目を通し、最後に、左下の署名を見た。

「差出人は地元の住人で、匿名希望と書いている。内容は、スコットがウッドの妻と密会する現場を見たというものだ。密告した代わりに、報酬を要求している」

「むしろ、その差出人がスコットを脅迫しなかったことが気になるな。だが、これでウッド夫人の動機はわかった」

 ゴードンは言った。

 オブライエンが首を振る。

「いや、この手紙は犯人が偽装工作のために置いたものだ。ウッド夫人が犯人なら、わざわざ自分の動機を知らせるものを使うはずがない。ウッド夫人は犯人ではない」

「だが、なら犯人は?」

「ゴードン警部。私が言うことを確認してほしい」


 数時間後。カントリーハウスの応接間で、私たちはふたたびスコットたちと対面していた。

 オブライエンは言った。

「ウッド氏が発見された書斎にいくには、大広間を通る必要がある。ウッド夫人は9時から大広間にいて、誰も通っていないと証言している。だが、ウッド氏が10時前に会社に電話をかけたという記録が残っている」

 スコット夫人が口に手を当てる。

「まあ。あなたは、ウッド夫人が嘘をついていると言うんですの?」

「いや。犯行現場は、ウッド氏が手紙を読んでいるときに殺されたように偽装されていた。だが、その手紙はウッド夫人の動機をさし示すものだった。もしウッド夫人が犯人なら、そのような手紙は隠滅するはずだ」

「では、犯人はどうやって大広間を通りましたの?」

「そもそも、電話は書斎からかけられていなかった。確実なのは、この地域からかけられたということだけだ。犯人はアリバイ工作のため、ウッド氏が屋敷の書斎から電話をかけているように装った。それが、予期せぬ密室を作りあげてしまった」

 ゴードンが言う。

「スコット氏。あなたの会社にいって社員を締めあげました。あなたの弟が銀行から預金を詐取し、いまあなたは財政難だそうですね。いまウッド氏と対立することはできなかったでしょう。

 それだけではありません。電話を受けたのはあなたでなく、自分だったと証言しました。そして、あなたの執務室の電話を取ったが、そのときあなたは執務室にいなかったとね。どこにいたのか説明できますか?」

 スコットはがっくりとうなだれた。

 私は腕時計を見た。そろそろケーン部長が出社する時間だった。私は社に電話をかけ、一部始終を報告した。


***


 翔子と竹井が食堂に戻ってくる。

 黙っていても仕方ない。わたしはみんなに推理ゲームの脚本を忘れてきたことを話した。

 木村がおおきく甲高い声をあげる。

「ええ? どうするんだよ」

 大げさな反応にイラついたけど、わたしが悪いから表情に出せない。そのせいでなおさら鬱屈とした。

 翔子が静かに聞く。

「データはクラウドに保存してないの?」

「USBメモリに保存してたから。この合宿所にもプリンターがあるって聞いてたから、それも持ってくるつもりだったけど、原稿とまとめておいたせいで一緒に忘れた」

 翔子は肘をさわるように腕組みした。

「いつもノートを持ち歩いてるでしょ。脚本のアイディア、プロットって言うの、それもノートにメモしてあるんじゃない」

 わたしはボトムスのポケットに丸めて差したノートを見た。言葉にならない返事をする。

 栗須を見る。たしかに推理ゲームに必要な脚本を、ノートのメモから書きおこすことはできる。けど、本当の脚本は栗須に探偵役を務めさせるために書いた。もちろん推理ゲームだから、参加者の全員が解答できるように作った。けど実質的には、栗須にしか解かせないつもりだった。それで栗須にわたしの名探偵に復帰してほしかった。

 わたしの視線に、栗須が応じた。けど、その言葉は予想とまったくちがっていた。

「わたしが書く」

 みんながポカンとする。

「わたしが書くよ」栗須はもう一度言った。「推理ゲームはよく知らないから、推理小説になるけど、その問題編を書く。みんながそれでいいならだけど」

 土屋が小声で「まあ、おれはべつにどっちでもいいけど」と言う。ほかのみんなもとくに反対意見はないみたいだった。なにも言わないわたしに視線が集まる。

 栗須は長テーブルを挟み、対角線上からわたしを見た。

「解いてよ」

 わたしはなにも答えなかった。ほかのみんなは、栗須が言うことの意味がよくわからないみたいだった。

「ずっと倫子が問題を持ちこむ側で、わたしが解く側だったよね。今度は倫子が解いてよ。書くことは、あなたの専売特許じゃないんだから」

 栗須はそう言った。


 宿泊の部屋割りを決める。というか、わたしが勝手に決めた。

 事務室に客室の鍵を収めたキーボックスがある。マスターキーで事務室のドアを開錠する。

 床はカーペットが敷かれている。スチール製の戸棚がある。開くと、上段には秩父市の建築確認証や消防の申請書、届出書といったファイルが収まっていた。下段には備品が入っている。

 山荘とくれば見取図だ、と思って探す。確認申請図面というものが見つかる。けど、確認申請図面はいちいち部屋の寸法と名称が書いてあって、現実的すぎた。客室にはひとつずつ「客室」と書かれている。あと実施設計図というものがあったけど、建物の区画に配線、配管が書いてあるだけで参考にならない。

 スチール製の事務机がある。卓上のブックスタンドには秩父盆地のガイドブックが立てかけてある。ノートパソコンが閉じてあった。

 大きなコピー機が置かれている。事務机に金属製の箱が立てかけてある。キーボックスだ。

 客室は東棟と西棟に分かれ、それぞれ十室ずつある。ラウンジから右手に伸びた廊下から、二本の通路が伸びている。通路はそれぞれ左右に五室ずつある。右側の十室を東棟、左側の十室を西棟と呼んでいる。

 キーボックスそのものに鍵はなく、ボタンを押せば取っ手が跳ねあがる。なかにずらずらと鍵がかかっている。

 三列あり、一列目が東棟、二列目が西棟、三列目がその他だ。

 長円形のキータグでフックから二本ずつ下がっている。キータグは片側に部屋の種類が印刷されたテープが貼られている。東棟は「E-1」から「E-10」、西棟は「W-1」から「W-10」だ。

 ただし、客室に表札はない。ただのっぺりしたドアが並ぶだけだ。わたしは管理事務所で説明を受けたから部屋番号はわかっている。

 事務室の前に合宿の参加者を呼ぶ。

 まず栗須に鍵を渡す。部屋割りは事務室に近いところにすべきだろう。

「これ、手前の通路のいちばん手前の右側ね」

 栗須はリュックサックを床に置いた。そのまま事務椅子に腰かける。

 わたしは顎で事務机を示した。

「そのパソコンを使えば?」

「ロックがかかってるんじゃないの」

 わたしがノートパソコンを開くと、パスワードの書かれた付箋が貼られていた。栗須は小さな口を結んだ。「パスワードの意味がない」とつぶやく。

 次に翔子を呼ぶ。

「はい。コンクールと同じ、いちばん手前のいちばん右ね」

 わたしはニヤつきながら翔子に「W-1」の鍵を渡した。

 翔子は嫌そうな顔をして鍵を受けとった。さっさと事務室を出ていく。吹奏楽部のコンクールで、クラリネットの翔子は、舞台下手の最前列で演奏した。いちばん目立つ位置だ。

 ちなみに、チューバのわたしは、翔子と対称になるように舞台上手にいた。

 あとは男子たちに東棟の部屋を割り当てた。翔子の後ろで待っていた竹井に、「E-1」の鍵を渡す。

「奥の通路のいちばん手前の左側ね」

 入れ替わりに入ってきた土屋に「E-6」の鍵を、木村に「E-5」の鍵を渡す。

 わたしは翔子にならって、「E-10」の鍵を取った。マスターキーがあれば個別の鍵はいらないけど、気分だ。

 栗須を事務室に残し、わたしたちはあらためてラウンジに集まった。

 夜までどうするかという話になる。

 木村が「人狼やんね、人狼!」と騒ぐ。

「こんなところまできて人狼もないでしょ。一応、勉強しとかない?」

 翔子が眉を寄せて言う。みんなで教科書と参考書、文具を持ってまたラウンジに戻る。

 丸テーブルに五人でかけて、それぞれ自習する。けど一時間もすると、また木村が騒いだ。大声で「あー! 飽きた!」と言って、両腕を投げだす。土屋が参考書に顔を向けたまま、目だけ木村のほうに上げた。

 翔子もうるさそうにする。けど、竹井が椅子を引いて立ち上がった。体を伸ばす。

「いや。おれも疲れた。休憩にしないか?」

 それで、翔子も机にシャーペンを置いた。

「どうする?」

 と、わたしは聞いた。だれもなにも思いつかないらしい。

 翔子がテーブルに腕をおき、体を竹井に向けた。

「竹井。将来どうするの? 大学とか」

 首筋を撫でて、苦笑しながら竹井は言った。

「そうだな。さきのことはあんまり考えられないけど、とりあえずテニスを続けるかは迷ってる。大学のテニスサークルって、恋愛とか派手なところが多いらしいからな」

「えッ。竹井、モテるからいいじゃん!」

 わたしは声をあげた。竹井は苦笑したまま、なにも答えなかった。失言したことに気づき、わたしは恥ずかしくなった。

 竹井は木村を小突いた。

「おまえはどうだよ」

「おれ?」木村はわざとらしく自分を指さした。笑顔が引きつっている。「おれはそういうのないよ。テキトーに進学して、テキトーに就職して、テキトーにやってければいいよ」

「あんた、適当って言わなきゃしゃべれないの?」

 翔子がイライラと言った。

「いや、おれマジどうしたらいいかわかんないし。ゲームしてられればそれでいいよ。でもうちのオヤジクソでさ。オヤジは大学にいくなら勉強しろ、って言うけど、大学ってそういうんじゃないじゃん。でもオヤジは高卒だからそう言うのもわかるんだけどさ。でもおれの人生じゃん」

 木村の声はすこし震えていた。笑われると思ったらしく、わたしたちを見回したけど、みんな無言だった。それで照れたみたいに笑った。


 五時間も勉強すると、みんな疲れて自室に引きあげていった。

 夕食は七時の予定だった。その四十分ほど前に自室を出ると、正面の部屋から出てきた竹井と鉢合わせした。竹井は必要以上におどろいていた。

 べつに盗まれるものもないし、盗むひともいないけど、部屋に鍵をかける。手のなかにシールを貼ったキータグが覗く。わたしが鍵をかけるのを待って、竹井は言った。

「テニス部の合宿のときも鍵を渡されたんだけどさ、顧問がわざわざ〈マスターキーがあるから鍵なんか意味ないけどな〉って言ってきてヤな感じだったよ」

 ラウンジまで一緒に歩き、そのさきまでついてきたから、竹井を見た。

「なんか手伝おうと思ってさ」

 無言で廊下を歩く。竹井が唐突に言った。

「佐藤となんか話した?」

「えッ。なんで」

 脈絡なく翔子のことを話題にしたから、理解が遅れた。意味もなく質問を返してしまったことに気づく。気まずくなる前に、急いで言葉を継ぐ。「竹井は翔子と話した?」

 竹井は首筋に手を当てた。困ったような表情をしている。

「いや。ラウンジで別れてから会ってない」

 しばらく黙ってからポツリと言う。

「佐藤って笑うとかわいいよな」

 横目で見ると、竹井ははにかんだような笑みを浮かべていた。それで、わたしは竹井が翔子を好きだということを理解した。

 キッチンにいくと、もう土屋がいて、炊飯器が作動していた。べつにだれも期待していないのに、自分だけ料理ができるということに自尊心を刺激されたらしい。やけにハリきっていてウザったかった。

 玉ネギを二つに割って、みじん切りにする。サラダ油で、やはりみじん切りにしたショウガ、乾燥ニンニクスライスと炒める。カレー粉を入れて水で溶かす。あらかじめ水で戻してあったレンズ豆を加えて煮立てる。そうしているうちに炊飯器が蒸気音とともにブザーを鳴らし、米が炊きあがる。

 予告した七時になると、すでに全員が食堂に集まっていた。椅子の下にリュックサックを入れて、栗須も座っていた。

 カレーはおいしかった。米は多めに炊いてあって、木村と竹井は二杯食べた。

 食後、栗須はポケットティッシュで、カレーで汚れた口元をぬぐった。みんなを見回して言う。

「できたよ。さっきまでずっとかかってた。ちょうど時間だったから、印刷をスタートしてこっちにきた」

 竹井が皿洗いに立つ。木村は椅子に座ったままぼんやりしていた。竹井が木村を小突き、二人で皿洗いをしにキッチンにいった。

 全員でラウンジに集まる。栗須は六人分の印刷した原稿を配った。とくにタイトルを決めていなかったため、「無題」と呼ぶことにする。語り手の「私」と、探偵のロバート・オブライエンの話だった。

 けど、問題編と言ったのに事件は作中で解決していて、わたしは戸惑った。あとから読み終わったみんなも同じ感想らしく、なんとも言えない表情をしている。

 栗須は落ち着いていた。

「この推理小説は〈ノックスの十戒〉に則って完璧に書いてる。犯人がわかったらわたしの部屋まできて。手前の通路のいちばん前の右側。朝までわたしは部屋から出ないから」

 テーブルを立つ。そのとき、わたしを一瞥した。わたしは急いで言った。

「じゃ、正解は明日の朝食のときに発表ってことでいい?」

 栗須はうなずいた。廊下にいく背中に、木村が原稿をひらひらさせながら言う。

「これもう犯人がだれか書かれてんじゃん!」

「そうだよ」

 ふり返って言う。廊下に入ると、その姿は壁で見えなくなった。

 木村がわざとらしくのぞける。

「あー、期待してたのはこういうんじゃねェんだよな」

「せっかく作ってくれたんだから、そう言うなよ」

 竹井は木村をなだめたけど、自分ももう興味をなくしているみたいだった。

 白けた空気が漂う。土屋は原稿に顔を近づけて、まだがんばっているみたいだった。けど、わたしには解けると思えなかった。

 ポツポツという音が屋外からして、雨が降ってきた。雨はすぐ本降りになって、豪雨と言えるくらいに水勢を増した。空き缶で砂利を振ったような、強い雨音が天井から響く。

 雰囲気がダレる。翔子を残し、木村たちはそれぞれ自分の部屋に引きあげていった。

 翔子は廊下にいき、窓に手を触れた。なんとなくわたしもついていく。外は暗夜で、屋内の明かりが雨に反射している。ガラスに雨水が流れ、クモの巣のような枝条になっていた。

 翔子がふり返る。

「倫子。わたしの乳液、勝手に持っていかなかった?」

「そんなことするわけないじゃん。自分で忘れたんでしょ」

「ごめん。いちおう聞いただけ」

 喧嘩を売るにしても、脈絡がない。翔子は雨の降りしきる窓を見て、黙っていた。わたしが言葉の続きを待っていると、翔子は唐突に言った。乳液がどうこうというのは、ただの場つなぎだったらしい。

「あの推理小説の犯人、わかったかも」

「えッ」

 わたしは声をあげた。翔子はふり返った。

「あの推理小説の解決編には、あきらかにおかしいところがある。ウッドの妻が犯人だったら、手紙を残したはずがないってことが推理の根拠になってる。でも、ならどうしてスコットは手紙を残したの? 手紙を残したことはいいにしても、どうしてだれもそれにツッコまないの?」

 言われればそのとおりだった。翔子はラウンジに戻った。丸テーブルに置きっぱなしの原稿を取る。

「それを気にして読めば、もうひとつおかしいところに気づく。手紙の署名は左下に書いてあるけど、英語の手紙の署名はふつう右下でしょ。つまり、この手紙は縦書きで書かれてる。差出人が地元の住人なんだから、この土地は東アジアってことになる。手紙よりもっと強い証拠がある。小説の終わりで、主人公の上司が出社してくるころだって言ってるけど、もう午後の遅い時間だよ。いくら新聞社でもありえないでしょ。つまり時差だよ。

 だとしたら、イギリス在住のスコットに、手紙の内容がわからなかったとしてもおかしくない。スコットはその土地の出身だけど、イギリス人のコミュニティーで暮らしていたら、現地の言葉をおぼえないことも普通」

 意外な推理におどろく。わたしは反論した。

「でも、関係者はいいとしても、警察の人間もみんなイギリス人だよ」

 翔子は手を口元に当てた。

「そう。だからこの作品の舞台はイギリス統治時代の香港なんじゃないの?」スマホを出して、なにか検索する。「栗須はこの作品は〈ノックスの十戒〉に則ってるって言ってたでしょ。そう考えると、ウッドの妻が登場しないことにもべつの意味が出てくる。〈五、中国人は登場してはならない〉。同じ理由で、現地採用だっていう使用人も、手紙の差出人も、みんな犯人から除外できる」

 わたしは唖然とした。翔子は続けた。

「スコットが電話がかかっていたときに、どこにいたのかも予想できる。〈三、秘密の部屋や通路はたかだか一つしか許されない〉。イギリス統治時代の香港の商業って言ったらアヘン貿易でしょ。それ自体は合法だけど、後ろ暗いことをしててもおかしくない。秘密帳簿なんか置いてる隠し部屋にいたんじゃないの? で、そのことを話せないから、スコットはアリバイを証言できなかった」

 作品の構図がどんどん反転していく。

「スコットの出生にも気になるところがある。スコットの名前はカスターで、弟の名前はポラックス。ググったけど、双子座の元ネタになった、ギリシャ神話の双子がカストールとポルックス。その英語読みがカスターとポラックス。ポラックスはスコットの銀行預金を詐取したって書かれてるけど、それも双子だからできたことでしょ。〈十、双子は読者がその存在を予想できる場合を除いて登場すべきではない〉。

 そうすると、スコットの母親が、スコットとポラックスを一緒に育てることを反対されたことも、べつの意味になる。双子は忌子でしょ。スコットの母親がウッドを殺したんだとしたら、スコットとポラックスを一緒に育てたせいで、迷信どおりに凶事が起きたことになる。〈二、超自然的な力を導入してはならない〉。

 もちろん、語り手の〈私〉も犯人じゃない。〈一、犯人は物語の初期から言及されている人物でなければならず、かつまた、読者がそのものの考えを知ることができる人物であってはならない〉」

 わたしは呆然とした。翔子は手にしていたスマホを見せた。けど、見せたいのは画面じゃなくて、スマホそのものらしかった。

「そもそも、電話のアリバイトリックがよくわからなかった。かけたのが固定電話なのかスマホなのかもはっきりしない。かけた地域だけ特定したって言ってるからスマホっぽい。けど、植民地時代が舞台なら納得がいく。〈四、最近まで未知だった毒物や結末で長い科学的説明を要する装置を使用してはならない〉。スマホが出てくるわけがない。つまり、犯人はその地区の電話からウッドを名乗って電話交換局にかけて、殺害された時間を誤認させた。

 これは意識したのかわからないけど、現代だったら令状もなくすぐ電話の記録を調べられるのはおかしい。あと、〈私〉と探偵は〈車を降りた〉って書いてあるけど、警察の車はわざわざ〈自動車〉って書いてあるから、この〈車〉は人力車なのかも」

 ここまで論証されれば反論できない。わたしは言った。

「つまり、この小説は専門用語で言う〈信頼できない語り手〉だってわけだね」

「叙述トリックくらい、わたしも知ってる」

 翔子は眉間にシワを寄せた。

「ここまで説明できるなら、もう犯人はわかってるの?」

「うん。消去法で犯人はオブライエン。ゴードンはわざわざ、いままで寝てただろうことが書かれてる。つまりアリバイがない。オブライエンは午前中、ホテルのバーで話してたんでしょ? オブライエンはウッドを殺害したあと、ホテルのバーにいって話し相手を探した。それで〈私〉と話しているときに、ウッドを装った電話をかけにいって、アリバイをつくった。これが真相」

「でも、それは〈七、探偵みずからが犯行を犯すべきではない〉のルールに反してる」

 翔子は首を振った。

「だからオブライエンは探偵でも、探偵役じゃなかった。探偵役は〈私〉の上司のケーン部長じゃない? 最後に一部始終を話したって書いてあるし」

 完璧な論証だった。けどわたしは落ち着かない気分だった。どうして栗須がこんな問題編を書いたのかがわからなかった。これを面白がれるのは「ノックスの十戒」に精通しているわたしくらいで、今日の推理ゲームには向いていない。

 わたしは浮かない顔をしていたんだろう。翔子は自分の足元を見ていたけど、そのまま目だけを上げた。

「これ、栗須から倫子へのメッセージなんじゃないの。倫子、栗須のことを名探偵みたいに思いたがってたでしょ」

「どんなメッセージ?」

「それは自分で考えなよ」

 翔子は怒ったように言った。窓の外を見る。

「部屋に一人でいると不安だから、わたしはしばらくラウンジにいる」

 ラウンジに戻ると、丸テーブルにかけてスマホをいじりはじめた。わたしは自分の部屋に引きあげた。

 客室は手狭な部屋だ。奥行のほうが長い。扉の左手にシャワートイレの内室があり、部屋の一部を占めている。奥にベッドが置かれていて、クリーニング後らしいシワのないシーツがかけられている。反対側に簡単なライティングデスクと椅子がある。その奥にクローゼットが固定されている。

 わたしはリュックをベッドの隣に放っていて、それだけが殺風景な部屋で浮いていた。

 シワひとつないベッドに、仰向けに体を投げだす。天井を仰いで息をおおきく吐く。

 考えてみれば、五月に栗須と知り合ってから、まだ三、四ヶ月しか経っていない。わたしが栗須のなにを知っているというのだろう。出会ってからいままでの栗須のことをふり返る。そうすると、栗須がなにを伝えたかったのかあっさりわかった。

 ベッドから跳ね起きる。わたしははやる足どりを抑えながら、土屋の部屋に向かった。ドアノブと鍵穴がついているだけの、のっぺりとしたドアをノックする。

 鍵を回すガチャッという音がしてから、ドアが開く。土屋はわたしの顔を見ておどろいた。なにか言うのを待たずに尋ねる。

「土屋。全国模試の日に机を校庭に並べたのはきみ?」

 わたしの言うことの意味がわからないらしい。土屋は表情を困惑させていた。

「なんの話だ?」

「五月に校庭に机が並べられてた事件があったでしょ」

 土屋は記憶を探るようにして、間延びした声をあげた。

「あー。そんなこともあったな。それがどうしたって?」

「もういい」

 説明されず、怒ったような土屋を残して、わたしは通路を戻った。自分の部屋に入り、鍵をかける。ベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆う。

 探偵役が犯人だった。

 全国模試の日に机を校庭に並べたのは、栗須だった。それを自分が推理で真相をあばいたように見せかけた。あの推理小説はそのことを伝えるために書かれた。

 けど、それがどういう意味かはわからなかった。

 わたしはベッドに座ってじっとしていた。どれくらい時間が経ったかわからない。重機で家をブッ潰すような轟音がした。同時に地面が揺れる。

 地鳴りはすぐおさまった。気になり、ラウンジにいく。翔子は丸テーブルにかけたまま、心配そうにスマホを見ていた。

「地震?」

 と、尋ねる。

「地震は起きてないみたい。でも、この地域に大雨警報が出てる」

「じゃ、いまの揺れはどこかで土砂崩れでも起きたんだ」

 普段のわたしなら「嵐の山荘」とでも騒ぐところだけど、自然災害の恐れが上回ってそれどころじゃない。

 不安だけどどうすることもできない。わたしと翔子でしばらく話していた。三十分ほどしてスマホが鳴った。知らない電話番号だ。

「はい」

 出ると、中年の男の声がした。

〈もしもし。本木倫子さんでしょうか。こちら秩父警察署警備課の沼田と言います〉

 予想もしなかった相手に混乱する。落ち着いて話を聞くと、ここの近くで崖崩れが起きたらしい。現状、怪我人などはいないそうだ。崖崩れでこの建物に通じる山道が塞がっているらしい。

 被災者がいるということで、朝になり、天候が回復し次第、復旧作業をはじめるそうだ。被災者とはわたしたちのことだ。まるで実感がなかった。こちらからも、宿泊者の全員の無事を確認することを約束する。これから沼田とわたしが連絡役になり、随時、情報交換をするということで通話を終えた。

 わたしはため息をついた。翔子に事情を話す。翔子は皮肉な表情をした。

「こういうシチュエーションって、倫子がよろこびそうだと思ってたけど」

「現実にその立場になると、面白くもなんともないよ。復旧作業がいつ終わるかもわからないし。食料だってあと二食分しかないんだよ?」

 ボヤいても仕方ない。みんなを集めて事情を説明することにする。翔子に聞く。

「だれか食堂とかにいった?」

「ううん。解散してからだれもこなかった。みんな自分の部屋にいるはず」

 みんなを呼びにいく。栗須の部屋のドアをノックする。反応がない。後回しにして、竹井、木村、土屋を順々に訪ねる。ラウンジに戻るとき、また栗須の部屋のドアをノックしたけど、反応はなかった。ノブをガチャガチャと回すと、鍵がかかっていた。もしかしたらわざと無視しているのかもしれない。とりあえず栗須を残して、ラウンジでみんなに崖崩れのことを話す。

「栗須さんは?」

 土屋が聞くから、翔子は栗須が客室にいるはずだということをあらためて言った。

 木村が自分の太ももをパンパンと叩く。

「おれ、道路がどうなってるか見てこようか?」

「やめろ。危ないだろ」

 竹井がめずらしく怒ってとめる。木村はごまかし笑いをした。

 雨音がおおきく聞こえる。土屋が気を回したように言う。

「やっぱり、栗須さんも呼んだほうがいいんじゃないか?」

「そうだね。寝てるのかも」

 自分で部屋を訪ねるように言っておいて、寝てしまうことはないだろう。なにか意地を張って部屋に閉じこもっているのかもしれない。だとしたら、ムリにでも崖崩れのことを教えておいたほうがいい。

 マスターキーで部屋の鍵は開けられる。そのまま廊下に直行しようとして、わたしは方向を変えた。事務室にいく。いちおうスペアキーを使うことにする。マスターキーで部屋の鍵を開けられたら、いい気分はしないだろう。

 事務室でキーボックスを開ける。フックに鍵が二本ずつ下がっている。使っている客室のところだけ、鍵が一本だけ下がっている。わたしは栗須の「W-10」の鍵を取った。

 廊下を通り、栗須の部屋のドアの前に立つ。なんだかイライラしていた。鍵を差しこもうとしても入らない。鍵穴に何度かぶつけて、上下をまちがえていたことに気づく。気が急くのを抑えて、あらためて鍵を差しこむ。鍵を半回転させる。キータグのツルツルとしたプラスチックの板面が、いやな感じをさせた。

 ドアを開ける。電気は点けっぱなしだった。部屋の奥に進む。一見して、栗須は見つからなかった。すぐ床に仰向けにだれかが倒れているのに気づく。

 小学生くらいの背丈で、花柄のワンピースを着た栗須が、仰向けに倒れている。ワンピースの前面は血でぐっしょりと濡れていた。それだけ大量の血を見たことがなかったから、水かなにかで濡れているように見えた。顔が耐えるような表情で固まっていて、目がガラス玉のように周囲を反射していた。

 栗須は殺されていた。


 殺されているな、とまず思った。それから、なにかのトリックを疑った。栗須はまだ生きていて、特殊メイクかなにかで死体を偽造したということだ。けど、どう見ても栗須は死んでいたし、その死体はあきらかに栗須のものだった。思考がなにも浮かばず、ただ翔子たちを呼ぶために向きを反転する。それから急に壁が近づいてきた。壁に思いっきり体を打ちつける。どうしてそうなったのかわからず、体を壁から引き剥がそうとしたけど、なにかに押さえつけられているみたいに離れなかった。

「倫子!」

 頭上で声がする。視線を上に向けると、翔子が立っていた。それでわたしは自分が壁にくっついているのではなく、床に倒れているのだということに気づいた。

 翔子の叫びを聞いて、ドタドタと木村たちが駆けつける。木村たちは部屋の前で立ち尽くしたまま絶句していた。

 わたしは自分の足元を見た。わたしの視線の高さで、栗須の靴下を履いた足裏が、床に放りだされているのが見えた。

 それを見た瞬間、わたしは栗須が殺されたということを実感として知った。

 自分でも訳のわからないことを叫ぶ。血まみれの栗須を抱きおこそうとして、翔子にとめられる。翔子を突き飛ばす。わたしは背が高い上に、パニックで力も出ていた。木村と竹井、土屋の三人がかりで、ようやくわたしを取り押さえることができた。

 床に座りこんだまま、三人に部屋を引きずりだされる。わたしは泣きじゃくっていた。

 ラウンジは白い照明が広い部屋を明るくしていて、その人工的な光が寒々しく見えた。

 わたしたちは離れて座り、ただ呆然としていた。涙はいつの間にか止まっていた。頬に涙が乾いた跡の感触が残っていた。

 土屋が言いにくそうに口にする。

「警察に連絡しないと…」

「一一〇番通報するより、待機してる警察署のひとに連絡したほうがいい」

 わたしは無気力に言った。半分、自動的に言葉が口に出ていた。

 みんながわたしを見る。わたしはスマホを出した。着信履歴から沼田に発信する。数回のコール音のあとに沼田は出た。背後にひとのざわめきが聞こえる。

〈沼田です。本木さんですね。どうしましたか〉

「あの、ここにいるひとの安否を確認したんですけど、ひとが死んでて…」

〈えッ〉沼田が声をあげる。メモかなにかの用意をしているらしく、ガタガタという音がする。背後のひとのざわめきが一斉に聞こえなくなる。沼田が黙るように合図したのだろう。〈それは崖崩れに巻き込まれて亡くなったということですか。いつ、どこで発見しましたか〉

「そうじゃないんです。殺されてて…」

 声が裏返った。嗚咽がこみ上げ、しゃべれなくなる。みんなが注目している。土屋が近づいてきた。土屋も焦っているはずなのに、わたしがスマホを渡すまで待ってくれた。あとは土屋が応対した。通話を切る。

「雨があがり次第、迎えのヘリを出すって。それまで集まって動かないようにって言ってた」

 みんなを見て言う。

 木村が甲高い声で「それだけかよ」とつぶやいた。

 翔子がスマホを見る。

「雨は明け方にはやむって。いま十一時半だから、あと六時間くらいだよ」

 だれもその言葉に答えない。重苦しい沈黙が続く。

 しばらくして、土屋が沈黙を破った。

「このなかに殺人犯がいる」

 ほかのみんなは責めるような目で土屋を見た。けど、なにも言わなかった。それはだれもが意識しながらも、考えないようにしていたことだった。でも、土屋の考えはそれとは違っていた。

「どこかからこの合宿所に殺人犯が入りこんだんだよ。籠城するか、中をくまなく点検したほうがいい」

 その考えは危機感を煽るものだったけど、みんなほっとしていた。自分たちのなかに殺人犯がいるよりは、危険な殺人犯が侵入したと考えるほうがいい。わたしはこの建物に機械警備が入っていることを言わなかった。

 竹井がソファから立ち上がる。

「よし。みんなで建物を調べよう。集団行動したほうがいい」

 そう提案する。たぶん不安を紛らわしたかったんだろう。けど、それはみんな同じだった。

「わたしがマスターキーを持っているから。わたしが先導する」

 そう言って、わたしは立ち上がった。

 そのまま玄関のドアをチラッと見る。やはり、鍵はかかっていた。一部屋ずつ室内を見ていく。トイレ、キッチン、事務室、倉庫、食堂。裏口のドアを見たけど、鍵がかかっていた。倉庫はコンクリートの打ちっぱなしで不気味だったけど、だれもいなかった。食堂の数多く配置された長テーブルの下も見た。テーブルと椅子の脚が細い縞模様みたいだった。

 客室を点検する時点になって、みんな緊張した。廊下の窓を調べる。どれも施錠されていた。廊下に一人が見張りに立って、残りで室内を調べる。

 最初に栗須の部屋を見る。シャワートイレを見て、クローゼットを開ける。ベッドの下まで覗く。栗須のリュックサックは几帳面に机の下に置かれていた。机に文具が出ている。

 文具と一緒に客室の鍵が置かれている。「W-10」のキータグが付いている。わたしは翔子と顔を見合わせた。もう一本のスペアキーは事務室のキーボックスにあった。翔子はずっと事務室に通じるラウンジにいて、だれもこなかったと言っている。「密室殺人」という言葉が心に浮かぶ。

 栗須の死体を見ずにいることはできなかった。顔は生気がなく、栗須が死んでいることをあらためて実感した。

 全部の客室を調べる。けど、どこにも部外者はいなかった。ラウンジに戻る。みんなの口数はさらに少なくなっていた。

 わたしはソファに座りこんだ。この推理小説じみた状況を、どうにか考えようとする。けど、思考の道筋をどう発展させても、「栗須が死んだ」という事実に遮られた。

 それで気づいた。たいていの推理小説は死体が見つかったところからはじまる。でも、本当は死体が見つかるのは始まりじゃない。そのひとの人生の終わりなんだ。

 もう推理小説は読めないかもしれない。突然、その考えが浮かんだ。

 これは現実だ。推理小説じゃない。栗須を殺した犯人が誰かわかったって、栗須が生き返ることはない。栗須の人生はだれかに殺されて終わったんだ。そのさきになにが起きても、栗須にあるのは過去だけだ。客室でだれかに刺されて、合宿所で小説を書いて、電車でこの地域まできて…

「わたしのせいだ」

 涙声が出る。

「わたしが推理ゲームなんかやろうって言ったから、栗須は死んだんだ」

 みんなも不安を感じているのに、混乱したところを見せたくなかったけど、わたしは喉から声を出して泣いた。

 翔子がわたしの前に立つ。

「ちがう。倫子のせいじゃない。犯人のせいでしょ?」

 なにも答えたくなかった。わたしは両手で頭を押さえたまま、首を振った。

 それからも翔子はなにかわたしを慰めることを言った。わたしは耐えきれなくなり、ラウンジを出た。翔子は追いかけてこなかった。

 憔悴して廊下を歩く。雨音が気に障るほど大きい。

 わたしは栗須の部屋にはいった。覚悟して死体を視界に入れる。殺人の犯罪現場を調べるなんてムダかもしれない。かえって科学捜査を妨害するだけだろう。半分、自暴自棄な気持ちで部屋を調べた。

 ハンカチで指紋を付けないようにすることはしなかった。ヤケになったからじゃない。現代の科学捜査の技術なら、どこに触ったか自己申告したほうがいい。

 シーツに血が散っている。軽くめくると、なかに包丁があった。これが凶器だろう。たぶんキッチンにあったものだ。

 あらためて栗須の死体を見下ろす。ワンピースをめくり上げる。いくつもの線状の刺し傷が腹についていた。犯人が致命傷を与えたか自信がなく、何度も刺したんだろう。

 じつは栗須が死んだように見えたのはトリックで、本当はどこかで生きているんじゃないか。わたしは自分が、そんなあるはずのない期待をしていたことに気づいた。

 犯人に腹部を刺されたとき、栗須はなにが起きたかわからなかっただろう。混乱するなか、否応なく命を奪われた。わたしは恐ろしいことに気づいた。ほとんどの殺人事件の被害者は、なにもわからないうちに、自分を殺す相手しかいない場所で死んだ。殺人事件の被害者はみんな孤独に死んだんだ。

 カチカチという音がしていた。顎が震えて、自分の奥歯が打ち合わさる音だと気づいた。

 机の引き出しを開ける。なかには手紙が入っていた。レポート用紙に書いたらしい。手にして読む。


〈この手紙を読むときには、すでにあなたは私の書いた推理小説の解答を聞いていると思います。

 私の書いた推理小説の解答は、探偵が犯人というものでした。これは、校庭に机が並べられた事件の犯人は私であることを言明するものです。

 事件の前に、私について説明させてください。

 あなたが知っている通り、私は冷たい人間です。他人を信用できず、社会に疎外されたように感じてきました。また、他人に頼らず、社会から孤立して生きようとしてきました。そして、自殺未遂を起こしました。私は心療内科に通院させられることになりました。そこであなたを見ました。

 あなたは診療所の待合椅子に座り、膝に文庫本を置いて、両手を組んでいました。世界の終わりを待つような顔で、泣くのをこらえながら、まっすぐ前を見ていました。それを見たとき、この子となら友達になれると思いました。

 あなたが推理小説のマニアであることは知っていたので、引っかける方法はすぐに思いつきました。あなたが自習室の休憩スペースを利用していること、自習室の利用者を把握していることから、あの事件を計画しました。計画は予定通りに運びました。誤算は、あなたが犯行を模倣し、校庭に机を並べたことだけです。

 あなたとの友人関係は楽しいものでした。ですが、関係が深まるにつれ、私は自分が過ちを犯したことに気づきました。私はあなたの友人でいることに値しない人間でした。

 あなたと私の友情は、全部偽物でした。

 騙していてごめんなさい。本当にごめんなさい。私に友人ができると一時でも錯覚させてくれたことを、許してもらえれば幸いです。

 栗須恋愛

 本木倫子様へ〉


 わたしは手紙を引き出しに戻した。

 栗須はわたしと友達になるために事件を起こしたことを悔いているみたいだったけど、そんなことは気にする必要はなかった。だって、わたしも栗須との話題がほしくて、模倣犯の事件を起こしたんだから…

 わたしは自分の部屋にはいった。ライティングデスクにかける。

 栗須を殺した犯人を見つけなければならない。栗須のためじゃない。犯人を捕まえても栗須は生き返らない。わたしのためじゃない。だれが栗須を殺したかわかったところで、どうにもならない。なにかもっと大きなことのために、犯人を見つけなければならなかった。

 警察が犯人を逮捕するならそれでいい。でも、わたしも最善を尽くさなければならない。

 わたしは持ち歩いているノートを取りだした。机に広げ、鉛筆を持つ。

 わたしは栗須のような名探偵じゃない。だから、推理するにはノートを助けに使う必要があった。

 高校に入学したときからいままでのメモを読みなおす。今年に入ってから書いたことは、栗須がなにをしたか、栗須がなにを言ったか、栗須のことばかりだった。

 最後のページに思考を書き出し、考えをまとめる。涙のしずくがノートに点々と水濡れをつける。それを無視してわたしは推理を続けた。

 ポケットに入れたままにしていたスペアキーを取りだす。鍵の本体とキータグは、安価なストラップ用のリングでつながっている。

 犯人を推理するメモを読みなおす。そこに書かれた犯人は、自分でも信じられないものだった。


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