第4話 信頼できる語り手

 予備校の授業は夜にまで及んだ。校舎は大宮駅から近い市街地にあった。大手予備校の支部で、高層階のビルだ。教室は広く、後ろに横一面の窓がある。照明のまぶしい室内に対し、夜景を映す窓は、黒く切ったようだった。

 わたしと翔子は教室の中ほどで授業を受けていた。

 翔子は黒い無地のシャツというラフな格好だ。教室を占める受講生たちも、夏モノのラフな服を着ている。このうちの何人かは浪人生で年上だということを考えると、体が緊張した。

 翔子はわたしに話しかけた。

「疲れた。夏休みの最後も学習合宿でしょ。もうあと半月か。失敗したかな」

「目下、すごい脚本を執筆中だから。家でダラダラするよりは楽しい経験にするよ」

 八月三十日から三十一日にかけて、わたしたちの通う埼玉県立朝霞東高校は、秩父山中の合宿所を借りて学習合宿をすることになっていた。といっても、受験勉強は建前で、本当はそのあとに推理ゲームをやることが目的だ。参加者もわたしたち三年G組のクラスメイトしかいない。

 わたしはその合宿の発起人で、いまは推理ゲームの脚本を書いていた。受験勉強の合間に進めている。

 幸い、と言うと語弊があるけど、わたしたちが所属する吹奏楽部は夏の地区大会で敗退して、つつがなく引退することができた。

 翔子はわたしの顔を見た。

「栗須さんは? 合宿に参加するの?」

 わたしは「ん」と声をあげた。

「まだ誘ってる。千川に頼んで、人数は追加できるようにしてもらってる」

 千川は合宿の引率兼講師だ。とっくに募集は締めきっていたけど、わたしから個人的に頼んでいた。

 わたしと栗須は学期末の七月からギクシャクして、いまでは音信不通になっていた。

 そのきっかけになる事件には翔子も関係してて、それで栗須のことも話していた。

 栗須は真相を知ったことを話すなと言っていたけど、わたしと翔子の仲なら気づかれるだろうから、自分から話した。

 その話のとき、わたしは「三崎と神田、どっちが助けたの?」と聞いた。

「神田」

「遊んでる風なのに、見かけによらないね。いや、見かけどおりだから素直に手助けできるのかな」

 翔子はイライラして言った。

「いいことをしたからっていいひとなわけじゃないでしょ。それで悪いことをしたら、今度は悪人だって言うわけ?」

「わかったよ。翔子は神田に感謝してるんだね。神田はいいひとなんじゃなくて、いいことをしたわけだ」

 ニヤニヤすると、翔子はムキになったことに気づき、恥ずかしそうにした。もう一ヶ月前のことだった。

 受講生たちが帰宅しはじめる。わたしは言った。

「合宿については期待してよ。〈パロサイ・ホテル〉くらいのもてなしをするから」

「なにそれ」

「〈御手洗潔〉シリーズの二次創作の公式アンソロジー、『御手洗パロディ・サイト事件』の続編。『御手洗パロディ・サイト事件』では、作中で出版されてる〈御手洗潔〉シリーズの二次創作のサイトが出てきたけど、『パロサイ・ホテル 御手洗パロディ・サイト事件2』では、客室の各室にプリントアウトされた二次創作が置かれたホテルが出てくる」

「聖書の代わりに南京事件を否定する本を置いてるアパホテルのほうがマシ」

 翔子はスパッと言った。

「たしかに『パロサイ・ホテル』もシリーズ外伝って言ったほうがいい位置づけだけどさ。書き下ろしもあって、そのなかではナット・キング・コールの『ネイチャー・ボーイ』を使ってるんだ。いいでしょ。〈御手洗潔〉シリーズでいちばん印象に残る曲は『浪漫の騎士』だけどね。石岡くんがつらい気持ちでいるときに、御手洗が〈陽気な奴でも聞こうよ〉ってかけるんだ」

 翔子はすこし真面目な顔つきになった。吹奏楽部なのに、と言うと皮肉っぽすぎるけど、翔子は音楽にうるさい。ただ、もっぱら聞くのはロックみたいだった。

 わたしは調子に乗って言った。

「でも作中でかけるのはレコードなんだよね。わたしも一度、LP盤で聞きたいって思ってるんだけど、いまじゃレコードプレイヤーすらないからね。音楽準備室に古いやつがあったじゃん。卒業までに中古レコードを探して、あれを使いたいね」

「はいはい」

 翔子は荷物をまとめて立ち上がった。


 わたしは新座駅を出た。夏日で日射しがまぶしい。

 学校で調べた栗須の住所は、雑木林の手前にあった。

 木造の二階建てで、瓦屋根を葺いている。板壁は鎧のようだ。板木が雨水を吸い、腐食している。一部の板木は剥がれている。接地した部分は苔むしている。築年数が数十年は経っていそうだ。

 本当に栗須の家か疑う。けど、赤錆びた鉄柵の門の、石積みがボロボロになった門塀に「栗須」という表札がかかっていた。

 チャイムはあとから設置したものらしく、真新しい。古い建物とのギャップが不自然に見える。

 ボタンを押すと、しばらくしてスピーカーが「はい」と言った。

 栗須の声だったから「書留です」と応じる。

 スピーカーのスイッチが切れるカチッという音がする。

 しばらくして、ドアから栗須が出てくる。半袖のシャツに長ズボンという格好だ。髪はやっぱりポニーテールにまとめている。子供が親に言われて応対に出たようにしか見えない。道路に出てキョロキョロする栗須の背中に、わたしは「久しぶり」と声をかけた。

 栗須はビクッとしてふり返った。わたしは板壁から背中を離した。

 門を閉じて、栗須はわたしのほうに近づいてきた。

「家に入れてよ」

 と、わたしは言った。

「帰って」

 栗須は無表情で答えた。

「そっか。手みやげはドアの前に置いておくから、あとで見て」

「なに?」

「ネコの死体」

「それは脅迫だから」

 栗須は疲れた顔をした。

「ネコの死体なら、ブティックとかにも売ってるじゃん」

「急に動物愛護運動家にならないで」

 わたしはニヤッとした。

「わたしたち、まだぜんぜん大丈夫じゃん」

 栗須はドアを開けたまま動きをとめていた。扉板は薄っぺらい。栗須は「あがって」と言った。

 玄関から廊下を見通すと、やけに雑然として見えた。栗須に案内されて廊下をいく。途中で和室を覗くと、その印象はよけいに強まった。

 畳敷きの和室で、部屋そのものも片づいていないけど、あちこちにキャンバスが立てかけられている。そのせいで散らかって見える。廊下もそうだった。

「親は?」

「水彩のスケッチに出かけてる」

「二人とも?」

「片親。母親ね」

 わたしは「あ」と声をあげた。

「ゴメン」

「べつにいい」

 栗須は廊下の突きあたりにあるドアに手をかけた。ドアは板木で安っぽい。ドアノブを握ったまま中を見せる。

 部屋は洋室だったけど、フローリングは剥がされて、板敷きが剥き出しになっている。そこにイーゼルが立てられている。ドアを開けた瞬間に、油臭さが漂ってきた。金具を組み合わせた棚が設置されている。画材や、布にくるまれたキャンバスが差されている。壁にはたくさんのキャンバスが立てかけられていた。

 栗須はドアを閉めた。「ママは画家だから。しかも油彩」と言う。

「すごい。芸術家の血だ」

 わたしは興奮した。

 栗須はうんざりした顔で天井を見た。

「絵よりカルチャースクールの講師の収入のほうが多い。わたしとしては、画家を辞めてこの土地を売ってほしい」

 階段を上がって二階にいく。手前にある部屋が栗須の私室だった。

 和室だ。畳にベッドを置いている。タンス、机という簡単な家具があるだけで、すっきりしている。予想外に本はない。けど、押し入れが開いていて、そこにファイルやコピー用紙の束がびっちり収まっていた。

 わたしと栗須は畳に腰を下ろした。わたしは両足の裏を合わせて、足先を両手で押さえた。

 白い壁に油彩画がかかっている。白地に円形をつくるように、黒の短い縦線と横線が無数に引かれている。

 わたしは油彩画を指さした。栗須の背後の壁だ。

「それ、栗須のママが描いたの?」

 栗須は深くため息をついた。

「だとしたら、いまごろわたしたちは大金持ちだよ」

 複製画らしい。わたしは栗須をじっと見た。

「ねえ。わたしたちまた会えない? 栗須が電話もラインも嫌いなのは知ってるけどさ。こうやってときどき家で会ったりすればいいじゃん」

「そのことはもう話した」

「なんでわたしにママの職業を教えたの? ほかのだれにも話したことがなかったからじゃない? この家に知り合いがくるのもはじめてなんじゃない? なのにどうしてわたしたちが友達でいられないなんてわかるの?」

 わたしは畳みかけた。

 栗須は弱々しく笑った。

「言ったでしょ。わたしは現実を知ってるんだよ。いま倫子は本気でそう言ってるだろうけど、一年、二年が経てば、わたしへの関心なんかほとんどなくなってる。個人の人生経験なんて、統計に比べればまったくアテにならないんだよ」

 わたしは栗須の嫌味で辛辣なところが好きだった。だから、そんな媚びた顔はいやだった。

「わたしたち、この広い世界でたった二人だけ出会ったんだよ。わたしたちみたいな人間が助け合わなかったら、どうしようもないよ」目を見る。「栗須。わたしのホームズになって」

 栗須は体育座りをして、膝を抱きかかえた。

「倫子には普通の友達ができるよ。ホームズなんかじゃなくてね。だって、倫子はムカつくところがあるけど、いいひとであろうとしているから。すくなくとも、それが大事なことだと思ってる」膝に顔をうずめる。「わたしはちがう」

「普通の友達じゃダメなんだよ。わたしにはホームズが必要なんだ」

 わたしはボトムスのポケットから丸めたノートを取りだした。私服でもノートはこうしてもち歩いている。ノートをパラパラめくる。

「わたしが企画した合宿で、推理ゲームをやるのは知ってるでしょ。いま、その脚本を書いてるんだけど。その参考のために〈探偵講義〉を考えたんだ」

 栗須が膝から顔を上げる。わたしは続けた。

「麻耶雄嵩の『翼ある闇』に、カーの有名な〈密室講義〉をなぞった、ハウダニットじゃなくてワイダニットに焦点を当てた〈密室講義〉が出てくる。この変格〈密室講義〉では、犯人が密室を構成する動機を七つ挙げてる。既存の推理小説に出てくる動機を六つに分類した上で、新種の動機だって七番目を挙げるんだけど。これで思いついたんだ。つまり、名探偵はなぜ探偵活動をするか」

「そんなの当たり前でしょ。殺人犯をほっといたらヤバいでしょ」

 わたしはポケットから出した鉛筆を振った。ペン先でノートを叩く。

「当たり前だと思ってるからこそ考えるべきだよ。

 第一は、好奇心のため。オーギュスト・デュパンからの伝統だね。考えてみれば、これは推理小説に大きな影響を与えてる。だってそのおかげで推理小説の探偵役は、典型的にはアマチュア探偵なんだから。ピーター・ウィムジィ卿、ファイロ・ヴァンス、ギデオン・フェル博士、その他おおぜいの探偵がそう。警察からの依頼があるけど、エラリー・クイーン、ドルリー・レーンもそうかな。

 第二は、依頼人のため。シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポワロとかの準・職業的探偵が当てはまる。ヘンリー・メリヴェール卿、ミス・マープルもそうかな。」

「依頼人のためって、金銭的報酬のためって言ったほうが正確でしょ」

 そう言い、栗須は眉を寄せた。

「それは三番目、四番目にしてある。諮問探偵のホームズにしろ、ベルギー警察の元警部のポワロにしろ、依頼されて調査するけど、金で動くわけじゃない。無報酬で調査することもある。金や好奇心も動機になるけどね。

 第三が、金のため。職業的探偵だね。私立探偵と刑事の場合があるけど、刑事は公務員だからまたべつにしておいた。私立探偵はあくまで金のためって言えるはず。コンチネンタル探偵社のオプ、フィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャーなんかがそうだね。名探偵でもネロ・ウルフはそうだね。

 第四が、社会的地位のため。刑事の場合だね。給料のためって言うよりは、もっと一般的に社会的地位のためって言ったほうが正確でしょ。たぶん年金暮らしができても働くから。無職は世間からの風当たりがキツいからね。フレンチ警部とかメグレ警視とかがそう」

 栗須は顎に拳を当てた。

「それでひとがうごく動機は出尽くしたと思うけど」

「もっと高尚な動機がある。第五が、正義のため。悪人を裁くとか、秩序を正すとかね。ブラウン神父がそうだね。法律より高い位置にある道徳で動いてるから、犯人を見つけてもかならずしも警察に逮捕させるわけじゃない。

 それから、分類として設けておかなくちゃいけないのが個人的動機だね。これが六番目。自分にかけられた冤罪を晴らすためとか、犯人を見つけて復讐するためとかね。傑作は多いけど、当然、シリーズものの名探偵はいない。有名なのは『マルタの鷹』のサム・スペードかな」

「今度こそ本当に出尽くした」

 わたしは鉛筆の尻を振った。

「この〈探偵講義〉は『翼ある闇』の〈密室講義〉から思いついたって言ったでしょ。『翼ある闇』の〈密室講義〉は、ひと通り六つの動機を挙げたあとで、七番目の動機を挙げてる。密室を構成するのは、密室殺人が起こるような状況を正当化するためだってことをね」

 栗須は両膝に顎をのせた。

「つまり、現代音楽ではコンサート会場でなにも演奏しなかったり、抽象絵画ではキャンバスになにも描かなかったりするけど、ただの無音や無色じゃ何にもならない。コンサート会場やキャンバスみたいな背景がいる。そういう主客転倒した、背景としての密室ってこと?」

 わたしは栗須の察しのよさにビビった。そのことを言うと、「これだけ前置きされればね」と退屈そうに答えた。

 話を戻す。

「探偵活動をする動機の七番目も同じ。探偵であるために探偵活動をするってこと。『翼ある闇』の名探偵のメルカトル鮎がそう。これはあんまり言いすぎるとメタ・ミステリーになっちゃうんだけどさ」

 わたしはあぐらから片膝を立てた。そこに腕をかけて、体を乗りだす。

「『最後の挨拶』で引退したシャーロック・ホームズが、ドイツ人スパイを逮捕するじゃん。コナン・ドイルの愛国心だって言えばそれまでだけどさ。わたしが考えるに、たぶんホームズはワトソンに会いたかったんじゃないかな。ホームズは引退してサセックスで養蜂業をしてたわけじゃん。けど偏屈だから、素直に〈たまには旧交を温めに訪ねてきてくれたまえ〉ってワトソンに言えなかったんだよ。だから探偵活動の手伝いって口実がほしかったんだ。それでワトソンに〈さすがホームズ。老いてはますます壮健だな〉って感心されたかったんだ。

 わたしはこれを稚気とは思わない。だって、ワトソンがただサセックスの家を訪問したところを想像してみてよ。ホームズとワトソンは昔話で盛りあがるだろうね。おたがいの近況も報告すると思う。ホームズの家の女中が、プディングとかスコーンとかを出したりもする。で、それだけ。夕方になれば、ワトソンは汽車の出る時間を気にしながらそそくさ帰る。ホームズは居間で独りきりになって、虚しさを感じる。テーブルには食べかけの重たいプディングとかパサパサのスコーンとかが残ってる。

 ホームズはこういうのが嫌だったんだ。けど、ホームズは鋭いから、会えばこうなることはわかってた。だから探偵に復帰したんだよ」

 栗須は膝の上からわたしを見ていた。わたしは言った。

「合宿にきてよ。それでわたしが脚本を書いた推理ゲームに参加してよ」

 栗須はしばらく膝に額を当てて考えていたけど、やがて顔を上げて「わかった」と言った。幼い顔を怒らせて言う。

「だけど、名探偵がどうこうとかいう理由じゃないからね。だって、わたしがいいって言わなかったら、倫子は毎日ここにくるでしょ」

 「わかってるじゃん」と、わたしは笑った。


 八月三十日、わたしはみんなより早めに家を出た。ただでさえ時間どおりに行動するのが苦手なのに、トラブルがあって、余計にバタついた。

 八時前に西武池袋線で飯能駅を降りる。合宿所の管理事務所は駅からすこし歩いたところにある。

 雑居ビルの一階だ。地階は駐車場を兼ねていた。停めてあるバンで送迎したりもするのだろう。

 管理事務所は手狭な個室で、事務机が一脚あるだけだった。机上に小さな書類棚がある。机の正面に黒い事務イスが置かれている。壁の上半分はガラス戸になっていた。

 管理人は高年で太った白髪の男だった。わたしは合宿所の賃貸借契約書にサインし、親の同意書を渡した。

 同意書は今朝、急いで用意したものだ。本当はわたしはただの付き添いで、千川がサインするはずだった。朝霞東高校はよくここの合宿所を利用するけど、教師と生徒のどちらが名義人になるかはまちまちみたいだ。吹奏楽部も手続きは部長がしていた。

 契約書のある欄に目を留める。

「あの、合宿所の名前が〈秩父盆地合宿所〉ってなってるんですけど。わたしが去年いったときは、建物に〈松籟館〉って書かれてたと思うんですが」

「ああ?」管理人はわたしを睨むようにしたけど、すぐうなずいた。「はいはい。松籟館ね。それは建物の名前ね。施設名は秩父盆地合宿所だから。看板にもそう出てたでしょ」

 建物が現実的なだけじゃなくて、建物の名前まで現実的だったのか。そう思い、わたしはガッカリした。

 管理人から施設の使用の説明を受ける。明け渡し、原状回復なんかの使用規則を聞く。それから鍵借用書にサインし、マスターキーを受けとる。

「警備会社と契約して警報をつけてますからね。ピッキングでもしようものなら、すぐに警備会社のひとが飛んできますからね。だから防犯は万全ですよ。その鍵をなくしたら施設の鍵をそっくり付け替えなければなりませんからね。なくしたら弁償は数百万円になりますからね。くれぐれもなくさないでくださいよ。

 だからあんまり窓をバンバン叩いたりしないでくださいよ。警報が鳴りますからね。わたしもこんなこと言わなくてもいいと思いますけどね。最近の若いひとはなにするかわからないからね」

 くどくど言う管理人に、半笑いで応じる。足早に管理事務所を出た。


 西武秩父駅の駅前に出る。幅広い道路が横たわり、開けている。駅舎は洒落たデザインで、改札から出口まで土産物屋が並ぶ。

 二本の電車に分けて合宿の参加者が集まる。早めにきたのは翔子、土屋、竹井。ギリギリにきたのは栗須、木村だ。わたしを加えた六人が参加者の全員だ。

 翔子はポロシャツにチノパン、スニーカーというラフな格好だったけど、いつもより気を遣っているのがわかった。竹井は白のシャツに紺のジャケット、スラックスで、飾り気がないけど爽やかに見えた。土屋はなんか中学生みたいなダサい格好をしてた。

 四人で荷物を足下に置き、残りを待っていると、栗須と木村がきた。

 栗須は花柄のワンピースを着ていた。意外に派手だな、と思っていると、それが子供服だということに気づいて爆笑した。耐えきれず、笑いすぎで、栗須を指さしたまま膝から倒れる。栗須は不快そうだった。

 木村は横縞のシャツにチョッキ、くるぶし丈のチノパンでムダにキメていた。

 参加者がそろったところで、翔子が言う。

「千川先生は?」

「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」

 翔子は不機嫌そうに言った。

「はやく言って」

「いいニュースは、千川は病院に搬送されてこられないって。家から出たら、動悸と目眩がして救急車を呼んだんだってさ。ただの不整脈だっていうんだから、人騒がせだよね。でも検査とかなんかで入院しなくちゃいけなくて、こられないって。というわけで、合宿所は貸切りでわたしたちは自由!」

 そう言い、わたしは拍手した。

 翔子は眉を寄せた。

「ちょっと。先生が病院に運ばれたのにいいニュースはないんじゃない?」

「悪いニュースは、千川が自分のSUVを出す予定だったから、ここから山頂まで歩きになったこと!」

「いいニュースだったね」

 翔子は即座に言った。

「千川を入れても六・五人じゃん? ミニバスを呼ばなくても、SUVで十分だって思ったのが仇になったね」

 栗須が「〇・五人ってなに」と文句を言うけど無視する。

 土屋がボソボソと言う。

「一応、お見舞いにいったほうがいいか電話で聞いたほうがいいんじゃないか」

 木村が「そんなんいいって、いいって!」と叫び、露骨に嫌がる。

「いや。聞けば断らざるを得ないから、言質をとっておける」

「おまえもヤベえな」

 全員が了解したところで、わたしは言った。

「みんなが喜んでくれたみたいでよかったよ。千川にジギリタスの葉の抽出液を飲ませた甲斐があった。ジギリタスは、種から抽出されるジゴキシンは不整脈、心不全の薬に使われるけど、葉から抽出されるジギトキシン、ギトキシンは目眩、嘔吐、不整脈を引き起こして、場合によっては命にかかわることもあるからね」

 みんなはポカンとしていた。

 しばらくして、翔子が頭を抱えて絶叫した。

「あー! いつかやると思ってた!」

 木村でさえ笑いが強張っている。

「おま、おまえ、それはヤバいだろ…」

「いや、冗談なんだけど…」

 わたしがいくら弁解しても、だれも信じてくれなかった。栗須だけがため息をついていた。


 西武秩父駅から秩父盆地の合宿所まで、歩いて二時間ほどだ。

 合宿所は水道、電気、ガスは開栓、開通してて、調理器具もある。けど食材はまったくない。だから山裾のスーパーで食料を買っていった。重い缶詰やレトルトは持っていきたくないから、米、パスタ、乾物を買っていく。重量があるものは、レンズ豆の缶詰と玉ネギだけを買った。

 市街地を抜け、佐久良橋を渡ると山麓に入る。山の傾斜に沿うように通る車道を歩く。アスファルトの左右に広葉樹が密生し、青々とした葉が茂っている。

 はじめのうちは山登りの珍しさもあって、みんな元気だったけど、一時間も歩くとイライラしはじめた。

「秩父ミューズパークに近いんだろ。駅からそこに巡行バスが出てたんじゃないか?」

 土屋がいまさら言う。

 秩父ミューズパークは運動場やキャンプ場を備えた大きな自然公園だ。朝霞東高校の運動部が合宿所を借りるときは、そこの運動場を使う。

「巡行バスは本数が少ないし、どのみち、そこからも一時間近く歩くよ」

 そう教えると、土屋は肩を落とした。

 わたしがショックだったのは翔子と竹井で、親密そうに二人で話していた。行きの電車で乗り合わせたはずだから、そのときにもう打ち解けていたのかもしれない。

 たしかに翔子と竹井はどっちも美形で、物静かな性格だ。親しくなるのはムリもない。けど、胃が重くなるような感じを抑えることができなかった。

 土屋と木村はあぶれて、二人で話をしていた。木村が話題の深夜放送のアニメを見ていて、共通の話題ができたらしい。土屋は監督や脚本家の話をしたいみたいで、木村はストーリーについて自分の意見を言いたいみたいだった。だから会話は噛みあってなかったけど、わりと盛りあがっていた。

 栗須は背中を丸めてノロノロと歩いていた。体格差を考えて、一人だけ買い物の荷物は持っていない。

 わたしは玉ネギをボールのように手のひらで弾ませながら言った。

「そんな深刻そうにしなくても、栗須は小柄なんだから、いざとなったらだれかが運んでくれるよ。そうだ。歩けなくなったらわたしの胸ポケットに入れてあげる。そしたらポケットの縁を掴んで頭を出して、地面を見て〈わあ。すごく高い〉って歓声を…」

 栗須を見ると、殺気立った視線を向けてきたから黙る。

 二時間近く経って、いよいよみんなの口数が少なくなる。岩肌が露出した崖が多く、道が曲がりくねっているから、なおさら長く感じる。もう目的地に着くはずだという焦りが口を重くする。

 木村が山道の片側を覆う崖に手をつく。

「こんなん本当に登れんのかよ」

 アスファルトの路面に、崖から小石がパラパラと降ってくる。

 わたしはみんなの気を紛らわせるために話をした。

「推理ゲームは講義が終わった午後十時からやる予定だったから、脚本もそのつもりで書いてきたんだよね。一時間か二時間は前倒しするとしても、それまで自由時間ってことでいい?」

 ばらばらと賛同の声があがる。わたしは続けた。

「じゃ、いまのうちに推理ゲームのルールを説明しようか」

「ルールはゲームをはじめる直前にもするでしょ。くり返しになるんじゃないの?」

 翔子が反論する。わたしは言った。

「いまから説明するルールは、今日の推理ゲームだけじゃなくて、推理小説すべてのルール。〈ノックスの十戒〉だよ」

「〈ヴァン・ダインの二十則〉と並ぶ推理小説の規則だよな」

 土屋が得意そうに言う。

「〈ヴァン・ダインの二十則〉は独善的だね。推理小説の黎明期に、アンソロジーの序文でヴァン・ダインが『推理小説論』、セイヤーズが『探偵小説論』を書いて、これが推理小説のマニフェストとして強く影響した。具体的にはフェアプレイを謳った。で、ヴァン・ダインは〈ヴァン・ダインの二十則〉なんてものも書いた。

 ノックスの〈ノックスの十戒〉もアンソロジーの序文で書いたんだけど、これはもっと冗談めかしてる」

 わたしはズボンのポケットから丸めたノートを引きだした。目的のページを探す。

「ダメな探偵小説の例もすごいよ。主人公がナイトクラブにいったとする。すると美女がすれちがいざまにささやく。〈お願いだから、クロムウェル・ガーデンの五六八番地に近づかないで。それから、ダウン・ストリート地下鉄駅の階段で暴漢に襲いかかられたら、忘れずにピンク・スポットの合言葉を言わせるのよ〉。そんなことを言われても、クロムウェル・ガーデンなんかに出かけるはずがない。けどダメな探偵小説だとそうして、本の終わり近くまでスパイとかギャングとかと大騒動をくり広げたあと、作者も読者もナイトクラブのことなんか忘れてるってさ」

 わたしはニヤッとしてみんなの顔を見たけど、だれも笑っていなかった。仕方なくノートにメモした「十戒」を読む。

「一、犯人は物語の初期から言及されている人物でなければならず、かつまた、読者がそのものの考えを知ることができる人物であってはならない。

 前文についてはいいよね。ダメな推理小説だと犯人が急に海外から帰国してくることが多いんだってさ。後文については、クリスティーにいくつかの傑作があるけど、推理小説家が犯人に読者を迷わせるのはズルいって。

 二、当然のこととして超自然的な力を導入すべきでない。

 隠して付けたモーターエンジンでボートレースに勝つみたいなもので、意味がないって。もっともだね。

 三、秘密の部屋や通路はたかだか一つしか許されない。

 許される場合も、合理的な理由を用意しとけってさ。だって、普通の家に秘密の部屋や通路があるとしたら、建築費がかさむだけじゃなくて、完成するころには隣近所に知れわたってるはずだから。

 四、最近まで未知だった毒物や結末で長い科学的説明を要する装置を使用してはならない。

 フェアじゃないし、解決編で長々しい科学の講義を拝聴しなければならなくなるって。

 五、中国人は登場してはならない。

 ギャグ。現代だと差別的すぎるな」

「イギリスが連合国側でよかったね」

 翔子が無表情で言った。わたしは続けた。

「あとは十番目を除いて探偵役に関するルール。

 六、探偵は偶然に助けられたり説明できない有効な直感を得たりすべきではない。

 ノックスも自分で注文が厳しすぎるって言ってるけど、それでも誠意を尽くせって。だって、探偵が直感で大時計のなかから失われた遺言書を見つけたりすれば、それは探偵が隠したに決まってるから。

 七、探偵みずからが犯行を犯すべきではない。

 これは〈探偵〉の定義によるけどね。やっぱりクリスティーに成功作がある。

 八、探偵は発見した手がかりは明かさなければならない。

 探偵が突如として身をかがめてなにかを拾いあげる。そして、それを友人に見せもしないで〈おお、これは!〉とつぶやくと真剣な顔つきに変わる。こういう推理小説はゴミだって。

 九、探偵の〈引き立て役〉、いわゆるワトソンはその考えを読者にすべてさらさなければならない。その知能はごくわずかに、ごくごくわずかに、読者の平均を下回っていなければならない。

 このルールはべつになくてもいいけど、完璧を期すためにはあったほうがいい。いわゆるワトソンはスパークリング・パートナーで、用意しておけば、読者が戦いに敗れたにしても〈負けたな。だがおれもワトソンほどの間抜けじゃないのがわかったから、良しとしておこう〉って思えるわけ。

 十、双子は読者がその存在を予想できる場合を除いて登場すべきではない。

 フェアじゃないし、トリックとして安直。超人的な変装能力も同じ。これが〈十戒〉の全部」

 わたしは両手を広げた。左右の手にそれぞれノートと鉛筆を持っている。肘には玉ネギを詰めたビニール袋をぶら下げている。

「ルールの九番目が酷いよね。このせいで、たとえばわたしなんか、いわゆるワトソンをつとめられないんだから」

 土屋が甲高い声をあげる。

「九番目がなんだって? 知能テストの文章問題か?」

「倫子には解けなかったみたい」

 翔子が冷たく言う。

 わたしは栗須にウインクしたけど、無視された。竹井が気弱そうに笑いながら言う。

「でも、それならルールでも、結局は冗談なんだよな?」

「そうでもない。探偵小説の黄金時代を代表する、イギリスの探偵小説クラブは入会儀式にノックスの十戒を使ってる」

 ノートをパラパラめくって目的のページを見つける。

「入会儀式の宣誓はこう。〈汝の探偵は、神の啓示、女の勘、まじない、不正、偶然、または神の御業に頼ったり、それを利用したりせず、汝が与えた機知を使って、提示された謎を完全に解き明かすと誓うか?〉〈重要な手がかりを読者に隠さないと、厳粛に誓うか?〉〈ギャング、陰謀団、殺人光線、幽霊、催眠術、落とし戸、中国人、超人的な犯罪者、精神異常者を出すときは節度を持ち、科学的に知られていない謎の毒薬はけっして使わないと誓うか?〉〈キングズ・イングリッシュに敬意を表すか?〉」

 パタンとノートを閉じる。

 話しているうちに「この先 秩父盆地合宿所」という立て看板が現れた。

 森林を切り拓いた土地に、白い建物が見えてくる。わたしたちは口々に安堵と疲労の声をあげた。正面にスライド式の門扉がある。門塀に「秩父盆地合宿所」という、プラスチック製の看板が貼られている。マスターキーとはべつの鍵で開錠する。

 ゴロゴロと音を立てて門を開く。建物まで砂地が広がっている。駐車場を兼ねているらしく、森林の間際に縁石が置かれている。車両で日光が遮られるため、そこだけ雑草が茂っていない。

 合宿所は鉄骨コンクリート造の平屋だ。マスターキーで玄関の鍵を開け、なかに入る。

 玄関がそのままラウンジになっている。白い壁紙に、クリーム色のタイルマットだ。丸テーブルがあり、その周りに椅子が並べられている。金属製で、褐色のビニール皮革が張られている。

 壁際には黒いビニール皮革のソファが置かれている。革張りは破れ、黄色いスポンジが覗いている。壁に大きな写真が額装してかけられている。木だ。ガラス板に「秩父盆地 河岸段丘地形 アカマツ」と印刷した紙が挟まれている。同様に「秩父盆地 尾田蒔・羊山丘陵 モミ」、「西秩父 両神山 トウヒ」という写真の額縁がかけられている

 三つの額縁の上には、板木の「松籟館」という名札がかけられていた。

 わたしたちはドサドサと音を立てて荷物を床に置いた。ラウンジは建物の左手前にある。右手と正面に廊下がある。窓は右手の廊下にあった。それだけでは薄暗いから、照明のスイッチを入れる。ついでにエアコンもオンにする。

 右手の廊下が客室に通じているのだけど、いまはいい。正面の廊下が左側にトイレ、キッチン、事務室、倉庫、右側に食堂がある。ちなみに水回りは客室の各部屋にシャワートイレがある。

 木村が床に横たわって、顔をタイルマットにべったりつける。靴は玄関で脱ぐけど、それにしてもだらしない。

「メシメシ。はやくメシにしてくれよ」

 まともに料理ができるのはわたしと土屋だけだった。

 キッチンで調理器具を確認する。大鍋でパスタを六人分茹でる。塩を目分量でバサバサと入れる。深底のフライパンにゆで汁を移し、スキムミルクをカップ三杯、粉チーズをカップ二杯半、バカッと空ける。そこに塩コショウを振る。

 外よりはマシだけど、屋内も暑いから熱気が堪らなかった。

 オタマで大鍋をかき回しながら、土屋が言う。

「レンズ豆、いまのうちに水で戻しておくか?」

「好きにして」

 料理しないメンツが食堂に食器を運び、準備はできた。

 食堂も内装はラウンジと変わらない。折り畳み式の長テーブルが二脚ずつ、四列並べられている。各テーブルに椅子が四脚ずつ入れられている。

 わたしたち六人は手前のテーブルについた。簡単に挨拶して食べはじめる。パスタを飲みこみ、コップの水で喉に流しこむと、ようやくひと心地ついた。

 食後は翔子と竹井が席を立ち、食器を洗った。たぶん皿洗いをしながら話でもしたんだろう。

 椅子の背もたれに腕をかけ、ぼんやりとする。それから、常用薬のコンサータや、そのほかの薬を家に忘れてきたことに気づいて舌打ちした。

 けさバタバタしたせいだ。それから、薬よりももっと大事なものを忘れたことに気づき、顔から血の気が引いた。

 推理ゲームの脚本を家に置き忘れた。

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